コロナという異邦人
身近に感染者が出たとか切羽詰まってたわけじゃない。
でも、世の中が閉鎖的になって行くしかない流れや、昨日までが壊れるかもしれない状態に、全ての人が晒されていく事態になるかもしれないくらいには怖いと思ってた。
東日本大震災の時は地域的な閉鎖や日常の崩壊だったけど、それでも人間社会に生きる怖さを肌身に感じながら過ごしてた。
それが、今は世界規模なんだから。
そりゃ、株は暴落するし、いつまで続くか分からない閉鎖に自分だけは巻き込まれないようにって利己心が勝っても仕方ないかもしれない。
個々が2つになるだけでも同じ方向に全く同じ気持ちで向かうのは難しいのに、まして、忖度や差別や偏見や文化、価値観や損得、そして足元という現実が差し迫る世界が、同じ思いやりを持って向き合うのがどれほど難しいか。
だから、怖かったよ。
毎日、コロナのnewsを探して迫る危機を感じながら、どんどん大事な人達の生活基盤を蝕んでいくのを知っていった。
大阪のライブハウスからって騒ぎが拡がりつつあるけど、一月程前に、コンサートに参加してた人に感染者って話あったよね?どうしてその時、濃厚接触者だけだったの?どうして、空間共有者に目を向けてくれなかったの?
あの時、不思議だった。どうして同じ空間にいた人を検査する流れにならなかったのか。クルーズ船も空間共有者からだったのに。もう大阪のライブハウスとか名古屋のジムとかそんな小さな集中点の話じゃない。
札幌の雪まつりに参加して拾って帰った人だって
きっとたくさんいるよ。検査してないんだもん。検査の母数が少ないんだもん。
毎日、増えていく悲しいnewsとか、一人一人のささやかな生活の糧が失われていく声とか重くて。もはや情報は不安しか育てないと知った時、私の中のコロナの騒ぎはむしろ死んだ。情報はもう、明るいもの以外、扉を叩かないで欲しい。
止めようがない流れの中、このコロナに対する治療が日常に施される時まで、人や社会や世界の晒されていく一面と自分は出会っていく。きっとだからこその本物も際立っていくんだろう。
死ぬんだなぁって感じ始めたら身辺整理をしよう。息を潜めてそれでもその先に流れつく自分だとしたら、その時、誰かを少し笑顔にできる作品を作れたらいい。例えばそれがたった一人でも。
情勢に流されず、侵略する異邦人に支配されず、今、この身にあるものを大切に想う。誰かが言ってたな、春は必ず来るって。
生きて未来があるなら、その時、誰かを幸せにできる自分であれたらいい。
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