私から見たアートとは何か-メディアアート特論を通じて

はじめに

この春より晴れて大学院生となったjotakaは、このコロナ禍において逆に仕事が増えるという謎の現象が起き、日々映像制作に没頭していた。ともすると、学生生活に置く比重は絶対的に減り、なかなかの省エネな学生生活で半年が過ぎた。しかしながら数少ないものの必死に受けていた授業がある。それの1つが「メディアアート特論」である。本講義は城一裕先生が開講している。基本的には課題文献を閲覧し、その文章について書評、翌週の授業にてそれぞれのテーマからディスカッションを行うという構成である。

第一回が終わった時に、「これはなかなかいい授業で、なおかつ自らの書評もやはり知識としての浅さはあるものの自らの立ち位置を内外に示すために重要な文面になりうる。」という確信をした。授業終了後のいま、これらすべてをほぼ原文そのままを開示することは、おそらく3万字程度の長文になり誰にも読んでもらえないが、自分の立場を示すものになりうる。どうかはじめにとおわりにだけでも目を通していただきたい。

話は変わって、九大祭の中止が発表された。芸工祭はどうなるのか知らないが、思うことは多々ある。二年前に芸工祭の中止に伴って自らの団体の展示(没入型インスタレーション)が中止となった。あのときは芸工祭の中止よりも先に企画自体の中止を選択肢がない中で選ぶしかないという状況で、決められるのではなくサークル長として自らが決めるという重みがあった。(しかし他サークルに規模縮小での展示を打診されたがそれは没入型インスタレーションではなく、ただの”綺麗そうなもの”の寄せ集めになるとして断ったということはアート作品が何かに目的をおいたメッセージ性のあるものとして判断した自らのプロセスを誇りたい。)そこにあるのは所謂青春賛美とは真逆のベクトルの感情である。クリエーションにおいて時間と金という問題は往々にしてあるだろう。そのなかで100万を超える予算と140人規模の人員を二ヶ月間拘束し作品作りに没頭するという機会はかなり強いし実際かなりの重圧があった。ある意味芸工祭という機会は人材マーケティングの要素もあり、毎年多くの企業の社員さんが足を運んでいる。また、各々これらの潤沢な資金をベースに行った制作は後の就職活動にも役立つ。中止になった時にはむしろ貴重な2ヶ月を失った各団員の今後の就職活動が危ぶまれた。これ以上は私がいずれクリエイターとして羽ばたいたのちに芸工で凱旋トークでもするとして、実際にこれらのクリエーション・また本授業の各々の論を聞いていて思ったことがある。それは(アウトプットは場がないから仕方ないとして)「お前らインプット浅すぎね?」問題である。私の好きな映像作家さんのツイートに「vimeoのライク1000個つけろ」というものがあるが(実際このツイートを日々思い返して私も悔しい気持ちになる)、自分の周囲は極めてそれが浅い。pinterestで適当に良さげな作品の下方互換をつくりがちなのである。これはいわば主体性のあるアートではなくむしろそれっぽく見せるデザインっぽい思考回路なのだが、観覧者のペルソナがない以上デザイナーとしての分解能も著しく低いと言わざるを得ない。言ってしまえば無限にプログラマとクリエイターはいるのにディレクターがいないグループワーク。もう地獄である。もちろん自分も二年前同じことをしていた側面はあるが。

では、私がこの五年、アートとデザインを見て、思考した日々はどのように「インプット・アウトプット」を作り出したか。この授業の書評はその結晶であるだろう。この書評たちを通じて最後には自身が持つアートへの理解について述べて終わりたい。


第1回Lev Manovich の「予測」への書評


2020/05/17 

2020 年のCOVID-19 の世界的流⾏は、都市機能、国家機能を停⽌させ、経済活動において⼤きな打撃を与えている。そのなかで、対⾯的なコミュニケーションは解体され、オンライン上でのコミュニケーションを軸にした労働環境が急速に整備されている。Lev Manovich の本投稿はコミュニケーション、社会、学問、アートという複数領域におけるCOVID-19 による急速なパラダイムシフトへの「予測」である。

まず、Lev Manovich は1 年半から2 年にわたる労働のオンライン化を予測している。しかし、その反動による従来のコミュニケーション、物理空間での接触を望むと予測している。学術機関などにおいては資⾦、資源⾯では苦境に⽴たされるが、学者個⼈では多くの書籍、⽂献を読むことができるために発展性があると⽰唆している。なかでもデータや計算機科学の思考はCOVID-19 以降より重要視され、他領域の研究と組み合わされることでグローバル社会をとらえる必要があると予測している。社会においては、⽀配的な社会と⺠主的な社会の対⽴が崩壊し、メディアは厳しい規制を賞賛し国家は⾃由を制限することを推進している。芸術においてはマスクや距離といったテーマを中⼼に構成され、グローバル化により世界中を⾶び回っていたプロジェクトマネージャーたちが移動⼿段を断たれ、作品のみに集中をするアーティストへと戻ることで芸術的な発展をすることを予測している。(これは予測というよりも期待といったほうが近いかもしれない)また、最後に、創作においてSF のような出来事がCOVID-19 によって現実化することでSF のフィクション性が薄まり、SF 分野が衰退することを⽰唆している。

この投稿から約⼆ヶ⽉が経っているが、今もリモートワークをはじめとした急速な⼈間⽣活のオンライン化が進んでいる。私もLev Manovich と同様に⼈間は急速なオンライン化から物理的な接触を懇願するのかもしれないと三⽉時には思っていたが、このことはもはや予測というよりもCOVID-19 以前の社会へのアーティストとしての渇望なのかもしれないと思うようになった。このコロナ禍において、旅⾏を制限されている⼈々はグーグルマップで世界を旅し、ストリートビューをスクリーンショットし、加⼯を加えて旅⾏の記録写真⾵のSNS 投稿をしている。これらの事象と急激なコミュニケーションのオンライン化と拡張現実技術の導⼊が⾏えれば、⼈間が物理的接触のあるコミュニケーションを放棄する未来も想定できると思う。計算機科学とビッグデータの発展から、新たな⾮接触コミュニケーションツールとしてVR 的なツールの開発は進むと考えられるし、またアメーバピグやPlayStation Home のような仮想世界への回帰も⾏われると思う。最近で⾔えばFortnite によるDJ パーティがその動きの先端だと⾔えるだろう。社会、国家構成においては⾮常に危うくなっている。⽇本においても政府対応の緩慢さが指摘されることが増え、他国のような厳しい規制を求める声が多くある。Lev Manovich の⾔う「緊急時の対応」として規制はベターなのかもしれないが、社会において⼈権の侵害とも⾔えるこの世の中の⾵潮は正解と⾔えるのだろうか。また社会活動を⾏うアーティストは⼈権派、リベラル、社会主義であることが多いと思っていた。これらの主張⾃体、⼈権と社会主義の両⽴は理想ではあるものの、社会主義国家は⾃由が制限され、資本主義国家においては資本競争に敗れたものが淘汰されるCOVID-19 以前の世界の中で、危険性、⽭盾を抱えていたように思う。これらのアーティストは⾃由に⾔論ができる資本主義社会においてリベラルとして「反政府」的に振る舞うことが多い。⽇本においては反政府的な振る舞いから、規制を求める主張と、アーティストとしての活動持続を求める声と、COVID-19 以前の活動という1 アーティストとしての主張⾃体が⽭盾を⽣みアーティストの権威が落ちるのではないかと思う。Lev Manovich のいう「SF の衰退」だけではなく、COVID-19 以前の⽂化活動は全て過去のものへと変わっている。落合陽⼀がnote で述べていた(無料記事から有料へと変わっているのでリンクが貼れませんが…)が、「COVID-19 によってパラダイムシフトした社会においてはCOVID-19 以前のメディアアートは的外れの未来を描いた作品になった」という内容の記事を出していた。このなかで、閉鎖的な社会を望むCOVID-19 の⾵潮とCOVID-19 以前のリベラル思想の⽭盾により、従来の問題提起的なアーティスト像は崩壊を始め、リベラル派と国家主義派のアーティストによる作品提⽰や議論が巻き起こるのではないか(と個⼈的に期待している。)(完全に書評としては終わりなのだが、このコロナ禍において政治や⽂化活動への注⽬は良くも悪くも⾼まっている。Twitter をはじめとするSNS のなかで、COVID-19 以前の罵詈雑⾔のような政治思想の押し付け合いが注⽬の⾼まりにより消化され、多種多様な政治思想のなかで議論が深まり、政府の献⾦がどうだとか⾔う国⺠のなんの役にもたたない議論より暮らしに直結する良質な議論が起きるかな、と期待していた。しかしメディアはセンセーショナルな⾒出しをつけ、インフルエンサーは極論を振りかざし、それに対するリプライでは極論の押し付け合いと⼈格否定が繰り返され、注⽬が⾼まってもより低俗な社会になったのではないかと最近辟易してきた。せっかくコロナというパラダイムシフトへの機会を得たのにも関わらず無下にしている気がしてならない。良質な議論をしていきたいものです。)


