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【自己紹介】新卒捨てて、世界一周の旅へ。前途多難の20代を振り返る。

はじめまして。旅するクリエイターKeiです!

僕は大学4年生の時に、バックパックで世界一周をし、現在も旅をライフスタイルの中心に起き、毎月住む場所を変えながら、ワクワクどきどきな世界旅行生活を繰り広げています。(これまで62ヵ国行きました)

ナミビアにて: バックパッカーの旅

観光に特化した総合制作会社、株式会社REGALO(今年で4期目)のCEOを務め、クライアント様は主に各国政府観光局!自治体さん!航空会社!ラグジュアリーホテル!アクティビティ!ガジェット!てんやわんやになりながら、好きな場所で、好きな人と、好きなことを、好きなだけ、、やりにやりまくってる31歳、牡牛座、旅するクリエイターKeiです。

色んな人に言われます。
「毎日、楽しそうだね」と。。。

心の底から"YES!"と言いたいところですが、これまでの人生を振り返ると、ずっと楽しかったワケではありません。辛かったこと、大変だったこと、逃げ出したくなることもたくさんありました。

今回は自己紹介がてら、僕のこれまでとこれからを記事に残したいと思います。そこには、波瀾万丈な20代の思い出が詰まってました(はじまりはじまり)

学生時代なにしてた?

変人の多いと言われる中央大学卒

1993年4月27日。横浜生まれ、東京育ち。

中央大学文学部社会学専攻。スキーのスポーツ推薦で、中央大学に入ったものの、在学中に「社会学」と出会い、世界を旅することに強く興味を持つようになりました。

スキーのスポーツ推薦で中央大学?
...はて???

冒頭からそう思いの方も多いかもしれませんね。

僕は東京育ちではあるものの、家族の影響で、スキーを始め、高校は親元を離れて3年間、北海道のど田舎高にスキー留学をしていました(北海道は公立高校の学費タダ!)

アスリート時代の僕です(笑)

過去にはアルペンスキーのJrオリンピックにも出場したし、東京都で優勝し、全国大会にも出場しました。

かっこよく聞こえるけど、10個上の姉は、同じ種目でアジア1位だし、日本代表としてワールドカップにも出ていました。そんな姉の背中を見ながら、細々とスキーを学び、親が用意してくれたスキーの板を履き、全く同じレールを上を甘んじて走っていたわけです。(気付けばスキーを履いてました)

アスリート時代は辛いことの方が多かったけど、当時培った精神面や体力は、今の生き方の「軸」となる部分に直結しているので、引退をした後も、スポーツを頑張ってきて良かったなぁと思います。今も体力はある方です。

右から3番目、腹筋が割れてるのが僕です(ドヤ)

スポーツ推薦で大学に入ってるので、強制的に超汚い体育会寮に住んでいました。朝6時からトイレ掃除をし、1日がスタート。QOLもあったもんじゃありません。もちろん厳しいトレーニング、上級生になってからは、一般生と共にしんどい論文・インターン・バイトの日々...。

インターンは、テレビ局やインバウンド系のマーケティング会社に通ってみたり(この頃からメディアやインバウンドに興味があった)、

キツい時は朝練から始まり、バイトが終わり、論文を書き、1日4時間睡眠がひと月ほど続いたこともありました。

卒業論文は7.5万字ほど書きました。しんどw

社会学のゼミ論文を書きながら、いつも思うのは「自分もいつか海外を旅してみたいな」ということでした。僕は22歳になるまで、スキーしかしてなくて、もちろん英語も喋れない。1人で飛行機にも乗ったことのない。大学の図書館で借りた本を写しながら、論文を書く普通の大学生でした。

ただ、運良くも在学中に「社会学」という学問に出会えたことはラッキーでした。初めて勉強や学ぶことが面白いと思えたし、社会とは何か?と考えるキッカケになったし、フィールドワークを専攻していなければ、旅を仕事にすることはできなかったからです。

社会学こそ、究極の学問だと信じてます。

スキーに関しては、大学時代に完全に挫折していたので、後半はやり切れない消化試合。原因は姉の背中を追いかけすぎて、プレッシャーを感じ、いつしか卑屈になり、自分の限界を自分で決めてしまっていました。

