『マウリツィオ・ポリーニ リサイタル』 -2018年10月18日 サントリーホール-
当初発表されていたシェーンベルク、ベートーヴェンのプログラムがショパン、ドビュッシーに変更され、当日になってさらにショパンの一部の曲が変わったことを知らされて、さすがに大丈夫か、ポリーニ?と不安になったのも束の間、蓋を開けてみれば、そんな心配を払拭するどころか、明らかに彼の演奏が以前とは違うフェイズに入ってきたことを示す、圧巻のパフォーマンスだった。
前半のショパンで驚いたのは、モティーフやテーマが、息をするような自然な呼吸で弾かれたことだ。ノクターンや子守唄の息の長いメロディも、マズルカの揺蕩(たゆた)うようなリズムも、全てが肉声で歌われるような息遣いを伴ったものとして、聞こえてくる。ポリーニの演奏はかねてから、演奏者の主観的な解釈や心情を託すよりは、ピアノを十全に鳴らせばその音が音楽を自ずと語り始める、という性格のもので、そういう意味では指と鍵盤が奏でる音楽、器楽的な音楽という側面で際立った演奏だった。だから、この夜の彼のピアノから、人の声が発するような抑揚をもった歌が流れ出してくるという事態には、驚くと同時に、心動かされた。これはもうヴィルトゥオーゾの演奏というような次元ではない。
後半のドビュッシー『前奏曲集第一巻』冒頭の『デルフの舞姫たち』でも、前半に感じた自然な抑揚をもった流れが持続している。あの歌心の横溢したショパンのみならず、複数の要素が立体的に重ねられたドビュッシーの音楽までも、こういう息遣いで奏でられる。そのことにわくわくしながら聞いている先に、さらに息を呑むような瞬間が訪れる。主題が左手から右手へとより高い音域に移っていく局面で、中低音部で主題を支えるゆったりしたフレーズが、音楽の高揚に合わせるように加速していくのだ。ポリーニの演奏でこんなに大胆なアゴーギク(テンポの揺り動かし)は、今までに経験したことがない。けれどそこからは、古代ギリシャの舞踊のステップを緩やかに踏んでいた踊り手が、思わず知らず足取りを速めて、身内に湧き立つ荘厳な興奮に身を任せる姿が鮮やかに浮かび上がって来る。そんな音楽の像を、ポリーニの聴衆が想像したことはあっただろうか。
『雪の上の足跡』もドビュッシーの書いた「足取り」の音楽だ。低音部で雪の上に重い足取りを刻みながら、高音域では過去への切ない郷愁を思わせるメロディがとつとつと歌われていくけれど、最後には足の踏むリズムが天に昇るように高音部に消えて行く。それを奏でるポリーニの音の運びには、聞く側が息をするのも忘れて全身を耳にするほかないほどの、祈るような思いつめた調子があった。『アナカプリの丘』や『音と香りは夕べの大気に漂う』も、このピアニスト特有の高貴な輝きに満ちた音色に酔いつつも、音が薫りたって消えていく、その儚い行方を追うような切羽詰まった表情に、息を呑まされる。
彼の超ハイスペックなエンジンが唸りを上げて音楽を走らせる局面でも、以前とは違う繊細なニュアンスが加わってくる。『西風の見たもの』やアンコールの『花火』(前奏曲集第二巻)では、凄まじい音塊の疾走が恐るべき精度で弾かれながらも、それは生きて呼吸をしている音という感触で描きだされる。同時にそれは彼方からやって来て彼方へ去っていく音の消息を、追って行きたくなる余韻をたっぷりもって弾かれていた。
こういう演奏を、ただピアニストの成熟という言葉で形容しても、何を言ったことにもならないけれど、ポリーニの演奏に加わったのが、音楽に対するある種の敬虔さだ、と言ったら、少しはこの夜の演奏に言葉が近づけるだろうか。