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土佐日記はじめました#1 基本情報

古文にも日本の歴史にも文学にもあまり精通していない普通の帰国子女が、日本に関わるなにがしかを勉強しようと手に取った土佐日記。勉強の記録を始めます。

土佐日記は、一度は耳にしたことがあるあの文人 紀貫之が記した日記文学。
今回の文献、日栄社の『要説 土佐日記』のイントロを読んでいると、紀貫之は日本文学界では神童的存在だったことが伺えます。

幼少の頃から漢学の素養を身につけ、歌にも精通、20代にはすでに歌合に招かれ、30代後半には醍醐天皇の勅命をうけてあの「古今和歌集」を撰進してたり。若くから才能を発揮し、当然のように大御所文人になった順風満帆な作家人生、のような印象を受けました。

土佐日記はかな文学を切り開いた紀貫之の超意欲作

以下が土佐日記の大事なポイント。

・紀貫之が国司として5年間駐在した土佐国(高知県)から都(京都)に帰るまでの55日間の旅の記録
 (国司って何、と思って調べましたが、都から地方に赴任させる官僚みたいなもののようです)
・記録といいつつ、文学作品。なぜなら
・当時は男=漢文(日記形式の宮中の備忘録)、女=かな文字(日記)が普通だったが、あえて貫之自身も熟達していた漢文ではなく女性のみが使用していたかな文字を使って新文学を切り開こうとした超意欲作
・なので、あの有名なフレーズ「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」が生まれる。これは女性のふりをして男性である紀貫之が書いているので、当時のことを考えるとめちゃ大胆では!?
・当時日記を書くような女性は京都付近にとどまっていたので、貫之による高知から京都への紀行文学は画期的だった
・『要説 土佐日記』内では「我が国新文学の進路を開拓したもの」と評されている。(p.9)

貫之の経路-太平洋の荒波をいく危険な旅路

(その他の情報がのったmapで申し訳ないです)

紀貫之の55日間の旅程はだいたいこんな感じでした。
現在の高知市の北あたりを出発して、海沿いの港をてんてんとしながら淡路島をまわって本州へ、そして都へと帰っていきます。

まさに今カナデは貫之が通っていった方面、高知東部に住んでいるのでなんとなく紀貫之が旅した約一千年前の日々に想いをはせやすくなっているのでありました。

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