3.11というあの日

そうなんだね。もう、9年にもなるの。
あの頃は鬱から脱却し始めて、やっと仕事場で自分の居場所を見つけられたような、心に小さな拠り所をやっと作れた…っていうわずかな陽だまりの時期だった。

休んでしまったら、生活していけなくなる、誰かに迷惑かけてしまう…と這うように行くけど、滝のように涙流しながらPC作業に打ち込む姿は異常でしたよ。それでも元気になるのを待ちながら一緒に仕事してくれてた部署の方達に2月のバレンタインに細やかな義理チョコをお礼に渡したら、この、3.11に部署の人達で音楽好きな私にCDをくれた。

ちなみに、ポルノグラフィティの生粋のファンというのは公然だけど、ポルノさんのは基本、全てフラゲする前のめり感で持ってないわけがないのでという事で、この時頂いたのはBUMP OF CHICKENさんのアルバム。

迷惑かけどおしだったのに、私が喜ぶだろうと皆で細やかなお返ししてくれたのが嬉しくて嬉しくて帰ったらさっそく聴かなくちゃ!って嬉しかったあの日の午前中。

私は込み合う休憩所が苦手だから、いつも人が少なくなる2時くらいからお昼にいき、ちょうど戻って仕事を始めたくらいだった。
会社は工場ビルの最上階で、普通のビルの10階くらいの高さで震度6。

凄かったよ。
とりあえず教科書並みの防御しか方法ないから机の下に入ったけど。目の前で自分の座ってた椅子が2mくらい激しくいったり来たりする。
ちょうど少し前にトルコで大地震があって建物の床が抜けたってnewsを思い出して、今、まさに床が抜けそうなんだけど!?って怖かった。

鬱であんなに死んでしまった方がいいと思っていたくせにね。小さな幸せで前を向いていたから、前を向き始めてたから、このまま死ぬのは嫌だなって怖かったな。

揺れ始めてしばらくしたら、真っ暗になった。
停電だ。
大きな工場だから、すぐにオレンジの非常灯が点く。大きな振動と轟音で一部の天井が崩落する。続けてガス検知器のアラームが鳴り響く。

工場の皆を外に出さなくちゃいけない。私がいたのは管理室だったから、室内の人達と手分けして工場への館内放送を入れ、出てくる人達と合流して外に避難した。

もちろん建物のあちこちもヒビだらけだし、階段が壁から離れてるしで、地上に降りるまでも怖かった。

外で避難していたら、天候が急変し、大粒の雹が降って周りがざーっと真っ白になるなか、余震はくるし寒いしでこれからどうなるんだろうって思っていたな。

上司達以外は、緊急帰宅指示となり、組分かれして、数名ずつ貴重品を取りにいき、自分の貴重品と引き出しに入っていて、少しヒビが入ってしまった貰ったばかりのCDを持ってとぼとぼと家に帰った。

他の土地の事を思う余裕もなくて自宅待機指示で1ヶ月くらい仕事には戻れなかった。TVをつけた時、何が起きてるのか分かんない光景ばかりで、なんだこれ?ってなってた。たくさんの人の日常が壊れた日。

貰ったCDを聴くと切なかった。皆にお礼が言いたかったな、って。今日、会えてない人もいるのにな。また一緒に仕事できるかな…って壊れた日常を映すTV画面見ながら思ってた。

それから後は買い占め騒動が凄かった。あ、今と似てるな。コロナの脅威に晒されていく景色が、あの日からの痛みをスロー再生してるみたい。

でも、あの日、と同じ痛みや出来事はこれからもそばにあるものなんだよね。幸せのすぐ横にある。幸せを当たり前に思わないようにしなくちゃな、と改めて思う。

皆、あれから散り散りになってしまったけど、元気にしてくれてるといいな。

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