学生時代が終わるに連れて、ぼんやりと「いつか」の未来に、受け身な希望を託し、どこかいじけた様子で、周りに合わせて髪型を短くし、就職活動の準備をする。スキーを脱いだら、何もスキルもない、そんな味気ない学生時代を過ごしていました。

新卒のカードを捨て、世界一周の旅を決断。

ジワる証明写真。サウナ好きそうでワロタ

こう見えて、就職活動はしてたんです。志望は広告・マスメディア系。なぜか強い憧れがありました(きっとテレビっ子だったからかな)

かっこいいCMがテレビに流れて、思わずその商品を手にとってしまう。社会を動かしてる感じがキラキラしていた。

しかし、結果は全敗。なんとか仮内定は貰えたものの、志望してたメディアの業界ではなかったのです。

そんで、就職活動の時にするじゃないですか、「自己分析」
広告業界からのご縁がありませんでしたメールが全て届いた頃、僕は"就職活動用"ではなく、本当に自分のために自己分析をとことんやりこみました。

「本当にしたかったことは何か?」
「このまま希望してない会社で60歳まで働いて、自分はそれでいいのか?」
(当時は転職サイトもあまりなかったし、フリーランスという言葉も聞き覚えがなかった。)
「いつまで、いつか...と言っているのか」
自分との対話が数日続いていたけど、
なんとなく答えは出てきていた。

ビビりながらも決断した日に見た朝日。

自分で出した結論は、どうなるか分からないけど、今まで机の上で語っていた「世界」「社会」というものを、この目で見に行く!全身で感じる!そう半ば無理くり決めたのでした。

だって、22歳になるまで、家族の影響でスキーを始め、なんとなく中央大学に入学し、周りに合わせて、就職活動...。

みんな、同じゴールを目指す。

人生はマラソンだと思っていました。

みんな、なんとなくいい企業に入ったり、家庭を持ったりといった「正しい人生」というゴールがあり、それに向かって、いい大学に入る、就活をするといった正しい"道"という同じコースを辿る。

そんな永遠と続く一本道が人生なんだと、そう信じていました。

しかし僕はその一本道を大きく外れる決断をします。それが、新卒採用を捨てて「世界一周をする!」というもの。思い返せば、初めて自分で決めて、初めて自分で行動したものだったと思います。

22歳、道を大きく外れてみました。

自己分析を擦りに擦った結果、"いつか"という不確実なミライを、確実な未来にするべく、旅に出る決断をしました。だって、今日はこれからの人生で1番若いわけですし、これまでも「行動しなかった(スキー以外のことを挑戦しなかった/ ずっと誰かが敷いてくれたレールの上しか走ってこなかった)僕が1番体感しています。

やった後悔はどんどん小さくなるけど、
やらなかった後悔はどんどん大きくなる。

今でさえ、後悔していることは、これからも後悔し続ける(または脳内で無理くりデリートする)。だったら、その後悔を積み取りに行くしかない。それが自己分析をしまくったの僕が出した決断でした。

バックパックひとつで1年間の旅

貯金は、バイトで貯めた120万円。英語も喋れない。1人で海外にも行ったことのない、22歳のドロップアウト。

この旅が、どこに辿り着くのか分からなかったけど、初めて自分が心からしたいと願った決断だったので、心なしかワクワクしていたのを今でも覚えています。

人生を変えてくれた世界一周の旅。

1ヶ国目・始まりの国は「フィリピン」

1年間の世界一周の旅。荷物は60Lのバックパック。

右も左も分からなかったけど、エイッと海外へ飛び出した。1ヵ国目は、フィリピンで英語留学を3ヶ月ほどしました。

正直、英語は喋れなくても旅はできる。だけど、英語が喋れれば、知識や交流は広がる。そう当時の僕は信じていました。

はじめて出来た海外の友達。はじめての海外留学。長期で日本ではない国で語学を学びながら、新しくできた仲間と共に切磋琢磨する日々。それは、本当に素晴らしい経験でした。

カルチャーショックの全てが楽しかった

振り返ると、いま自分の会社でフィリピン留学の事業をしていることも、嫁がフィリピンハーフなのも、年間を通して何度もお仕事させていただいてるフィリピン政府観光省さんとの繋がりも、このフィリピン留学がなかったら、無かったことなのかもしれない。

