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実在しない本について

 実在しない本、とは何だろうか?
 これは『完全な真空』『虚数』『ハーバート・クエインの作品の検討』といった類のアイデアを実装するに際しての思索である。

実在しないということの定義は難しい

 存在しない人物による、実在しないタイトルの本(九十九里ハマ子『世界で一番ミサイル発射』)であれば、これは実在しないと言って間違いない。

非実在作家の作中作

 実在する本の中に描かれた、実在しない作中作もまた、実在しない本である。
 世界一有名な実在しない本のひとつは(後に本が作られた――非実在作家の実在作である)『ネクロノミコン』だろう。民明書房から刊行された数々のウソ著作も忘れることはできない。
 実在しない本(タイトル)だけでなく、カート・ヴォネガット作品のキルゴア・トラウト、村上春樹作品のデレク・ハートフィールド、伊坂幸太郎作品のジャック・クリスピンらの「フィクションの強度を高めるための架空の引用元」の作者たちの作品もそれにあたるだろう。(ジャック・クリスピンはミュージシャンだが)

実在作家の非実在タイトル

 実在する作家による実在しないタイトルの本もまた、実在しないといって間違いない。
 単純に作家の作風とかけ離れたタイトル(大江健三郎『おにいちゃんラブラブ愛してる』とか)の場合もあるだろうし、独立した完結作品のウソ続編(米澤穂信『黒牢城リローデッド』……いやでも『安寿と厨子王ファーストツアー』は実在作品だしなあ)や、作者が絶筆した作品の完結版(手塚治虫『火の鳥・大地編』……桜庭一樹の小説版はある)などの場合もある。アリストテレス『詩学・第二部』は、実在する作家(哲学者)による実在しない続編であり、同時に実在する本(ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』)の中に書かれた、実在しない作中作でもある。
 「作者」と「原案」が分かれている作品で、原案者がそのまま書いたり別人が執筆を担当した場合の作品も、実在しない作品だと言えるだろう。伊藤計劃『屍者の帝国』は、うっかりすると実在すると思い込んでしまいそうになるが、「伊藤計劃が書いた『屍者の帝国』」は実在しない。ヤマグチノボル『ゼロの使い魔・22巻』に至っては、名義においては実在する本と何も変わらないが「ヤマグチノボルが書いた22巻」は実在しない。

実在作品の実在しない本

 実際に書かれた作品であっても、本が実在しない例はある。
 私が知る限り渡辺淳一『花埋み』のラテン語翻訳版は存在しない。個人的には「ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』の青い鳥文庫版抄訳版」というアイデアが好きだ。児童向け翻訳小説は抄訳が多かったという「あるあるネタ」と、ギブスンと児童向け小説叢書という撞着的な組み合わせが気に入っている。この種の架空の特定版をでっちあげて「実在する作品の実在しない本」を語る/騙る手法は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの得意とするところだ。ア・バオア・クー、カーバンクル、善知の天楼……枚挙にいとまがない。
 翻訳以外にも「ライトノベルレーベルで刊行されて挿絵が増える」「短編集に復刻で短編が追加される」なども、実際の本で起こり得ることであり、つまりは実際に書かれた作品の存在しない本のバリエーションとして現実感のあるものだろう。後者はメディア展開のたびにエピソードが追加されて刊行される梶尾真治『クロノス・ジョウンターの伝説』が、いつか京極夏彦ばりのレンガ本(レンガめいた立方体になる文庫本、というものが実在することが既に奇妙な話とも言える)になる日もそう遠くはないかもしれない。
 エピソード追加は、もうひとつ別の可能性も含む。物語とは文脈(コンテキスト)であり、文脈が変われば同じシーンでも意味は――物語は変わる。井上雄彦『SLAM DUNK』は全31巻で完結している。だから、32巻というアイデアは、それ単体では完結作品のウソ続編に分類されるものだ。しかし、32巻で「天才ですから」の続きが描かれた状態で読む31巻は、テクストは同じだとしても物語としてはまったく別のものになる。ウソ続編によって、正真正銘の実在する本ですら「実在しない本」になってしまう。
 メタテクストによって実在する本をそのまま実在しない物語に変えてしまう手法は、より極端な形としてホルヘ・ルイス・ボルヘス『『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール』で、「テキスト自体は一字一句ミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』と同じだが、作者や時代といったメタテクストだけが違う」例として登場する。そもそも『ドン・キホーテ』自体が、シデ・ハメーテなるアラビア人の記録を編纂したものだというウソ来歴(作者を偽る&編纂という名の改変行為で、二重にウソを重ねている)で書かれ、人気に便乗した贋作が書かれた上に後編で贋作に言及し、その評価と解釈すら時代を経るごとに滑稽話から風刺そしてロマン主義へと変遷するという、実在しない本にまつわる「大トロ」みたいな作品だ。

かつて実在したが現在は失われた本

 かつて(恐らく)存在したが失われた本(『ブリハットカター』とか)は、ここでいう「実在しない本」には含まれない。それは現存しない本であって、(歴史上のある時点では)実在する本だからだ。この辺りが「散逸した第二部が存在する」ということ自体が仮説に過ぎない(=作品自体が実在しない可能性がある)『詩学』との差だ。
 もっとも、「2084年に何故か中国の古代遺跡から見つかった『ブリハットカター』の原本/写本」という架空の存在は「(実在する作品の)実在しない本」だ。本の来歴のウソまで考えるなら、すべての本は「存在しない本」であると言えるかもしれない。

 そうした例をもうひとつ挙げれば「小学5年生の時に同級生の長谷川さんに貸したまま返ってこなかった私のリチャード・ケネディ『ふしぎをのせたアリエル号』」は、間違いなく実在する作品の、実際に買ってもらった本だが、しかし「実在しない本」になる。同級生の長谷川さんが実在せず、私の手元にある『ふしぎをのせたアリエル号』はそんな履歴を辿らずに今も私の手元にあるからだ――そして長谷川さんへの秘めた思いという虚偽の来歴は、作中のカエルのオニババへの恋慕に新たなコンテキストを与え、ほかの『ふしぎをのせたアリエル号』とは違う本になるからだ。(余談を加えるなら、『ふしぎをのせたアリエル号』は日本語版になって挿絵が増え、電子書籍化で日本語版の挿絵が英語版に追加されたという「実在しない本」にありそうな奇妙な経緯を持った作品でもある)

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