旅する胃袋
あの日私は美しいピレネー山脈を眺めながら、
「ああうどんが食べたい。
昆布と鰹の出汁が効いたうどんが食べたい...」
と切望していた。
目の前にはアルプスの少女ハイジのロケ地に使われそうな美しい山と高原が広がり、頭上には青い空。隣では同じタイミングで休暇を取ってくれたパートナーが優しく微笑んでいた。
こんな絵に描いたような世界にいるというのに、なぜ私は今よりによってうどんが食べたいんだ...。
絶望感に襲われた。
ヨーロッパに住み、現地の文化に馴染み、その国の言語を話してもなお「お前のルーツを忘れるな」とばかりにキリキリと痛む胃袋。それはどこへ行っても、何を見ても亡霊のように付いてまわった。
「食べたいのに食べられない」という小さな諦めと我慢は澱のように体内に蓄積していき、時折爆発することがあった。
それは時と場所を選ばず発生し、そう、例えばピレネー山脈の目の前だったりして、「そんなこと言ってもここにはコーヒーとクロワッサンしか無いよ」と哀れなパートナーをオロオロさせたりした。
思えば私はヨーロッパ滞在中絶えずこの胃袋に呪われ続け、いつも不満を抱えていた気がする。
ワインとチーズで一見優雅な晩餐を楽しみつつ、「でも本当は日本酒とイカの塩辛の気分なんだよなあ」と塩辛い涙を流したり、パルミジャーノチーズてんこ盛りのパスタをフォークで弄びつつ「うぅ...これが山菜うどんだったら...」とフォークを持つ手に無駄な力を込めたりした。
日本はラーメンもパスタもインドカレーもなんでもあって気分次第で選び放題だし、ひとつひとつのクオリティーが高くてお値段もリーズナブルなのが本当にすごい。グルメの国だと知った。
そしてそんな日本に戻った後、私はスペインの食生活が恋しくなるとは予想していなかった。
意外なことに、というより慣れとは恐ろしいもので、帰国してしばらくはワインとオリーブが恋しくなったり、チーズの値段の高さに目が回ったり、スペインでしか手に入らない野菜が急に食べたくなったりした。
数ヶ月するとその状態も収まり、やはり日本生まれ日本育ちの私には日本の食事が一番、と思い始めていた頃、ある変化に気づいた。
それは、コーヒー。
日本で再び働き出してからというもの、度々「コーヒーお好きなんですね」と言われたり、机の上に積み重なるドリップコーヒーの出し殻が「現代アートのオブジェのよう」だと揶揄されたりした。
ドリンクの種類の少ないスペインで、「コーヒーか水か(コーラか)」みたいなアルティメットな選択に日々迫られていた私は、ついコーヒーを飲む機会が増え、おまけにどれもエスプレッソベースでなかなか美味しいため、いつの間にかコーヒー中毒になっていたようだ。
ワイン依存は克服したけれど、今もコーヒーを飲まないと1日が始まらない状態が続いている。
渡西前は1日に2杯以上コーヒーを飲むことなんて無かったし、スタバのグランデを注文する人の気持ちが1ミリも分からなかったのに、いつの間にかコーヒー無しでは動けない身体に作り変えられてしまっていた。
肉体は魂の神殿というけれど、肉体にジャックされてしまっている我が魂。
旅する私の胃袋がこれからどこへ向かうのか、どうなっていくのか、怖くもあり楽しみでもある。
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