第2回ユヴァル・ノア・ハラリ「新型コロナウイルス後の世界」への書評


2020/05/24 

COVID-19 下に置いて、世界中で厳しい都市封鎖をはじめとして多くの⾃由が制限されている。⾃由を制限するだけではなく、テクノロジーを⽤いた管理社会が実現されている。韓国では⼀⼈⼀⼈の位置情報を取得し、感染者の移動パターンを把握し、近隣で感染者が出た場合、位置情報を基にしてアラートが送られるという。⽇本においても、このような個⼈監視を徹底するべきだという声が⽇に⽇に⾼まっている。しかし、緊急事態下では従来実現できなかった厳しい規制を制定しやすくなるのに対して、それを前例としてコロナ禍以後も管理社会へとシフトしていく危険性がある。ユヴァル・ノア・ハラリの「新型コロナウイルス後の世界」は全体主義監視/⺠衆の権利とナショナリズムによる孤⽴/グローバルな団結という、2つの選択について論じ、科学によるデータ技術を基にしたグローバルな社会を実現すべきだという論調が取られている。

ユヴァル・ノア・ハラリはまず現代のテクノロジーにおける監視技術に着⽬している。ソ連では国⺠の監視を⾏うために諜報員で追跡を⾏なっていたため、管理の⽬を盗むことが可能であったが、テクノロジーによりスマートフォンや監視カメラの情報を基に管理を徹底できると述べる。COVID-19 下において、中国がスマートフォンのモニタリング、体温をはじめとした健康状態の報告、顔認証カメラの急速な導⼊によって感染疑惑者の把握と感染者への接触通知を⾏うことを可能にしたという。このようなテクノロジーを⽤いた監視システムをCOVID-19 下で導⼊を⽬指す政府も増えていると論じる。しかし、⺠衆のアクセス履歴や⽣体情報の監視によって、国⺠の感情や思想の管理、監視が可能となり、COVID-19 後の世界においても継続される危険性があると論じる。ユヴァル・ノア・ハラリはここまで述べた健康のための管理社会の実現かプライバシーのためのパンデミックの⼆択という問題設定が間違っていると主張する。プライバシーと健康は両⽴し、科学への信頼が実現することが必須であるという。⽯鹸で⼿を洗うことは19 世紀以降に定着し、衛⽣において重⼤な進歩を⽣むこととなったが、これらのことは強制によって実現したわけではなく科学的な事実に基づいた判断だという。ユヴァル・ノア・ハラリはいままで政府が科学・公的機関・マスメディアへの信頼を失わせていたことに加え、⼀般⼤衆を信頼せずに独裁国家への道を進む危険性があるという。科学と公的機関への信頼を⽣むことで、政府と国⺠の双⽅向的なモニタリングを可能とし、⾃由と健康の両⽴ができると主張する。

第⼆の主張としては、ナショナリズムによる孤⽴/グローバルな団結について述べている。COVID-19 下では感染が早かった国が、感染拡⼤中の国に対して情報を伝え、検査器や医療器具を世界的に分配し、協⼒し合うべきだという。さらに経済的⽀援や医療従事者の派遣を⾏うことで、世界的な協⼒をより深めるべきだと主張する。また、必要な⼈間に対してはグローバルな移動を可能にしていくべきだと論じる。2008 年の⾦融危機やエボラ出⾎熱においてはアメリカがリーダーとして動いたが、コロナ禍ではアメリカはナショナリズムを優先させ、EU の移動禁⽌を⾏い、ドイツのワクチン制作会社を買収し、⾃分たちの利益を優先していると批判している。新たな世界的なリーダーのもと、グローバルな団結を⾏うことがコロナ禍の解決につながると主張しユヴァル・ノア・ハラリは寄稿を終わらせている。

これらの主張について解決しなければいけない問題点があるように思える。まず、科学による管理においては、その技術を誰が管理するのかという問題がある。現実的に社会主義を⾏なっている国は、結局はどうか最適な政治を⾏なっていることは歴史的には明らかである。これと同様に政府が管理することになれば、管理社会になるのは明らかであるし、⺠間企業がそのようなデータを担うのかという問題はある。AI の発展によって公平な社会主義や科学管理が実現できるという期待はあるものの、プログラミング1つで情報を動かし⺠衆を扇動する可能性も否定はできないだろう。また、コロナ禍によって政府批判が各国で⾼まり、科学権威は⾼まっているが、マスメディアのセンセーショナルな振る舞いとニセ科学を⽤いたフェイクニュースには疑問が残る。また、世界的な公的機関であるはずのWHO の疑問が残る対応がこの混乱を⽣んでいることも忘れてはならない。このなかで“健常な”管理社会は実現可能であるだろうか。ユヴァル・ノア・ハラリが主張するように⾃発的な国⺠は公正な判断が可能であるだろうが、無知な⼈間は科学を⽤いた論点のすり替えによってプロパガンダに乗せられてしまうことは容易に想像がつくし、プロパガンダによって国⺠が扇動される様は冷戦以後のテロリズム、核管理に対しての戦争を⾏う名⽬で⾃国の強さを堅持したアメリカを⾒れば明らかなように思う。また、グローバルな協⼒は必要ではあるが、むしろ世界はコロナ禍でナショナリズムに傾倒し、他国への⽀援を国⺠⾃体が否定していると思う。そのなかで各国が他国のために⽀援を⾏うということが現実的だとは思えない。ただし、世界的に国家という枠組みを超えて協⼒を拡⼤する場合、SF や陰謀論のような“世界政府”的なものが実現するだろうし、その先に待っているのは多様性への議論のように思える。各政府がナショナリズムに向かっていく⼀⽅、科学主義、管理社会を求める世界のリーダーシップを取るのは国家ではなく、ビッグデータの扱いが容易なGoogle やワクチンに多くの資⾦提供を⾏うMicrosoft をはじめとしたGAFAM なのかもしれないと思う。ユヴァル・ノア・ハラリが述べる理想的な社会は”世界政府“のAI による公正な管理社会のように感じる。この書評を読み、⻑らくSF や陰謀論で表現されてきたユートピア的な世界と、「その世界が何に管理されているのか」というディストピア的な解釈でレジスタンスを⾏う作品を近い将来の世界だと考え適切に思考していく必要があるように感じた。

感想:1つの共通した興味を基に未来に向かって議論できるという授業形態はやっててすごく⾯⽩い。ただ、テーマが壮⼤すぎて、議論時間がやや⾜りないように感じるのが難しい。そのうえで時間を割くことが難しいとは思うが、メディアアート・スペキュラティブデザインにある程度精通しているとこのテーマはメディアアートについて⼤事な議論を⾏なっているとわかるが理解していないとなぜメディアアートでこの議論を⾏なっているのかわからないと思うので10~20 分程度歴史とアート、デザインの枠組みについて解説をいただけると全員の理解が深まり良質な議論ができると思います。


(2020-08-07追記:BLMまわりの分断を予測していて面白いかもしれない。)


