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気持ちも低気圧
昔々はそうでもなかったのに、文章で気持ちを表すことが苦手になった気がするなあと思う。一冊の本を読んでちょっと気持ちが落ち着いて、キーボードを打つ気持ちになった。
色々と今の自分に気持ちに言い訳をしたところで、ずんと重くなってしまった思いが重いままで。
普段かすりもしなかった一か八かのタイミングがこんなところで合ってしまって、もしかしたら最もよからぬタイミングだったかもしれなく。
なるほど。
私の中にこういう感情もあったんだなあと、生きている情動がめぐってぐるぐるする。
傷付きたくないなあという気持ちはこんなに重かっただろうか。
数年前にあれだけひきずったのに一旦忘れてどこかに置いてきた気持ちが、泥の底を掻きまわしたように濁って、目の前に現れた。
2年前、とか、去年の傷じゃなく、数年前の気持ちがかき乱される時点でしらばっくれることなど今更できず
「そういうことか。」と、ははぁと何とも言えない気持ちで目の前に自分を置く、お前そういうところやぞ。と。
しまい込んでいただけで、ものすごく浅いところにあった淡くて都合のいい、そのぬるま湯で都合のいいところだけを味わおうとしていたのは私なので、冷静になれよ。ということか。
飲み込めない気持ちを飲み込まず転がしながら、長くて短いこの先の1週間をぼんやりと思う。
3日も経てば落ち着くだろうな。とも思える。これは随分成長である。
数年前だと一生続くかと思った。いちいち手痛い学習をしないといつもわからない私の性分である。
生きているだけ、経験値になって、段々と楽になるという気持ちはこのくらいの歳から始まるのかな。
もう何もかも10年後からのネタにしかならなかろうとか。
今やっていることたちを平然とこなせさえもしないのに、自分の気持ちにだけ遠く離れたところで処理をする。
いつかだって、あのとき、だって嬉しかったり、悲しかったり、苦しかったりだのしたのに
それをどう誰かに伝えられたり、うんうんそうだね、と聴いてもらえたり(したこともあったが)できたのか。
どうだっていい話をする相手そのものが、どうでもよくなくなってしまった時、どうしようもなくなってやるせなくてとても悲しいじゃない。
思い浮かぶ友人などにするにはまだ話題が適温でも整理済みでもなくって。
なにか他に、没頭することでぶつける方がきっとやりすごせるのだろう。
近頃に困ったとき読んだ本が、調べたエピソードが、聴いた話が全部つながって自分をセラピーしている状態である。
なんとまあ準備のよい私なんだろう。
傷付く準備にすら周到で、誰かを助けることでしか癒された気にもなれなくて、昔は年に一度参加した音楽ライブの高揚感だけで一年をやりすごすことができたのに、其れだけ没頭できるものが今はあまりにない。
体験の情報量、を欠き過ぎてこの2、3年で脳の老化も進んでしまったのだろうか。
こんなになんだか空っぽの自分がここにいることへに恐怖感がじんわりとわく。その空っぽを埋めるためにただただ情報を寄せ集める、それが活かせる場面はあったとしてもなんだかとても空虚で恐ろしい気がする。
何か学習をすすめたり、根を詰めたりするのには都合よく丁度いい空虚。そうやって過ごしていればちょっと落ち着くし、そうするほかないのかもしれない。