そう思うと、どこで点と点が線になるのか分からないし、人生の無限の可能性について、全てのことにはハッキリと意味があるんだなと思います。

話はブレましたが、世界一周の経験は20代の僕にとって大きな分岐点でした。当時、33ヵ国旅し、自分の見てきたものや感じたことを赤裸々に記したブログは当時の大学生ブログランキング日本1位になったし、見てくれる人もたくさんいました。

英語を学び、世界一周の旅が本格的にスタート

そして、世界一周中に出会った自由な旅人たちのお陰で、人生はマラソンではないことに気付けたのです。(これがデカい)。

それぞれの旅人に、それぞれの旅する意味と理由がありました。1人は「日本のおにぎりを世界中の人に届けるため」1人は「一輪車で世界一周をするため」そして、1人は「生涯、ずっと新婚旅行」。出会う旅人の数だけ、旅や人生のゴールが違っていたのです。つまりは、そこに向かうコースさえも違う。22歳にして、ようやく人生=マラソン論の崩壊。時間もお金もかかったけど、バカは遠回りしないと気付けないのでした。

サハラ砂漠にて: 旅に出て8ヶ月ほど経った頃

そして、旅を続けながら、少しずつ「僕のゴールはどこか?」「人生を賭けてでもやりたいことは何か?」を考えるようになりました、

そして1つの決断をしたのです。
僕は旅をするのが好き。旅を伝えるのが好き。日本にいた頃の漠然と不安を感じていた自分みたいな人も、旅に出たら人生変わるのでは?もっと多くの人たちに旅の魅力を伝えたい!!

そんな「旅するクリエイター」というキャリアを描きたい。それが僕の決断でした。

貯金6万円ニート生活

1年間で33ヶ国旅しました。

1年間の世界一周が終わり、日本に帰国しました。

そして大学生活が終わった。ギリギリ就職活動が出来る年だったけど、僕は生意気にも、制作者になりたいわけではなく、あくまで表現者になりたかったのです。

若気の至でしょうか、怖いもの知らずと言うか、世間知らずというか…そんな僕が下した決断は、就職するのをやめて、いきなりフリーランスの海に飛び込む。というものでした(今考えると恐ろしい)

ぱっと見、聞こえは良いものの、相変わらずスキルも、人脈も、信用も、新卒採用のカードも何もない。貯金も旅で使ってしまったため、手元にある貯金は6万円のみ

インドにて:社会の厳しさを何も知らない若者

"旅するクリエイター"になりたいのに、一眼レフすら持ってない。だけど旅を通して学んだ「なんとかなる!」精神だけは、当時人一倍持ってた気がします。

一眼レフを買うために、実家に住み、バイトから始めました。繋がりでフィリピン留学の取材に同行し、撮影をさせてもらいました。貯金が貯まれば、格安航空券で東南アジアに行き、自主制作の繰り返し

当時はGoProしか持ってませんでした

映像技術は、海外のクリエイターの動画をYouTubeで見て学びました。(英語を少しでも勉強しててヨカッタ!)ニートなので時間はたんまりある。時間をフル活用して、同級生が大企業で働くなか、僕はセッセと無償でもいいから映像制作を作り続けていました

将来のことが不安でも、あまり深く考えず、セッセと自己投資してたのがこの頃です。なぜあんなに自信があったのか。あの頃の「コンフォートゾーン」を抜け続けるメンタルは、31歳になった僕が当時の僕に教わりたいことの一つです。

そんな貧乏クリエイター生活が10ヶ月ほど続いた頃(マジで貯金の全てを旅と機材に投資していた)、作品をSNSにアップしていたお陰か、初めてお仕事をもらいます。それが「中国版スカイツリーのCM制作依頼」でした。

26歳 年収1000万超える

航空会社のCM制作で海外へ:幸せの絶頂

そこからは鰻上りでした。当時、映像やSNSというのは、現在のように成熟してなく、やったもん勝ちのブルーオーシャン。先輩なんていませんでした(今考えるとクソ生意気で腹立つね)

スカイツリーのCM、ランボルギーニの北米大陸レース帯同(半年)、各社航空会社、ブリヂストン、ホテル、政府観光局、etc...