第3回布施琳太郎企画「隔離式濃厚接触室」への展評

2020/05/30 

 COVID-19により多くの美術展示が展示中止、もしくは延期に追い込まれている。多くの人間が1つの空間に密接にいる状況が産めないため、また、展示場までの移動中に覆うの人間との接触が想定されるためである。芸術家、とくにファインアートや空間展示のアーティストは現実空間からインターネット空間へのシフトを行わなければならない現状に立たされている。また、芸術に対して政府からの援助方針は示されているが、緊急性のない芸術に対しての厚い支援は批判されることが少なくない。そのなかで2020年4月30日よりインターネット上に展示されている布施琳太郎の「隔離式濃厚接触室」は、インターネットを用いた展示の特異性を逆手に取りながら、作品と鑑賞者の孤立性そして生をテーマにした作品になっている。
 作品内容としては、Webページ上の上部に水沢なおによる「シー」という題のポエムがあり、下部には鑑賞者の現在地を基にしたグーグルマップのストリートビューによる映像展示が行われている。また、このページに複数人がアクセスしようとした場合、アクセスが弾かれるようになっている。布施はアクセスサイトの中にノートを記述している[1]。「つまり芸術家やキュレーターに対する経済制裁が表現を弾圧する力を持ってしまった事実。そして物質の移動や不動産の維持、物理空間を根拠とした体験がウイルスによって阻害される現状……こうした状況を省みたとき、私たちが直面している問題とは産業資本主義に基づいた社会であることに気がつく。 つまり資本の運動に芸術作品を組み込むことで過剰な利潤を得たり、その運動を加速させるためにアートマーケットを利用するのではなく、そうしたシステムの余白として芸術という概念を利用することができるはずだ。つまり「生産–再生産」から切り離された芸術について考えること——ここで僕は、芸術家の生存方法が、芸術にとって重要な問題ではないという視点に立っている。まず芸術は、芸術として体験される必要がある。これが芸術の基礎であることを誰が否定できようか?経済制裁とウイルスと共生しながら、芸術を体験させ、体験する方法。それを模索しなければならない。」「しかしウェブサイトを用いた展覧会の多くは、孤独から遠く隔たった、過剰な接続を誘発する企画ばかりである。そうであるばかりか「オンラインビューイング」や「バーチャルツアー」といった言葉のもとで、体験を捨象した情報や商品として作品が発表されることさえある。こうした展覧会は都市のなかで自らが果たすべき役割を放棄し、既に存在するコミュニティを強化するばかりだ。(中略) あなたが1人であることを条件に、アクセスできるウェブページ=展覧会。それはどんなコミュニティにも依存しない最小単位の分断である。芸術は繋がりを育むためにあるのではなく、これまでにない仕方で繋がりを断つためにあるのだ。それこそが新しい孤独であり、感染隔離の時代に芸術が果たすべき役割だ。」 布施はこのノートによって、資本主義社会から芸術を切り離し、芸術そのものを体験させることと、作品の中で人間の分断を目指していると表明している。
また、布施は美術手帖にも寄稿している[2]。「 「ひとりずつしかアクセスできないウェブページ」へのアクセスを試みるのは、ひとりの人間だけではない。この世界のどこかにいる複数の匿名の誰かも、同時にアクセスを試みる。誰かが鑑賞しているかぎり、「私」は展覧会を鑑賞することができないのだ。その待ち時間と鑑賞時間の往復によって複数の人々が、既成のコミュニティや労働関係を打ち捨てたり、壊したりすることなく、「私たち」としての別の共同性を獲得する。」このことにより、作品鑑賞中には孤独を獲得し、鑑賞できない場合には自分とは別の存在を感じられるという効果が生まれる。これは現在行われている多くのインターネットイベントが「鑑賞者」というコミュニティを気づき、非鑑賞者を排除している状況と真逆だと言えるだろう。同寄稿内にて布施は「そして、その本文において断片的に繰り返され、かき混ぜられていく生殖に関するイメージ、様々な過去と現在、こことそこ。その攪拌のプロセスによって私たちは、システムから遊離してそれぞれの孤独のなかで言葉を組み立て、各々の秘密をアレンジする。誰もが誰かの個人的な記憶へと、言葉をレンダリングする。状況としての不安が、つながりの混濁が、スマートフォンの上で詩へと変質していく」と詩を評している。詩中では性を想起させるワード、生を想起させるワード、学生生活を想起させるワードの中で、個の持つ生と孤独について考えさせられる。
  本作品はもともと、COVID-19のために試作されたわけではなく、あいちトリエンナーレ騒動の中で商業から芸術を分離し、芸術によって孤独を表現するという中から生まれたようだが、現実空間を共有できず、過度なインターネットコミュニティが形成されているCOVID-19下にて、本作品の「一人しか鑑賞できない」という特性はインターネット上に実現されていない孤独性をうまく表現していると思う。また、Googleマップによって鑑賞者の近隣を映すという手法は作品が鑑賞者個人のパーソナルスペースに踏み入っているとも言えるし、鑑賞者の行動範囲によっては、自粛期間での生きている現実空間を丸ごと映すことにも、もしくは自粛によって失われた過去の空間を移すことにもつながり、各々の「孤立と隔離」にレンダリングされていくのだと思う。美術手帖ではこの作品がカメラオブスクラに根ざしたもの[3]だと評されているが、これは「近場をデバイスという閉じた個人空間にだけ投影する」という特性位が共通していると考察できる。また、水沢なおの「シー」には「たまご、羊水、芽キャベツ、葉脈」という生を意識させるワードと「きみ」という捉えがたい存在が孤立と生を想起させ「知らない国の小鍋の中で水が煮えているのだ」というワードによって自分が所属しないコミュニティが並行して進み続けていることを感じる。この2つの作品を通して、COVID-19下における現実空間への孤立と飽和されたネットワークコミュニティを改めて認識させられ、映像によってパーソナルスペースに踏み込まれるという心地よさと、コミュニティから分離した「自分」という生の存在の気持ち良さを感じた。この展示はコミュニティからの「隔離」であり「自分という生」に対しての内的な「濃厚接触」だと言えるだろう。


参考文献
[1] 感染隔離の時代の芸術のためのノート(2020年4月7日)https://rintarofuse.com/covid19.html
[2] 美術手帖-布施琳太郎が問うコロナ禍と「つながり」。あなたがあなたと出会うために──不安の抗体としての、秘密の共有-2020年5月16日 https://bijutsutecho.com/magazine/series/s25/21901

[3]美術手帖-会場は「ひとりずつしかアクセスできないウェブページ」。布施琳太郎の企画による展覧会「隔離式濃厚接触室」とは?-2020年4月11日https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/21692

//授業コメント
今回の議論テーマはどれも面白かったです。時間に余裕があったら、発表後に軽く質疑や議論ができるといいなと思ったり。今回は作品解説も多く濃厚な授業だったと思いました。

第4回Lev Manovich-2020/05/28FaceBook投稿に対する書評


2020/06/07 

メディアアート、デジタルアートはコンピューターの普及・発展と、多くのソフトウェアの開発によって成長を続けてきた。Maxはビジュアライズ・サウンドインタラクティブにとどまらず、システム設計を担い、MayaやCinema 4Dといった3Dモデリングツールはサブスクリプションによってコストダウンされ、TouchDesigner、puredata、UnrealEngine、Unityと多くのツールが無償公開されている。このように多岐にわたるツールの中でインタラクティブアートやジェネレーティブアートが発展する一方で、デジタルアートはファインアートとの対立を持っている[1]。この記事中ではTeamLabが規模以外にアートとしてどのような価値を持っているかを複数面からまとめたブログである。このようなアートとして賛否両論が絶えないデジタルアートについてLev Manovichはそこからアートとはどのようなものかを議論しようとしている。
Lev Manovichはまず、デジタルアートの発展には、(1)PCの高速化(2)プログラミングアート言語の開発(3)Webでの閲覧だけでなくチュートリアルがあることが要素としてあると挙げている。しかしながら、このようなアートのほとんどが何かしらのコンセプトや意味があるわけではなく、エンターテイメントとして処理されるおもちゃか、「高尚な」意味を持たせるように装っているだけだと批判している。一方でアート/デザイン系のウェブページ(pinterestやBehance)で「digital art」で検索すると、従来の問題提起のような芸術作品の類ではなく、映画やアニメ、ゲームのような人間や風景やファンタジーの画像やアニメーションが出てくる。これらの作品をLev Manovichは「ハイ(デジタル)アート」として評価できるとしている。また、多くの「デジタルアーティスト」は「業界」に入りたく、美術大などで勉強せずにいる。そのため雇われるために「綺麗な作品」ではなく「機能的」で狭い分野でのスキルをアピールする必要があると指摘する。これらの議論を通じて、「芸術」とはなにかを議論している。Lev Manovichは芸術家と呼ぶにはいくつかの条件があるという。(1)芸術・美術学校を卒業している。(2)アートを販売している。(3)アート活動に参加している-しかしInstagramに写真をあげている人間は芸術活動か写真撮影かは各々のスタンス次第であるとしている。そして(4)として、「社会が芸術と紐つける道具を用いた活動をすること」をあげている。筆やキャンバスを用いていたが、それが現代ではアプリケーションに拡張されることでRev Manovichは「デジタルアーティスト」と名乗れるだろうとしている。
本書評では「ジェネレーティブアート」と「(商業的な)デジタルアーティスト」について考えていこうと思う。最初にジェネレーティブアートについてだが、僕も制作しているのでわかるが、わりとコンセプトがなく自動的に生成されるという側面があり、そこに意味付けをしているのは事実であるように思う。実際前述したTeamLabでも同様手法を複数地点で行なっているのにも関わらずそれぞれに対して「それっぽい」地域にあったキャプションに変えている。ここに関しては「芸術にはコンセプト・メッセージがある」ということを考えると批判される必要はあると思う。しかしながら、ビジュアライズするにあたって「このような視覚表現を行いたい」という意識はあるように思うので、そこに嘘偽りがなくコンセプトがある場合は芸術として評価されるべきだと思う。しかし、そこにアーティストがついてきていないというのが現状だろう。2018年に行われた福岡科学館での「404 Festival」は大半がモデリングしたものがkinectでインタラクティブに動くものがベースで見た感想としては「なんとなくすごそうに見えるものを出しておいた」ように見えた。この分野についてはコンセプトアートというよりも、テクノロジーベースでどこかに転がっているサンプルプログラムで面白そうに見えることをやっているに過ぎないのだろう。
次に「(商業的な)デジタルアーティスト」であるが、Lev Manovichが「ハイ・アート」と評しているのは自分が作りたい世界を持ってそれを表現しようとしているということだと思う。それを行うことは、他作品の流用であっても「これがいい」という意思の表明だと思う。しかし、彼らの目的がそのようなスタジオへの所属を目的としたアーティストなのだとしたら、目的の先にあるのはコンセプトを持ったアーティストなのだろうか、と疑問に思った。彼らはその後スタジオにて何か優れたスキルがあるエンジニア・クリエイターとして消費されていくのではないだろうか。このような消費からメッセージ性を孕んだデジタルアートとして昇華したのはBeeple[2]のように思う。彼はもともと良質な3Dデータ、VJ Clipをアップロードしていたが、最近はコンセプトを持った社会的なデジタルアートを作っている。このように自分なりのコンセプトを持った昇華を行なっていけば、メディアアートはハイ・アートとして評価される時代が近づいていくと思う。
この評論から考えさせられるのは改めて「アーティスト」とは何かということだ。コンセプトなしで「なんか良さそうなものにそれっぽいキャプション」を載せたものは「アート」なのか。いいと思った作品のファンアートは「アート」なのか。(ここに関してはRev Manovichが大衆アートとデザインに細かい差別化を主なっていないというのも理由だと思う)

