磯崎新
22年の年の瀬に磯崎さんが91歳・老衰にて亡くなられた。
思えば、師である丹下健三の死もまた91歳であったが、彼でさえ晩年は不在であったと記憶しているが、磯崎新という巨人は亡くなる直前まで最前線を牽引し続けたように思う。
この稀代の天才はあらゆるボーダーを軽々と越え、あらゆる領域において思考を巡らせ、世界中に作品と言葉の双方で影響を与え続け、91歳で大往生とも言えるが、その反面僕には早過ぎる死に見えた。つまりそれほど、今、これからにまだまだ必要な逸材であったというである。
大きな存在がこの世を去り、ひとつまたはっきりと時代が終わった。
もう20年近く前になる磯崎新による磯崎新による丹下健三への弔辞を付しておきたい。
丹下健三先生
先生の手がけられた数多くの建築のなかでも、とりわけ気品にあふれ聖なる空間へと昇華したかにみえる、もっとも気に入ったおられたに違いないこの東京カテドラルに、今日は大勢の弟子どもが参集しております。
おわかれに来たのではありません。たった一言でもいい。最後のお言葉を聞きたい。<建築>そのものに化身されていた先生のお言葉がまだ聞けるのではないか、そんな想いでここにいるのです。
お前たち、本当に俺の弟子か、とにが笑いなさっているかも知れませんが、私たちは皆、そのように考えております。あるものは直接手をとって教えていただきました。あるものには鋭く行く先を示されました。あるものは、はるかにお仕事ぶりを拝見して、先達と心に決めてまいりました。
だが不肖の弟子どもよ、とお叱りを受けそうな気がします。このうち誰が、先生の抱かれた壮大な構想のほんのかけらでも受け継ぎえているのか、みずからかえりみて忸怩たるものがあります。
建築することとは、単に街や建物を設計することではない、人々が生きているその場のすべて、社会、都市、国家にいたるまでを構想し、それを眼に見えるように組みたてることだ。これが、私たちが教えて頂いた<建築>の本義であります。
先生はこの本義を体現されていました。 <建築>の化身だと私が考える由縁であります。
丹下健三先生が活躍を始められた20世紀中期の日本では、国家がそのような建築を望んでいました。先生の比類なき構想力が思う存分発揮されました。このとき日本の近代建築は世界のものになりました。今では、20世紀の世界の建築史はケンゾウ・タンゲの名前をはずして語れなくなったといえるでしょう。
我が師の栄誉をたたえよう、
弟子どもだけでなく、日本という国家もそういうでしょう。
だが、と柔和な顔をされながら、鋭い眼の奥底から、わが師は語りかけられているように私は感じているのです。
君たちはいったい、これから何をやろうとしているのかね。私は半世紀以上も前にこの国家の肖像を描いてやったのだよ。何ひとつ満足できる時代じゃなかった。そんなきびしいなかでも<建築>するという志さえあれば、その肖像は生み出すことができた。ところがこの満ち足りた時代になってみたら、日本という国家はさまよっている。
<建築>が消えている。
わが弟子たちよ、いったいどういうわけなのだ。
丹下健三先生はこういって、嘆かれていると私は思うのです。
ウィルという言葉には意思とともに、遺言という意味があります。先生が遺された作品の数々がそのままウィルにあてうるでしょう。だがそれだけではない。もうひとつの意味である意志、つまり<建築>を構築しようとする意志、それを忘れてはいけない。
半世紀に渡ってひとりの弟子として師事したあげくに私はやっと、これだけの推量ができるようになりましたが、不肖の弟子のひとりとして、これが並々ならぬ難問であることがいま身にしみてきつつあります。
そこで、私は誰もが口にする、やすらかにお眠りくださいという決まり文句をいいたくありません。
丹下健三先生、眼をみひらいて、見守っていてください。
弟子どもが道をふみはずさずに、先生の遺志をついで行くことができるかどうかを。
弟子の甘えで、申し上げました。
弟子のひとり
磯崎新
さて、磯崎新への弔辞を読むのはどなたなのだろう。
僕にはこのような素晴らしい弔辞を読む“弟子のひとり”を思いつかない・・
ご冥福をお祈りします。