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読書録
『こねこのフーシカ』
誰かの猫にならない、自分は自分の物。
誰かの猫になったんじゃない、自分は自分の好きな大事な仲間たちと一緒に暮らす猫になっただけ。
フーシカのなつかなさをツンデレとか、誇り高さとかと表現できていい話だと単に感動するにはちょっと心がチクチクしてしまった。
ひとは簡単に名前を失ったり、名付けられたり、誰かの所属物になり得るし、これくらいの強さの拒絶を身にまとって自分を守ろうとする風景はどこかで言い換えたものを見たことがあるし、私も自身も誰かへのつながりとか所属はどちらかというとずっと苦手だ。
これが感動話になってしまうこと自体に、「同じ場にいるひとりぼっち同士」でいることを許してくれない社会観なのかなあ
と思ってしまった。
ムーミン谷の全員ソロプレー感(言い方)みたいなのと逆なのかなぁ。
拒絶を捨てられない自分を、それでもそんな自分を少し離れたところから大事にしてくれるもの、それが本当に自分の生死の境をつないでくれる瞬間はあるので、ダニエルじいさんはとてもその距離感をわかってくれる存在で、
ダニエルじいさんが引いたその距離感を許してくれる仲間たちでよかったなぁ。
フーシカからは「同じ場所」にいる「みんな」は同じにように見えているけれど、仲間たちひとりひとりを取り上げてみれば、ダニエルじいさんは仲間たち全員とそれぞれ異なる距離感を保ちながらそこにいるのだろう。
新入りの子猫の側だけからしか語られない物語だけれど、きっとそれぞれの仲間ひとりひとりに物語があるだろう。
フーシカの寝床に添えられたぬいぐるみは、かつてダニエルじいさんの家族のものだったり、家族そのものの象徴だったりしたかもしれない。
そこにいる、いられることは、場に参加していること。
一緒にいても一緒の事をしてもしないでもいい、くらい選択肢が保たれている距離がいいなぁと思う。