参考文献
[1]永松歩-批評とTeamLab 2018-06-14 https://ayumu-nagamatsu.com/archives/811/ 2020-06-07閲覧
[2]Beeple https://www.beeple-crap.com 2020-06-07閲覧

//前回感想 今回初めて概念みたいな話ではなく、具体的なシステムや現状認識みたいな話でこれはこれでアイデアの回収しがいがあると思った。自分も含めて発想、クリエイションが弱いと思ったのでみんなでこの授業で高めていきたいですね。

第5回Invisible-A Rat and Refugeesを見て


2020/06/14 

バンクシーは「愛はゴミ箱の中に」で行われたシュレッダーに落札商品をかけるというパフォーマンスによって、一般の間にグラフィティが持つ型破りな姿勢を浸透させた。芸術・グラフィティに興味がない人間にまでバンクシーの名が浸透した中、2019年にバンクシーのものと思われる作品を東京都が保管し、公開したことと、その付近に描かれた「Free Refugees」を撤去したことで様々な意見が巻き起こった。
「Invisible-A Rat and Refugees」はそのようなバンクシーと「Free Refugees」を取り巻く議論について有識者たちの意見、事実をまとめたドキュメンタリーフィルムとなっている。ここでバンクシーの作品の中で巻き起こった議論としてグラフィティを政府は認めるか、そしてグラフィティを保護する必要があるのかということがある。本作の中でも、「日本が認めることで作品や表現の自由を生む」「これを政府が認めることでグラフィティとしてのカウンターカルチャーとしての意味が変わってくる」と意見が分かれている。しかし、共通している考えとして、「日本の排他的な考え方、権威主義的な考え方」がもとにあることが浮き出てくる。一方で、撤去された「Free Refugees」が難民問題に対して日本が排除を行なっている、グラフィティがそれを批判しているという構図に関してグラフィティを排除することで法を盾に難民問題の言論を封殺、排除することを批判している。
 この「権威主義」「法律主義」という、日本人に染み付いたある種の国民性は、確実にカルチャーの芽を摘んでいる。極端にアンダーグラウンドを嫌う傾向のなかで、グラフィティやHIP-HOPという文化を避けていることも事実だと思う。長年「クラブは危ないところ」ということや、「ラッパーは文化としてレベルが低い」のような偏見を生んでいる。これは、法治国家としてはもちろん良い国民性であるし、「法」がなければ「アウトロー」も成立しないからこそ、アンダーグラウンドカルチャーが発展していく土壌はあると思う。ただこの行きすぎた大衆の“法のもとでの”相互監視姿勢がその土壌を殺している。その点で「アウトロー」だからこそ成り立つグラフィティに(高尚な)文化としての権威を持たせる東京都の姿勢はナンセンスだったと思う。(諸事情により削除)
//感想

(諸事情により削除)
授業感想として、今回の議論テーマはやりがいがありました。ただ究極的に今回の議論テーマは全部行き着くところが同じ議論かなと思いました。全部密接というか。そういうことを意識して縦断したような方向に議論を持って行きました。他の議論見てたらそういう感じの雰囲気なかったのが意外でしたね(諸事情により削除)ただ上の代から批判受けるっていうのは大事だと思います。批判がある=従来の概念とは違うってことなんで、確実に進化か退化かは別にして転換が起こっているっていうことだと思います。若者が何かを作り、そこに対しての上の代の批評、賞賛があり、それをもとに修正したり、逆に反発してもっと変なことをすることで新たな議論が広がっていくと思うので。そのためにアーティスト間では作品だけでなく言葉の議論を交わすことも大事だと思います。(諸事情により削除)

第6回What is poetic computation?をみて

https://player.vimeo.com/video/411246278


2020/06/22

メディアアートやデジタルアートに対しての批判的な内容を前々回のマノビッチで取り上げたことに対して、これらをはじめとしたプログラム・コンピュータ科学について詩的な感覚を持った議題として討論しているのが本動画である。

この論の中でコンピュータ技術の存在自体を人間における社会・共同体としての概念として捉えている流れがある。技術自体が人間を規定しているような情報社会の中で、コンピュータ自体が共同体の一部として、そして共同体がコンピュータ技術を作り出すような感覚であると思う。これらの内容を通して見ると、コンピュータのOS によって「マカー」や「林檎信者」みたいに共同体を形成しているように感じる。その一方で統一される規格媒体やセンサー技術における人間のモデル化、 ならびにその技術自体が機械学習による高度なモデル化によって成り立つことを想起させられた。これらの技術は一視点で見たら「人間」というものをひとつの共同体としてモデル化するという究極的な多様性の許容とも言えるだろうし、逆に全ての物事を一元化しているという批判的な態度を取れるだろうなと思った。ネット上で機械翻訳が充実し、顔を合わせなくても匿名性を持ったまま共同体を作り得ることができ、多様性を持つことも「ブロック機能」を用いてレイシズムを生むこともできるネット社会というものを改めて考えていこうと思った。

コメント:提出遅れた上に、全然聴きこめなくて申し訳ないです。前回は割とアングラなカルチャーの話が盛り上がりました。その中でふと思い出したクラブゴールドの話ですが、バブル当時に非常階段で男女が性交をしてて天国の階段と呼ばれていた…みたいな話をして、これは品のない話ですが割とこういう話が好きだなあと思いました。性ってわりと避けられるテーマなのですが、人間としてすごく根源的なのでアートとの相性がいいし、動物として根源的なものを隠そうとする人間の社会性が不思議だなあ、と会田誠の授業を批判した学生の話などもふと思い出した。西洋美術を教える先生が毎年セクハラと言われて苦情が来るみたいな話もこないだツイッターで見ました。議論してみたいけどめっちゃ炎上しそうなテーマだなあ。


第7回サイバースペース独立宣言を読んで

https://www.eff.org/cyberspace-independence 

2020/06/28 

「winny事件」ではマスメディアはネットワークを使用する危険性を説いていたが、通信基盤が固まりスマートフォンが普及した今、マスメディアはネットワーク媒体にシフトし、芸能活動もYouTubeにシフトした。また、政府もコロナ禍における国民の位置特定やキャッシュレス決済の促進、マイナンバー制度の充実化のためにインターネットを広く用いるようになった。バーロウによってサイバースペース独立宣言が公表された頃にはこのような想定とはかけ離れたある種のアンダーグラウンドとしてのインターネットの見方がある。
 本論ではバーロウによってサイバースペースというものが政府に統治された社会や国境や人種というそれまでの共同体から独立した共同体であり、自由な思想、価値観のもとで肉体、物質に依存しない精神的なダイバーシティを持った世界、または共同体であるという主張をしている。また、この自由な精神の共同体は地球全体に分散するためあらゆる政府からの制限も受けないと主張している。
 その後のサイバースペース、特に日本国内においての2ちゃんねるをはじめとしたコミュニティは良くも悪くもアンダーグラウンドなカルチャーを生成した。著作権に縛られない自由な表現が2ちゃんねるからニコニコ動画へと波及した。しかし「winny事件」をはじめとして、著作権やポルノ、誹謗中傷などの問題から匿名性という「自分ごと」にできない状況による過激な行動は問題視されることになる。これは海外における4chanやイルべなども同様である。
 その後、サイバー犯罪やサイバーテロ対策で司法が充実していくことになる。これはバーロウが主張するようにサイバースペースが共同なき共同体として作用した自由さゆえにその脅威、問題点は各国で対策する必要があったということである。これはサイバースペースがあまりにも共同体として自由すぎたゆえに、それを縛る法すらも持たない共同体であったという構造の問題を感じる。
また、現代ではインターネット、サイバースペースによって発達した文明はもはや先進国の住民ひとりひとりがサイバースペースの住民と言えるような環境になった。そうなるともはやサイバースペースは地球という共同体との差分は少なくなった。そして、バーロウが言うようにダイバーシティが許容される以上、そこに政府のスペースがあるのもおかしなことではないだろう。結果的にバーロウが言うダイバーシティは実現せずに行政の介入と行政の利用が起きるわけだが、これはバーロウの主張する多様性と、自由ゆえの制限のなさが生んだ結果と言えるだろう。

