#この街が好き ~広州・深セン・香港エリア~ (キャリコンサロン編集部 #11)
キャリアコンサルタントが集う「キャリコンサロン編集部」、によるnote執筆テーマ、「この街が好き」についての投稿です。
ご紹介するのは、中国南部にある広州市と深セン市と香港エリアです。
かつてはこの街に住み、お世話になった広州・深セン、そして香港エリアのことを、食や文化、歴史的・経済的背景も含めながら、私が住むところとして選んだ理由と共にご紹介したいと思います。
(※この記事は、2000年代前半に体験したことを元に書いています)
(出典:旅行のとも Zen Tech)
食文化を楽しんだ広州
私が留学先に選んだ街は、中国・広東省広州市です。
ここは広東語を話すのが普通の地域で、「中国語の標準語をしっかりと学びたい!」という人はあまり留学先には選ばないのかな…と思います。
私も留学にあたっては「中国語をしっかり学びたい」という気持ちもありましたが、最終的には広州市を選びました。
その理由は、
①食べ物がおいしい
②香港に近い
社会人になってからの留学は、勉強だけでなく生活も大いにエンジョイすることを重視しました。
「食在広州」(食は広州にあり)
というとおり、広東料理(飲茶や海鮮料理)が美味なんです。
「4本の足がついている物は机とイス以外、 空を飛ぶのもは飛行機以外何でも食べるのが広州人」とも言われています。
カエル、蛇やワニはもちろん、昆虫とか、雀の焼き鳥も露店で見かけました。市場ではもうじき餌食になるサルが檻に入っていたり、この領域は見る専門でしたが、エキサイティングな光景が楽しめました。
お茶文化も盛んで、朝のレストランは飲茶になります。「アサヤム」、と私たちは言っていたのですが、アサヤムで飲茶をしながら大声でおしゃべりを楽しむ中国のおばちゃんたちに圧倒され、元気をもらっていました。
休みの日にはお茶市場に出かけてプーアル茶や烏龍茶、ジャスミン茶などを買い込みました。また、先生について中国茶のレッスンも受けるなど、食文化を堪能しました。
香港については、当時大好きだったフェイ・ウォン(「恋する惑星」という映画で日本でも有名になった女性シンガー)が住む香港に近い、というのが理由。1990年~2000年代は、フェイの他にも、色気あふれる俳優トニー・レオン、麗しくも悲しみを抱えたレスリー・チャンなどがいて、香港映画が賑わっていた時代でもあり、少しでも近くで香港を感じていたかったということもありました。
そんなふうに、勉強よりも食欲やミーハーさを全開にして留学した広州でした。
働くなら深セン
就職先は深セン。中国大陸の南部、香港に隣接した陸続きのところあり、広州と同じ広東省にあります。
冷戦時代は西側諸国との関係を絶っていた中国ですが、貧しさから抜け出すために、中国が外国企業に一番先に開放した都市が、深センです(1979年)。
世界の企業が早くから進出し、外国人や中国各都市からの労働者が入り混じる、開放的な1大都市となりました。
今では、中国のシリコンバレーと言われており、先進技術が集まる街ですが、当時は製造業がどんどん進出しているところで、私も日本企業の中国進出の風にのって、海外就職という貴重な体験をすることができました。
深センの好きなところは、
①中国各地の料理が美味しいこと
②香港に近いこと
またまた食と香港です!