ラスベガスにて:初めてのランボを運転

特にランボルギーニの撮影で毎月アメリカと東京を往復する経験は、今の僕を構築する大きな要素のひとつです。海外の本物のお金持ちにともたくさん出会えたし、2024年の現代、大小関わらずインターネット詐欺が蔓延しまくってる世の中で「本物のお金持ちとは?」ということを肌で感じれたのは、大きな資産になっています。

和歌山の無人島にてフェスを開きました

SNSフォロワーも徐々に増え始め、日本6都市でトークライブ全て満席、無人島でフェスをすれば120人遊びに来てくれた。苗場スキー場の山頂でサウナパーティすると言っても50人は来てくれた。とにかく調子に乗りに乗りまくってたのが、26-27歳の僕でした。(お恥ずかしい)

旅するクリエイター(26歳)
リアルで初めて会った中居くん

中居くんの番組にもゲストで呼ばれて、1時間の枠は僕と中居くんの対談だったw

気付けば、貧乏バックパッカーの年収は1000万円を超えていた

よっしゃ!このまま進むぞー!!次は起業だ!と勢いよくジャンプするタイミングで、あの世界を震撼させるビッグイベントが起きました。

世界的パンデミック。

収入ゼロ。コロナ禍に突入。

暇すぎて段ボールに絵を描くワイ

あんなに調子に乗ってた僕の人生は、コロナ禍で一気に暴落します。

半年先まで予定の入っていた海外での撮影が、一気に消えました。この時の被害総額は1000万円。心がぶち折れてもステイホーム期間なので、誰とも面と向かって会話もできません。

本当の本当に収入ゼロでした。死なずに済んだのは、昨年までの貯金があったから(人生うまくできてる)

この時、映像以外にも「お金についてしっかり学ぼう」とステイホーム中に資産運用について勉強していきました。筋トレもしました。

不安とそれでもやらなきゃという葛藤の中で

膨大な時間を穴埋めすべく、これまで旅とカメラに全振りしていた自分がしたことがなかったけど、興味があったことに挑戦していきます。料理、DIY、デザイン、美容などなど…暇だと、病むし、良からぬことを考えてしまいます。だから、手を止めることをやめなかった。結果、全てが今につながっています。

みんなが不安だったと思います。苦しかったと思います。

だけど、元アスリートだったので知っていました。

どんなに苦しいトレーニングも、必ず終わる。

全てが終わった時、どんな自分になっているかは、トレーニングをしている時間の「質」だ。と。

サボろうと思えばサボれるし、逆に追い込めば、必ず勝てる。
そう信じて、やってみることにしました。

そして、このパンデミックのおかげで(鼻をへし折られたお陰で)、調子乗りだった僕は改めて、自分ひとりじゃ「ハッピー」ではないこと、周りのおかげで自分という人間のが存在していたこと。当たり前は当たり前ではないこと。世界一周の旅をしていた頃の素直な自分を取り戻し始めていきました

ステイホームな精神と時の部屋の修行は続いていきました。

28歳 世界の中心でプロポーズ

2021年: モロッコにて

ロックダウンは終わりましたが、まだまだ世界はパンデミック真っ只中な頃。僕は再び旅に出ました。いや、「僕ら」はですね。

今度は、かわいいかわいいパートナーと。

おいおい、肝心な恋愛の馴れ初めすっ飛ばしてんじゃねぇよ。とお怒りなのも分かります。が、恋愛編はまたいつかまとめますので、今回は簡単に説明しますと、、

最初は秘密のお付き合いがスタート

僕の妻、近藤あやとの出会いはGoPro。
2人とも別々でアンバサダーをしてました。
お互い旅が好きで気があっていたものの、最初は完全に僕の片思い。交際できるまで4.5回フラれてます。

((この辺りは割愛))

ロックダウン中にトレーニングしまくって、久々に会って、ようやく交際スタート♡
そして、あやちゃん30歳の誕生日にモロッコのひと月の旅に出ました。パンデミック帰国後、もちろん2週間のホテル隔離を強いられました。

アガファイ砂漠にて

11/10, モロッコのアガファイ砂漠で、夕日を眺めながら、お互いの人生について語りました。この時、まだ僕はビビりにビビり散らかしていたため、かっこいいプロポーズまでとはいきませんでしたが、なんとなーく想いは伝えました。