//書評としてこれ以上書くとまとまりがなさそうなのですが、個人的に結果的にコロナ禍でインターネットを用いて政府がアンダーコントロールを実現できる土壌が育まれたことや、IT企業によるライフライン、流通、金融への介入とそれらの政府推進は「民営化」のように見せかけ(企業に責任を取らせた上で)企業を政府の犬にしているような違和感が若干あります。確実に言えることは、インターネットはもはやアンダーグラウンドではなく、現実世界の一部として機能しているということですね。この功罪については簡単に賛否を断言できるものではないと感じました。

//今回の授業感想 「詩」というものの捉え方について議論した。詩と言うものが文脈との接点により生成、理解されるという議論スタンスは良かった気がする。「エモい」が何かが割と言語化できてた。文脈とか見つめ直す議論はもっとやっていきたい。(それこそそれぞれが感じている文脈の理解は微妙に界隈によってずれがあると思うので)

(2020-08-07追記:「エモい」はノスタルジーや変化の最中に感じる的な議論だった気がする)


第8回「法が創造性を圧迫する」について


2020/06/28 

 YouTubeやTiktokといった動画共有サービスが台頭する一方で、ニコニコ動画の没落感は強くある。MADなどと呼ばれる動画でオタクカルチャーに浸透したニコニコ動画はvocaloidなどを中心としたより一次生産的なクリエイションに転換し、多くの公式パーティなどを行う中でその赤字に耐えられず事業縮小を余儀なくされた。今回取り上げるローレンスによる「法が創造性を圧迫する」を発表した2007年はまさにニコニコ動画がMADやflash動画で賑わっていた時期である。
 この論の中ではスーザの「蓄音機が再創造性を圧迫した」と主張したこと、飛行機の地区侵入が法のもとに保障されたこと、ASCAPとBMIの音楽に対するライセンスの物語という3つの歴史的な物語から現代のネットカルチャーについての見つめ直しを図っている。本論では、日本ではMAD動画と言われるアニメミュージックビデオの再創造性について取り上げている。これらはアニメ動画をはじめとした既存作品をクリッピングし、音楽に合わせるという二次創作的なコンテンツである。このような方法はアマチュア作品として盛り上がりを見せている一方でその制作が著作権に触れているという問題点がある。2007年当時ではYouTubeのコンテンツのなかで自動的に著作権に触れたものは除外されるという制度があった。一方でクリエイションに富んだ若者の中では著作権を廃止しクリエイションに寄るべきだという論調もある。このバランス制御に議会が介入するのは難しいとローレンスは考える。そのため民間企業が非営利での使用を許可する代わりに、営利目的の再利用を取り締まることによって再創造性を保護できると説く。本論は再創造性を圧迫することで優れた若手を犯罪者にするのではなく再創造性を尊重し歩み寄ることができると主張している。
 この論の中で、まさにニコニコ動画はMADを取り締まる中で徐々にユーザが離れたという実例がある。一方でTiktokは音楽に乗せて自由な再創造をユーザが行うことで若者の中での地位を得た。YouTubeにおいても最近は著作権を含んだコンテンツは非営利のみの使用で広告料が投稿者に入れないような制度体系をとっていることから2007年からの13年間でローレンスの考えは実現されてきていると言えるだろう(時々限定公開でも権利問題で即時ブロックされるのは少し困るが…)
 しかし、再創造性によって良くも悪くも作品イメージが左右されることもあるだろう。漫画の「NARUTO」は少年ジャンプの看板作品であったが、二次創作的なコラ画像は作品の手を離れてTwitterや2ちゃんねるで使用されているし、キャラクターの一人である大蛇丸の声を真似た料理系YouTuber「とっくん」はYouTuberを仕事として成り立たせ、「大蛇丸」というキャラクターのイメージ自体に影響した。またPerfumeの楽曲「パーフェクトスターパーフェクトスタイル」は「アイドルマスター」のゲーム映像を用いた二次創作MVが制作され、アニメオタクたちにPerfumeの認知度を爆発的に上げるきっかけを作った。
 DJカルチャーとオタクカルチャーが合流する中でDJカルチャーが持つ再創造性を一次創作の場で利用するケースも増えた。アニメ「ご注文はうさぎですか?」では公式にDJパーティが行われたし、イベント「Re:Animation」ではDJイベントの枠を超え、アニソンシンガーなどの「公式」がDJカルチャーに参加するフェスに進化した例もある。
 VJとして活動する自身の感覚としてもこの再創造性と著作権の問題は難しい問題に感じる。それこそ、アニクラと呼ばれるアニメクラブイベントでは、DJが流す音楽に合わせてその作品のオープニング映像やクリップ映像を流すのはある種のお約束となっている。前述の「ご注文はうさぎですか?」のパーティ中ではVJが公式としてこのようなクリップを用いたVJプレイを行なってる一方、「Re:Animation」ではこのような「公式映像」を使わないようにVJ側に要望を出していると言われている。この中の問題としてアニメ制作会社がこのような再創造についての立場を明確にしておらず、商業色の強いイベントだと著作権侵害として世間から批判を受けることや、そのうえで制作側が原告として訴えを起こさない限り著作権の侵害が成立しないという問題がある。ローレンスが言うように作品ごとにパブリックドメイン的に使えるかというスタンスをはっきりさせればこのような再創造性の高いコンテンツの盛り上がりは高くなると思う。実際に、DJイベントはクラブやライブハウスがJASRACとの包括契約を行うことで著作権の問題を解決し、再創造性を高めている。クリエイター、著作権保持者の両方が互いをリスペクトし、作品イメージを保ちながらも非商業圏における再創造性を高めていくことがエンターテイメントの充実に有効な役割を果たすと思う。

//前回はSNSが早すぎたのかと言う議論を行いました。結論として世界縦断的な法がない以上ある意味インターネットはまだまだ「旧石器時代的」と言う感じで、早いわけではなく、ネット上の戦争=ある種の炎上や中傷が問題視されるなかで高度な文明として成立させるべきという議論になりました。個人的にも暴論だと思うのですがまあ人類誕生以降数知れぬほど争っていたのにネットという新たな共同体において現在の戦争が減った社会の話をしても仕方がないなあと思いました。新たな共同体っぽく争う中で進化していけばいいと思います。
関係ないですが名もなき実昌+布施琳太郎『Pandora Battery』を見てきました。なかなか福岡で観れるレベルの現代美術、インスタレーションじゃないよなあと感動しました。仕組みとしてはテック的じゃないけど見せ方のうまさがすごいなと思いました。偏光板を外した液晶の前に偏光板を吊るすなど見え方の意外性や、動画の中身とブラウン管、ディスプレイ、プロジェクターからの光というメディアの変化から文脈を感じるなど楽しめました。いい展示だったので投げ銭したいくらいの気持ちになりました。

第9回The Hacking Monopolism Trilogy


2020/07/12 
 Google,Amazon,Facebook,AppleがGAFAとよばれるITの4大企業とされ、情報社会である現代の中心企業とされる。本論文はこれらの企業に対しハックを仕掛けたものをまとめたものとなる。
「Google Will Eat Itself」はGoogle広告を用いて得た利益を用いてGoogleを購入するというプロジェクトで、「Amazon Noir」はP2Pを利用しAmazonの冒頭文のプレビューから検索を繰り返して文書のフルデータを再現、「Face To Facebook」ではFacebookユーザの公開情報から顔写真をアルゴリズムで分析し、性格のタグ付けを行って出会い系サイトを立ち上げた。これら3つのプロジェクトによって企業が持つ機密性をハックし、これらの企業が持つ脆弱性を指摘した。また、これらの企業は資本主義の中でソーシャルネットワークという仮想空間は経済的な利益を追い求め、ユーザ数が経済価値を持つという状態になっている。この事実によって自分が主体性を持ってソーシャルネットワークに参加しているつもりでもそのアイデンティティは企業がプロファイル、タグつけした中でのアイデンティティ、コミュニティとして全世界に発信される危険がある。この脆弱性によって個人が情報の悪用により危険に立たされる可能性があることをこの論文で警鐘している。
 この論文を読んで、前に取り上げられていた位置情報共有SNSや、現在のメディア投稿サービス、そして出会い系などのことを考えた。YouTuberは企業広告の利用により稼ぎを得ているしインスタグラマーは企業の商品をある種ステルスマーケティング的に掲載するなどして利益を得ている。この構図は今までマスメディアなどで芸能人がTVの閲覧数を稼ぎ、TVCMにより利益を得ていた構図が個人に拡張しているような感覚を受ける。また、出会い系サービスはいまや一般人が広く登録し出会いのプラットフォームとして使用している。これもある種合コンや昔は駅に設置されていた掲示板やテレクラなどの拡張版であるような気もする。論文中ではこれらの個人情報を企業が保持している危険性が指摘されている。また、小学校から教育の中でネットリテラシーというものが指摘されてきた。これらの指摘はもはや仮想空間でのコミュニケーションが当たり前となり、個人情報をオープンにする時代が到来する中で崩壊しつつある気もする。これらの問題を指摘するのは現在メインターゲットとなっている人間というよりも「旧時代」の人間な気がしてならない。今までは国によって規定された価値観をGAFAなどが規定することで若者は若者でまた違う価値観を持って生きるのではないだろうか。この個人情報を企業が保有するということは危険性以外に良い要素もあると思う。たとえば国が個人情報を流出させても国はほぼ損害なく存続していくであろうが、企業は株価の損失という経済的な問題を持つことになる。そのために企業はセキュリティを強化するだろう。また、ネットワーク情報をもとに政府が情報を管理すれば個人監視が容易になる(マイナンバー導入当初に言われていた懸念点でもある)がこれらの情報は企業が管理することである意味の戸籍的情報とパーソナリティに近い部分の情報の「分立」が謀れるようになる。「三権分立」と同様に国というコミュニティのなかでの情報とサービス、企業が作る世界というコミュニティの中での情報とサービスが分立されれば個人の生活を豊かにするだろう。

