私がケアを生業とするための思考

わたしは、他人からどんなアドバイスをもらったとしても、それを自分の言葉で噛み砕いて納得できなければ、そのアドバイスは攻撃として捉えてしまう
自分の言葉で噛み砕いて納得するためには、知識が必要である
わたしにはその知識がない
だから今、心理学、行動経済学、臨床哲学の本を読み漁っている
予想通り、そこにはわたしがこれまで他人から受けてきた攻撃をアドバイスに変化させることのできるヒントとなる知識がいっぱいあった
もっと読んだらもっとヒントを得られる、本を読みたい!
という積極的にハマれるものに出会った
このハマりに飽きる時は、きっと自分が受けてきた攻撃が全てアドバイスに変わった時だろう。
そして、私はケアを生業としたいので、ケアをビジネスとして考えてみた。専門的知識はまだまだ薄いのでツッコミどころは多々あると思うが、とりあえず思考して行動に移してみようという文章である。

わたしは読書をはじめた当初、看護師だから看護書・医学書を読もうと思ってそのジャンルの文章しか読まなかった。しかし病気療養のため職を休むことになり「金は無いけど時間はある」状態に置かれた時、ふと別ジャンルの文章も読んでみようかなと思った。そこで「看護」から、「社会生活を維持すること」に視野を広げてみた。社会生活を維持するためにはお金が必要であるから、経済について知らないといけない。社会で生きるためには対人関係が不可欠であるから心理学・精神医学についても知識をもっておこう。心理学の根底にはどうやら哲学も関係がありそうだ。というように選書をするジャンルが広がっていった。

まず、経済学について知ると、教育と経済に関係があることがわかった。

経済的に優位な家庭に生まれた子供が教育投資を受けられることで、元々の能力が高くない普通の能力にある人間は、高等教育を受けることができる。
教育投資を受けられるかどうかは、どの家庭に生まれるかという偶然的な運命によるもので、自らの力ではどうしようもない。今の日本における平等な教育体制は、実は平等ではない。家庭の購買力がたかい=貨幣、資産を多く抱えている家庭に生まれるほど、子供への教育投資が高まる→その子供はより高等な教育を受けることができる。それは、今の受験システムが投資力に比例して合格しやすくなるから(競争のための学力をつけるものであるから)と考えられる。
路上生活を強いられている人の中には、生まれた家庭環境、障害によって高等教育に繋がらなかった例が見られる。そういう人達が一部の悪い大人にうまく使われる事でさらに搾取され、さらに酷い生活を強いられる現状がある。
そんな人達の環境を改善するには、悪循環を断ち切ることが必要である。
そのためにモノやカネを与える支援が行われてきたが、そういう人達はモノやカネの上手な使い方を知らないことで、一時的な改善にしか繋がらないリスクが考えられる。だから、釣った魚に餌をやり続けることが必要なのである。一度改善のために関わったのであれば、継続的に関わり続けなければならない。その継続のためには安定した支援の供給体制が必要である。資金、人材、物資。
支援をビジネス化しようとするならばビジネスを行う側の環境も保ち続けなければならない。支援を行う側の生活がギリギリなのでは、支援を行い続けることもできない。だから、現在そういう支援はNPOなどボランティア、非営利な形で行われ、支援者はそのほかに労働をおこない、自分の生活を成り立たせていることが多い。

こうして路上生活にある人への支援について関心を持ったが、私は現在療養中であり、自分の生活を支える経済的基盤はギリギリである。

大学生の時から常に支援する側として社会に関わっていた。看護師として新卒で入職したので常に支援者であった。病気療養という、自分が社会の中で支援する側(看護師)から助けを求める側(患者)に転換した経験は私に何を与えたのか。
私は、自分が生活している基盤が確固たるものであるということが当たり前すぎて意識することもしていなかった。
しかし急に働けなくなり、収入が激減、趣味に講じるための資金も少なくなる。そのギャップに戸惑う。当たり前の環境は、当たり前ではなかった。
助けを求める側でも更に多くの助けを求めている人との出逢いから、生活が困窮したら生活保護をうければいいという考えが安直だったことに気づく。生活保護は国庫から賄われているから、金銭を渡すことに多くの条件を設けている。その条件には人の尊厳に関わることも含まれており、その人が隠したい、他人に知られたくないことも第三者である行政に踏み入られ、調べられてしまう。
社会的に困窮していても、人には尊厳があり、それを踏み潰すことは誰だって許されることではない。
しかし現状では社会的に困窮している人達の尊厳は大勢から踏み潰されている。
支援をする側にいる者はそれに気づいていない。
道端のアリを踏み潰すのと同じくらいの無意識なのである。
さらに、支援している者の方が社会的に上の立場にあると思い込んでいる。
本来であれば、支援をする者もされる者も社会的な立場に差があってはいけないはず。
鴻上氏の言葉の中で「無意識の優越感」という概念を知った。これは支援者側に立った人は誰でも持ちうるものである。持っている人が悪いのではなく、気づいていないだけなので、私は早い段階でそれに気づくことができたことを幸いであったと思う。

看護師をしていると、仕事だからと割り切って患者に寄り添おうとしない、あえて距離をつめないこともある。それは看護師個人としての自分を守るための自己隔離である。
しかし本来、看護師の主たる業務であるケアは、病者に寄り添うことではなかったか。そばに寄り添い、患者が治療に前向きに取り組めるように環境を維持していくことが求められているのではないか。

ビジネスとして行うのであれば、客に対して支援者が主になって前向きに対策を推し進めていく。これはケアではなくセラピーである。
しかしケアはそうではない。相手の側にいて、相手が自ら状態を維持するとか、成熟していくとか、そういう微細な変化を「待つ」ことがケア者には必要なのである。待つために、相手の日常に変化が起きないよう維持していく。ケアを受ける者が自分の内部と向き合うためには、外部からの刺激があるとそちらに意識が逸れてしまうと思う。ケア的日常は、変化を嫌う。変化を嫌うので、はたから見れば何もしていないように見える。「する」ことによる結果を評価したい現在の社会では、何も変わってない=なにもしていない=価値がないと捉えられてしまうことになる。なので、そのようなビジネスの世界で考えた時、ケア業界は報酬が低くても妥当だろうと思われてしまうのではないか。ケアに携わる職業である看護・介護・保育・心理は資格職でありながら非正規雇用も多い。さらに現在介護職に至っては外国人労働者を受け入れようとしている。ケアはその土地の文化の影響を強く受けると考えているので、異文化からの受け入れは困難を極めると思っている。単なる肉体労働ではないということも考えなければならない。少し話が逸れたが、現在の「変化を生み出し結果を見る」セラピー的ビジネスと、「変化させず状態を安定させる」ケア的ビジネスは違うものとして見なければならないと考える。わたしたちはどうしても“結果にコミット”するような目に見える変化を望む。誰にでもわかりやすいからだ。しかしケアを仕事にするときはわかりやすさを求めてはいけない。わかりにくい、変化のないことがケアにとっては最重要事項なのである。

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