世界の中心でプロポーズ大作戦。

翌年、3月。オーストラリア縦断の旅に出た僕たちは、世界の中心と呼ばれるウルル・エアーズロックで晴れてゴールイン。

声を震わせながら、世界の中心で愛を叫び(いや、叫んでないか)、2022年8/20「冒険家の日」に正式に家族になりました。

やっぱり、アレですね。
どんなに怖くても、成功というのは、チャレンジしないと達成しないのですね。常に成功は恐怖の向こう側にある。これは覚えておいて、損はないはずです。

そして、現在。新しい価値観へ。

ナミブ砂漠にて2人で見た朝日

こうして、波瀾万丈な20代を走り抜け、僕は現在31歳。22歳で旅に出てから、来年で10アニバーサリーです。あの頃はまだまだブログを書いている人が多かったのに、今じゃインスタグラムに、TikTokに、Chat GPTに、、テクノロジーの進化に日々驚いてます。

世界一周に持ってったGoPro HERO4も、気付けば、HERO13。5.3K ハイパースムース。手ぶれも一切しません。びっくりです。

過去の経験が全て今に繋がっている感

コロナ化で起業した会社もおかげさまで4期目。非常に少しずつではありますが、やれることも、チームメンバーも増えてきて、来年は更に飛躍できるかな、、?というところ。面白くなって参りましたァ!(ご興味がある方はぜひ一緒に面白いことしましょう!)

この文章を書いていて思ったのですが、世界一周を終えたあとから、一貫して僕の中で大切にしていることが3つあります。

1つめ。
「今はゼロでも、そこに小さな1を足していく。足し続けていく。」

... 僕は小さな1歩1歩がやがて大きな地球を一周することを体感しています。最初は誰だってゼロから始まっているのです。赤ちゃんも最初はオギャー!しか言えなかったけど、少しずつ出来ることが増えていく。出来ないことを絶望と捉えず、「可能性」と捉えてきた。これは何歳になっても、大切にしていきたいことです。

最初は誰だって初心者!まずはやってみよう!

2つめ。
「ミライを待つな、未来を創ろう」
...どんなミライが待っているんだろう。と、不確かなミライを受け身に取られる、待つのではなく、自分の手で、「どんな未来が創れるかな」と、未来をクリエイトしていく。創っていく。主体的に動こうと心がける。ある種、旅するクリエイターというのは、映像を作ってるだけではありません。理想の未来を創っているのです。カッコつけました。

理想の自分たちを創っていく

3つめ。
「心のコンパスの向く方へ」
...過去の経験で、僕は自分が心からワクワクしたことを選択して、後悔したことはありません。逆に、心が動かない、ある意味で、やらされていたことは、どんなに安定していても、後悔することが多いです。ワクワクして、少年のようにやったことは、いつか必ず自分の元に返ってきます。僕はそう思うのです。

貧乏バックパッカーはもう辞めにします

そんな感じで、少しずつ締めに入ろうと思うのですが...、まるで僕の旅は終わってしまった。そんなことを思う方も少なくはないはずです。

答えは「いいえ。」です。

まだまだ旅の途中です。僕がなりない「理想の自分」というのは、このまま走り続ければ、もしかしたら、、ワンチャン、、、辿り着く、、、かも??

と時々、自信なさげな心配性の自分も出てきますが、

「何を言うか!ワシは絶対、絶対、絶対、達成するのじゃア!」と武将のような自分もいます。

それを客観視するクールな自分も。

とにかく、今は走ってみます。ゆっくり、ゆっくりでもいいから、ジョギングのように足を止めない。少しずつ、この「フリーラン」の走り方は分かってきた感じがします。(煽られないように、自分のペースを大切に)

理想の自分たちは、もう少しだけ先の話

両手をいっぱい広げて、風を切って、
自分の手で触れ、肌で感じ、
あの夕日と波の音が聴こえる「理想郷」は、
こっちのような気がします。

今は、ブーツがボロボロになっても、笑われても、走るのです。いや、走れるのです。だってもう1人じゃない。同じハットを被ったパートナーが隣でニコニコ笑ってますから。


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