//今回は「書こうと思うきっかけとは」について話しました。意外と難しく議論が停滞気味でした。結局巨人の肩に乗るじゃないけど過去の歴史の上にしかクリエイションは成り立たないように感じました。このへんはデザイナー的な思考とアーティスト的な思考で巨人の肩に乗り方とかクリエイションに対する主体性の考え方がだいぶ違う予感がしました。

第10回ブラックミラー「ランク社会」

2020/07/19
 ブラックミラーは「起こりうる未来」を描いた作品としてテクノロジーが発展した時にある種のディストピアのようなものを描き出している。
 「ランク社会」では架空アプリによる人間のレビューが行われ、そのレビューに基づき人間が享受できるサービスの質が変わるという世界観のもとで作品が進行している。主人公は自分の評価を上げるために様々な策略を行うがうまくいかずについには犯罪に手を染めるという展開になっている。
 参考資料にあるように、中国においては同様の人間のスコア付けを行うアプリケーションが実現されている。この制度の問題点としては「何が点数の基準にあるのか」ということがある。たとえば。政府に好感度が高いツイートのスコアが高く、政府に反対をするツイートのスコアが低いという評価にしてしまえば言論統制が可能になっていく。ただ、(真偽はさておき)政治的な発言が多いツイッターユーザーは「意図的にツイートが削除された」などの書き込みを行なっている。SNSが発達し。頼らざるを得ない現代においてこのような監視社会は企業と国が結託を行えば容易に可能になると考えられる。(一方でSNSが世界に開かれていることによって、IT会社が複数国に結託をしない、言ってしまえば傾倒するとしても1つの思想に浸かるしかなく、そのサービスに人民が疑問を持てばサービスから離れるというのはひとつの利点だと思う)
また、点数付けを行うのが好きなのも人間の性だと思う。現に買い物を行うときはamazonのレビューを参考にし、ご飯を食べるときは食べログを参考にするがそのレビュー自体に業者が介入し意図的に評価を上げたり、敵対企業に低評価をつけることもあるという。SNSにおいてもリアクションを求めいわゆる「バカッター」のような炎上ありきの投稿や、フォロワー買いなどにより信頼を得ることもある。アイドルにおいてはファンがアイドルのアカウントにフォロワー買いを行うという事例もある。[1]
 このような人間への点数付けを行うという傾向はネットワークが発達した社会において、より客観的な意見を見たいというレビュー文化と気軽に人間と接続されるSNS社会において仕方がない進み方のように感じる。レビューにおいてもそうだし、昨今のSNSの誹謗中傷においてもそうだが、単純な点数や強い言論に引きずられることなく各々が様々な情報を取捨選択し多角的で冷静な判断が行えれば、主体的な世の中となり、このようなディストピアに流されることもないと思う。(しかしながら世の中のほとんどは主体性がないだけでなく多角的な見方もしないし、この授業の議論で「実際主体性がなく受け身で誰かに決められている身の回りや社会のあり方の方が楽だし気持ちいい」みたいな意見が多いのでそのような世の中にはならず人間は短絡的に価値を求めてディストピアに落ちていくでしょうね)

//今回ディスカッションでは、個人情報は大事かという内容で話しました。現代における個人情報がどこまで含まれるのかという話になりました。おそらく「変えが効かないもの(たとえば電話番号)」や「フィジカルに関わるもの(たとえば住所)」などがオープンになるのは嫌だという話になりました。人間が今以上にフィジカルから離れるのは難しいと思いますが、もしかしたらもっとインターネットが生活に介入されたら住所よりもユーザーページの方が大事みたいな人間が出てきてもおかしくないですね。と考えるともしもランク社会が実現したらSNSの不正ログイン、不正投稿で意図的に点数を下げようとする人間とか増えてもっとユーザー情報が重視されたりするんだろうなと思いました。あとはめっちゃ善行重ねた後に意図的に炎上するYouTuberとかが出てくるんだろうなあ。それでさらに思い出しましたがYouTubeの広告収入とかも使いようによっては思想統制に使えるんでしょうね。意図的に特定のものを収益外にするとか。

[1]https://shirokyan0808.com/posts/4205977/

第11回DIY Music On Desktop」について

https://www.youtube.com/watch?v=viIktfY17sk&feature=youtu.be


2020/07/27 
 楽器というのは演奏者からしてみたら完全に「ブラックボックス」的である。エレキギターがエフェクターを通して音声信号になるまでの過程でどのような電気的な変換、加工が加えられているかを考えているプレイヤーは多数派だとは思えない。また、DAWにおけるプラグインがこれらのフィジカル的な楽器の仕組みをどのようにしてPCに落とし込み加工をかけているのか、というところまで思考を深める人間はさらに少ないだろう。本イベントにおいてはこれらのブラックボックスをいかに表面化し「サウンドパフォーマンスがDIYたりえるか」を考えさせられる中身だった。
 最初にパフォーマンスしたソルタリングシンセサイザーは、回路上にはんだツケやバーナーによる炙り、ビールをこぼすなどにより音を発生していた。このサウンドはある種でノイズミュージック的であった。前述の回路への加工を行うことで音声を発生するシステムは回路においてどのような電気的な変換が起きているのか、そこの部分の熱による特性変化はどのようなものであるかを視覚化しているように感じた。またハンダ付けという行為がモジュラシンセの結線と同じような行為に錯覚させられた。次のパフォーマンスMIDIメカニカルシステム×M5Stack MIDI Module2はファミコン風の8bitシステムをM5Stackにより演奏していた。また、neoPixelによるLEDのオーディオビジュアルが行われ、音自体はDAWからMIDI入力され、ソレノイドがビジュアルプラスアナログ的な打撃音を出していた。このパフォーマンスはもともと演奏を行うDAWが物理的なモジュールの動きや光源の動きのきっかけとなる気持ち良さを感じた。MODS (Machine Orchestra in a Distant Society) はZOOM上のセッションで、指揮者の役割をするマシンが1つあり各マシンにAWSを通して転送、マシンをフィジカル的に動かし楽器演奏を行なっていた。この演奏ではプログラムによる通信がモーターを動かし、本来演奏者が演奏する楽器を機械がセッションするというテーマを感じた。Mechanized Instruments はアナログシンセのフェーダーがモーターによって上下されることでモーター同士の周期のずれが独特な音色を生んでいた。このパフォーマンスによってシンセなどのフランジャーの役割が力学的な作用として視覚化されているように感じた。HAUS++はPcodeというプログラミング言語を通じてオンライン上でリアルタイムセッションができるリズムマシンとなっていた。多くの時間で音が変わらずに一定のノイズが流れているということがオンラインセッションだからこそのある種の「荒らし」っぽさ、自由さを感じた。このことはライゾマティクスの「StayingTokyo」におけるTwitchコメントのロボット制御に似たような各々のコメントの自由さを感じた。また、このパフォーマンスが唯一PC上で完結するパフォーマンスでありDIYしたものは「言語と通信システム」であったように感じる。現代においてDIYは現実空間に止まらないと感じた。エレクトロニコス・ファンタスティコス!は和田永を中心としたバーコードリーダーやマウスによる画像認識をもとに音を作るアンサンブルであった。机の上や身の回りにある空気清浄機を音にすることの面白さがあった。しかし身の回りにあるものはもちろん画像的に規則性がないので音楽的には和田永の他のバーコードのパフォーマンスの方が気持ちよく感じた。Quxはアナログシンセを用いたパフォーマンスであった。音をLEDによる視覚化を行い、MIDIキーボードによるアナログシンセ制御を基本としてそれぞれの演奏者の通信なども行い複数回のAD/DA変換を行うことが軸にあった。「予め吹き込まれた音響のないレコード」はイラストレータにおいて生成された波形を紙に印刷、切り抜きターンテーブルで再生することでミキサーによるイコライザやフィルターなどのエフェクトを加えながら展開していくデジタルアナログ変換を軸においたパフォーマンスだった。
 このパーティにおいての「DIY」は様々な形があった。楽器自体のDIYや演奏者のDIYがあり、そのなかで身の回りにあるものを楽器へと変貌させているケースもあった。パフォーマンスにおいてモーターによる音の発生やLEDによる音の提示が多かったことがある意味での冒頭の「ブラックボックス化」へのカウンターであるように感じた。家具生成などにおけるDIYにおいても商品化された製品に比べるとデザイン性や利便性などにおいて洗練されているとは思えないが、これらを作るという作業が楽しいように思える。これらを組んでいく過程によって本来ブラックボックス化されるものが荒削りな機械によって視覚化される面白さを感じた。一方でこれらの過程の中でアーティストがAD/DA変換を行うケースが多くあった。パーティとしての統一感はあったが代わり映えのなさも感じた。これらの変換を繰り返すことによる気持ち良さは何があるのかと思った。和田永のパフォーマンスであれば身の回りの物が可聴化される気持ち良さ、「予め吹き込まれた音響のないレコード」で言えばイラストレータによるベクターデータがアナログ円盤と化す気持ち良さがあるがこれは言ってしまえば変換の過程が短絡的でシンプルであることだと思う。一方この変換回数が多ければ多いほど経路は複雑化され「元は何から生まれた音なんだっけ?」という感覚に陥った。ある意味これらのものは一般的な楽器のブラックボックスに近いものを感じた。構成がシンプルであればあるほど「手作り感」を感じられその視点がDAWなどの既存技術ではなく荒削りなものであればあるほど「手作り感」を感じるという、音においても製品においてもDIYの良さはぶれていないという感覚に終結した。
//(あとビジュアライズが多めなのは本当にMusicを作っているのだろうか、もう少しサウンドで勝負してほしいってところもありました。まあある種ビジュアライズも「音楽すること」って考えれば音楽なのですかね。それなら中山晃子とかもDIY MUSICたり得るのか?とか思ってしまいました)