深センは中国各地から仕事を求めてやってきた出稼ぎの人が多いため、広東料理のほか、四川料理、湖南料理など、各地の食文化が高いレベルで楽しめる街です。香港との往来も盛んで、随所に香港スタイルも取り入れられ、ちょっと洗練されています。
そして中国で働くのに香港が近いといい理由としては、香港スター以外に大切なことがありました(ここからは真面目です!)。
1つ目は、心を解放できることです。
中国に住んでいると、スリなど常に警戒が必要で、心休まるということがないのですが、少しだけ警戒を緩ませ、心を解放できるのが香港でした。イミグレを越えると少しほっとします。
香港ー深センの越境には鉄道・バス、フェリーの3つの手段があります。当時は深センの海側エリアに住んでいたため、週末になると海の風を感じながらフェリーで香港まで抜け出し、買い物や街歩きを楽しんでいました。
2つ目は、日本人の給与相場が下がりにくくなることです。
勤勉な中国人は、日本語を猛勉強してマスターし、日本人の仕事のやり方も覚えます。留学は金銭的ハードルが高い中で、彼らは国内の日本学校で流暢な日本語を話せるまで勉強します。(留学してもなかなか上手にならない私とは大違い…汗)
中国人が日本語を学び仕事も覚えると、中国で働く日本人の給与相場が下がっていくのが普通ですが、深センの日系企業は、香港進出時代からの香港人スタッフも多いため、日本人に対しては香港人を基準として、香港の物価水準や給与相場に合わせる必要があります。それにより日本人の給与が下がりにくいという特徴がありました。
(給料は香港ドルで 画像出典:タビナカマガジン)
そして3つ目は、政治的締め付けが緩やかなことです。
歴史的・政治的なことで関係が悪化しやすい日中関係。政治的なことから外国人の居住政策変更や、経済制裁にも及ぶことがあります。ビザ支給要件の厳格化、通関書類のチェックの厳格化で、生活や物流に支障をきたすことがありました。
お上の通達がすぐに現場に伝わる政治優先の北部と違い、香港の自由経済がもたらす繫栄を知り、自らも経済的恩恵を受ける深セン・広東一帯においては、いろんなチェックが緩いということは常でした。
そんな風に、3年ほどの間、広州・深セン・香港の食や文化を、体制の違う国で働く、ということと共に味わいました。
(深セン蛇口から香港へ:出典:タビナカマガジン)
「今この瞬間」を感じる広州・深セン・香港
最後に、「単純に好き」というのとはちょっと違うのですが、このエリアになんとなく心惹かれるところがあり、それについて書いてみます。
私が生まれ育ったところは、時の流れがカタツムリのようにゆっくりとしていて、街の風景も人々の価値観も、なかなか変化を感じづらいところです。今は「光陰矢の如し…」と感じますが、独身時代は、幼いころの長い夏休みのような緩やかさを、少々退屈に感じていました。
一方の中国は、ある日突然高層ビルが建っているとか、昨日繁盛していた店がもぬけの殻といったことは日常茶飯事であるほか、やれ新しく高速道路ができた、地下鉄が開通した、そんな変化が常でした。
また、少し胸がざわざわする「今この瞬間の歴史」も肌で感じていました。
私が中国に住んでいたころは、ちょうど中国人が香港へ行くことができるようになった頃でした。
2003年当時は、共に働く中国人スタッフと一緒に香港に行くことができなかったのですが、近いうちに行くことができるという情報により、中国の人たちは未来に対し、夢や明るい希望を持っているようでした。
(2003年広東省の1部地域(中山、東莞、江門、仏山)で香港への個人旅行の緩和措置、2007年より、広東省及び28の都市で中国人の香港・マカオへの個人旅行が緩和)
それに伴い、香港では人民元を呼び込む商売が盛んになっていきました。格安旅行を楽しむ日本人や外国人よりも、お金を落とす中国人が商売のターゲットになり、街は中国人向けの看板であふれ、日に日に変化していくのを感じました。
日本の製造業が香港や台湾に進出した時代から、一気に中国に流れた時代でもあります。中国人の雇用ニーズが高まる半面、香港人スタッフは要らなくなるというせつない出来事も目にしました。数名の香港人スタッフがいなくなり、残ったスタッフも、中国に移り住んで雇用を継続するかどうかの選択を迫られていました。
香港の地位の急速な低下と中国の急速な台頭を、経済や雇用の面からもろに感じていましたが、日本と中国の関係も、香港ほどではなくとも確実に変化しているのも分かりました。日本人スタッフもやがて要らなくなっていくでしょう。
そして現在。経済大国・軍事大国となった中国は、香港に対していよいよ圧力をかけるようになりました。1997年の香港のイギリスから中国への返還は、「一国二制度」として独自の行政、立法、司法権を認めていましたが、香港の民主派を排除。歴史がこの瞬間も動いていて、経済繁栄の恩恵を受けて共存していたからこそ自由だったエリアに、波風がたっています。
もともと1つの国だったのだから、分裂と統一を繰り返してきた長い中国の歴史から見れば、米粒のように小さな出来事かもしれません。
それでも、ニュースを見れば、自由あふれる香港はこれからどうなるのかな…という思いも沸いてきたりして、
侵略時代、植民地時代、そして「今この瞬間」も、大きなうねりを巻き起こす何かが起こっている、そこでは喜びも悲しみも、何食わぬ顔で生き抜く逞しさも肌で感じる、それが広州・深セン・香港エリアの面白さかな、と思っています。