//SNSを使う理由について議論しました。なんか毎回微妙にテーマ違うのですがSNSの議題のとき同じような話をしている気がする。というか結構ディスカッション中に「これって他のテーマに接続するんだけど」って言ってる気がします。いいのか悪いのかは僕にはわかりませんが(意図的にやってるのかもしれませんが)ディスカッションのトピックがその週内でもその週外でも横断的に近いから結局他のテーマも巻き込んで話した方が良いってことが割りとあります。ってことはもしかしたら我々が議論していることは全てにおいてサブトピック的な可能性があって、毎週のテーマを総括した本当に議論しないといけない総括的な話が眠り続けて毎回授業が過ぎ去っているのかもしれないですね。これで本当に最終課題が「全14回の各週のディスカッションをもとに各週における総括的な課題とその解決方法について検討せよ」とかだったらどうしよう…三ヶ月くらいかかってしまう…と戦々恐々としております。(本当にこれが出たらそれはそれで喜んで課題をするかと思います)

最終回「オープンスペースの10年を巡って」について

http://www.ntticc.or.jp/ja/feature/os10/article/04

2020/08/02 
 昨今において急激なコンピュータやその周辺デバイスの価格低下に合わせ、そこに関わるプログラム言語やライブラリの充実により、インタラクティブコンテンツの製作が労力、制作費の両面で容易になってきている。OpenFrameworksやProcessing、TouchDesignerと言ったアート系の言語や、ArduinoやRaspberryPiといった小型コンピュータ、KinnectやRealsenseといったRGB-Dカメラの登場がその筆頭と言える。「オープンスペースの10年を巡って」は、これらの登場の中でのメディアアートの潮流を捉えた対談となっている。
 まず、本論の中で問われている「科学は連続的、アートは不連続でも許される」ということについて考える。アートの不連続性、本論の言葉を借りるなら「突然思いつく」ということだが、これはアーティストにとってはそうであっても社会的にはやはり連続的な文脈からの理解(ある種こじつけとも言えるかもしれない)があるように感じる。それこそ、絵画作品でも「これは聖書や歴史的に何を描いたものか」などはずっと問われ続けている(現に芸工でも絵画の歴史や音楽史で必ず取り上げられる)し、たとえばチームラボにおいても大層なキャプション付けによって文脈の説明をしている。ある意味この中でチームラボにおいては「そのキャプションが本当に作品に伴っているのか」のような批判も受けていると感じるし、このことをマノヴィチが批判しているということもある。ある意味この「連続性と不連続性」が「表現が新規性かどうか」という文脈も関わってくるような気がする。
 この論の中で言われている「メディアアートと言われるものが新技術のデモ版のように思われている。しかし、メディアアートは本来メディア批判を内包する」というものに関わってくると思う。ある意味メディアアートとして一般大衆に期待されるものは新技術の結晶みたいなものを求めているケースが非常に多い。他方、自らの感覚として一般大衆のメディウムについての知識は非常に浅い。例えば自分の事例としては配信ライブを行なっていて仕組みとしてはリアルタイムの映像に加算合成でモーショングラフィックスを行うだけで「ARだ!!」みたいな感動を受けることが多々ある。Twitterのハッシュタグからツイートを取得し画面表示する仕組みを最新技術としてもてはやすケースも多々ある。それくらいメディアに対する知識を一般大衆が持っていないという現実がある。他方、現代のアーティストがその古びた「最新技術」に付き合っている現実もある。度々悪例として出しているが404Festivalにおいて、「これキネクトを使ってインラクティブに3Dを動かすだけの子供騙しなのでは?」という作品が多々あった。最初に言ったように、開発へのコストが落ちたことによって手軽に高級な表現ができる反面、本当の「最新技術」というのがわかりにくくなっていると体感している。さらにはSNSによって一般大衆に開かれたアーティストたちが古びた「最新技術」で一般大衆が満足する技術デモになると錯覚している感覚がある。本来ある種のナードとしてメディア分析・批判を繰り返すはずのアーティストが閉じられたナードなコミュニティが崩壊することによってメディア批判を保てなくなっている。このようなことに起因して、テクノロジーを用いた同年代の作品に触れた時とダムタイプなどに触れたときの感覚の違いはメディアそのものの理解の解像度の差に由来していると思う。そしてメディア考古学的な作品は歴史を踏まえた上でのメディウムへの理解とそれを現代の技術によって再構築する面白さがある。こう言った作品が持つ美しさはここで言われる「新技術のデモ」ではなく、新技術と懐古主義のようなものが並行して存在していることにあると思う。
 最後に本論では「インタラクティブアートは作品の評価の半分はお客さんが負担していてすでに言語化されたものを解体して、新たな何かを自分で発見しなければならないし、そうさせるだけの力が作品になければならない。」ということについて考えたい。これは一見すると「作品の評価は観客が負担している」という言葉の印象に注意が持っていかれがちだが本当に重要なことは後者にあるような気がしている。これを前者の言葉のみ鵜呑みにして作品批判に対して「作品に対しての十分な行動を取れなかった観客が悪いのではないか」みたいな批判を行ってしまっては完全に作品・作家・観客の間の「対話性」は失われるだろう。むしろ後者にあるように「インタラクティブアート自体が作品としてのメッセージはあったのか、そして観客の行動をデザインできていたのか」を考えるべきだと思う。文中にあるようにある種ファインアートは文脈の中に存在し、その文脈を理解できていないと作品を理解できないという構造にあるが、インタラクティブアートにはそれと並行して観客との対話性が必要となる。この観客との対話性をいかにスムーズにできるかという事を踏まえるとある種インタラクティブアートにはアートとしての側面だけでなく人間行動のデザイナーとして振舞う必要がある。だからこそ一人だけではなく多面的な見方を用いる事、より対話性をスムーズにするために多額の資本を導入する事によりチームラボやライゾマティクス、WOWといった会社がアートチームとして飛躍している理由かもしれない。
本論を読んで、また書評を記述してみて、思った事、言葉に起こしたことがそのまま自分に突き刺さるようでなかなか堪える文になり散らかった中身になりました。


//「オープンスペースの10年を巡って」の最後の文「要するに「この技術で製品を安く作って,たくさん売って,儲けよう」みたいな価値観でしか技術が見えない.そのときに,アーティストのひとつの重要な役割は,それがどのように人間の意識を変える可能性を持っているかを,実際に作品を作って見せてあげることだと思う.」という文なのですが、こないだ文化政策の授業で「アートプロジェクトで投薬の数を減らす」という文を読んだ時に思ったのですが、アートをやってる人たち自体が根本的に病んでるなと思って変な構図だなあと思いました。もちろん、なにかを生み出すという行動自体がめちゃくちゃ心身ともに消費する作業であるし、この世界を変えたいって思うこと自体がもう世間との不適合なのでアーティストは究極的に病んでる気がしてきました。前としくにさんが言ってて面白いなあと思ったのは「アーティスト・クリエイターなんてコミュ障しかいない」「クリエイターが変人なんて知っててそれを面白いって思って乗りこなす必要がある」ということです。僕も全面的にそう思っています。そもそも言葉やジェスチャーだけで伝わっているって感じたらクリエイターは言葉だけで満足してその表現に固執しないと思うので。
 同じく、文化政策より城先生の「今の配信のあり方はデバイスに柔軟性がない」という言葉に共感しました。ということでラストのディスカッションの提案としては「デバイスっていう枠組みってどう感じている?またどうやったらその枠組みを逸脱したりできる?(箱の中と外ってどのように感じて扱っている?)」って感じで、、もっといいテイストの言葉ありそうですが。結構メディアや空間の枠ってものやレイヤーを度々考えます。たとえばリアルの空間でも映像もレーザーもマッピング範囲でしか映らないし、照明もシュートやプログラムした動きしかしない。あとはこれもテーマになりうるかもだし、前述したテーマに内包しているかもしれませんが従来生のライブでは映像的にはバックにLEDやプロジェクター映像があって、その前に演者がいて、場合によってはホロティブがあるって構図、それに対しての配信におけるグリーンバック、演者、上から合成する映像っていう3レイヤー構造ってそう変わらないのに、感じ方は全く違う。もちろん大きな要素ではその光源自体が他のレイヤーにどの程度影響を与えるか、空間にどのように存在するかっていうのがアンサーだとは思うのですが前述のものに合わせて話し甲斐がありそうだと思いました。

おわりに

結局アートとはなんだろうか。デザインというものはある種直感的に人々にマーケティングを行う要素だと思う。その点で言えばアートというものはひとつのコミュニケーション手段であり、文化的テロリズムでもあると思う。

何故我々はアートを選ぶか、そこには伝えたいことがあるからだ。何故伝えたいか、それは「あなた」との分断があるからだ。そのなかで「何かを思う人間」は、言葉では伝えきれないコミュニケーション不足に陥る。私とあなた、社会体系、見えないマジョリティ、その全てに一対一、あるいは一対複数のコミュニケーションが途絶えた時、人は描くしかなかった、彫るしかなかった、鳴らすしかなかったのだと私は思う。アーティストに自閉症傾向がステレオタイプ的に見られるのはこのコミュニケーション不全がひとつあると思う。従来型のコミュニケーションに絶望しているのだと思う。

そのなかで思うようにいかない世の中を描いた作品はある種の文化的なテロリズムとして作用する。その集合体が「あいちトリエンナーレ-表現の不自由展」とみなすこともできると思う。さらに言うとアーティストはそうやって身の回りにある些細な機敏をコミュニケーションとして起こすこと自体が議論を呼び小さなテロリズムとなりうるが、キュレーションという行為はこれを増幅する。アートにおけるキュレーションは文字媒体における編集と全く同様の要素を持っている。背景としての別々の要素を内包した作品たちを共通文脈で再構築することによってアート空間を構成することがキュレーションだと思っている。「あいちトリエンナーレ-表現の不自由展」ではもともとのアーティスト自体恣意的な表現/そうではない表現があったが、これがキュレーションによって文脈が再構築された。たとえば昭和天皇の肖像画を燃やすという作品も、あの作品自体のキャプションを読むと作者の背景から何故作品制作に至ったかのプロセスは至極真っ当であると思う。しかしながら本展示においては表向きには「表現の自由が守られずに展示されなかった作品群」という文脈を持ちながら、そこには並行して日本の持つレイシスト・保守層への批判が再構築されてしまった。これは完全に作品が持つそれぞれのメッセージというよりもキュレーションによる文化的なテロリズムであると思う。もちろん芸術においてその要素は必要であるが、TPOを持った上で芸術祭の目的に合致したデザインがされていたのかというのは事例の1つとして今後も冷静に議論が進められるべきであると思う。

私自身、思想としてはレイシスト・保守的・ミソジニー的な見方があるという自認がある。私はこのことを認めるが、その自認によって中立的な見方をできる、自制できるという側面もある。これは自分の強みであると認識している。ある種の「理解はないが寛容である」という感覚に近い。この視点を持つことにより、私は私以外の視点の人間との対話性を持つことができる。では本来自由主義・ヒッピー的な思想を持ったリベラル的な見方の人間であっても自らの主張を通そうという流れは少なくない。わたしは対話をしたい・議論によってより多くの人間の幸福を形成したいと思っている。そのために言葉・表現による文化的なテロリズムを続けたいと思っている。

他方、アート作品においては、このような「伝えたいテーマ」が内在することによってアート作品を年代によって体系化(カタログ化)することは、ある種の社会構造を映し出す。中世のキリスト教賛美的思考や、WWI〜WWIIにおける民衆の反戦意識、冷戦から始まる社会への閉塞感などが体系化される。その点においてメディアアートは前述の「オープンスペースの10年を巡って」で言及されているようにメディア自体をメタ的に表現として内包している。その時代ごとにどのようなメディアが成立したのか、ある種メディア考古学的な作品においては過去の衰退した技術がどのようなメディアを内包していたのかを現代の技術を用いることで再構築するという役割がある。メディア自体が古ぼけて、朽ちていくことを考えると「そのままのアーカイブ化」は不可能であり、では再生しなければアート作品として機能しない。そこにメディアアートのアーカイブの難しさはあるものの、メディアアートのアーカイブ化を行うこと自体がメディアの成立・発展のメディア史たりえる可能性を内包している。


 最後にスペキュラティブデザインについて述べたい。

スペキュラティブデザインは「思索的デザイン」と訳される。上のリンクにあるように、世界において、起こりうる未来と起こるかもしれない未来において、望ましい世界をデザインによって作り出そうという考えである。いわば未来に対するデザインである。私自身スペキュラティブデザインを鑑賞したことがないのが不甲斐ないのだが、本学の学生においても「それって結局アートの役割でしょ」と言って、自らはデザインの範疇にいるものとして分断を生むことが少なくない。上記引用にて本学教員である池田美奈子准教授が「アートに寄せたデザイン」と言及していることも理解のなさの一端を担っていると思う。(私が個人的に池田先生の見方に関して不寛容である側面もある、ただし池田先生が持つカタログへの理解は深いものがあり、この考えを基に自らの「キュレーションの編集としての役割」というひとつの理解・文脈構築が行えたので池田先生には感謝と尊敬の心を持っているのは前提としていただきたい。)私の理解ではスペキュラティブデザインは極めてアート的でありながらもやはりデザインとして重要な役割を持っていると思う。前述のように私はアートにおいては「一種のコミュニケーションツールであり現代の社会批判を行うテロリズム」であることに対して、デザインは「特定の顧客について表現によってマーケティングを行うこと」だと思っている。ある意味での「機能性と表現性」みたいなものであり、このことは私の「デザインは一人の批判者がいたら検討するべき、アートは一人の賛同者がいなくてもアーティストのために表現すべき」という考えに直結する。ではそのなかでスペキュラティブデザインは何を行なっているかというとまず未来について想定を行なっている。このこと自体がデザインの顧客のペルソナと全く同じ構造である。そこから何を伝えてどのようにマーケティングしていくか=未来をどのようにデザインするかという点で極めてデザイナー的な思考だと言えると思う。このことを踏まえた上で本学の学生たちがもつスペキュラティブデザインの不理解というのは極めて短絡的でありそもそもの持つ「アートとデザイン」の捉え方を机上の概念として肌感覚で感じていないのではないか?という不安が残る。この肌感覚はコンテクストに対する理解と並行してひたすらにインプットアウトプットの繰り返しで育まれると思っている。だからこそ自分もまだこんなに批判する立ち位置ではないのかもしれないが、この感覚、インプットに対する理解が非常に浅いというのはすごく不安に思う。そうして、これらの肌感覚の中で培われた思考こそが真に自分ごとの表現として何かをつくりうる機会を生むと思う(このことに関しては芸工生はポートフォリオなどに自分ごとの作品として全然何も載せないなあ、という感覚も持っている。ちょっとでも関わったらそれを自信持って載せればいいのになと思う。あと、このことがクリエイター偏重でディレクションに対しての興味関心が薄い理由の1つだと思っている。)。


「デザインとアート」についてざっくりとした個人的な見解を述べたが、まだまだ勉強が足りず浅いところが多々あると思う。しかしながら現状の自分の考えが整理できた時点でこの行為は価値を生んだと思う。このような文字にすることや言葉にすることは自分の文脈構築に大きく役立つ。今後も学友と多彩な議論の中で思考を深めていきたいと思っている。最後になったが、このような思考・議論の場をくれた城先生ならびに九州大学芸術工学府芸術工学専攻コンテンツクリエーティブデザインコースのカリキュラムに対して大きな感謝と尊敬を感じている。

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