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「東京、二人の波形」

 はがれたタイルが床に散乱している。ぼろぼろになったスニーカーで、その上を踏み抜いた。この誰もいなくなった世界でなら、替えの靴などいくらでも手に入るが、こういう世界になってしまったからこそ、履きなれたこの靴を愛用してきた。
 このコンビニにも、もう使えそうなものは残っていない。周辺のスーパーやドラッグストアは、ほとんどもぬけの殻だった。腰つきのポーチから点と線だけでできたお手製の地図を取り出し、現在地にバツ印を加えてため息をつく。また拠点を大きく移さなけらばならない。元の場所に地図をしまい込み、拾い上げたかごに商品だったものを放っていく。まだ日が高いにもかかわらず、電灯の消えた店内は薄暗く陰っていた。

 めぼしいものをあらかた詰め込んで外に出ると、駐車スペースにあるカートに慣れた手つきで荷物を括り付けた。別に何かを奪いに来る輩などもういないが、この癖はなかなか抜けない。肺の空気を入れ替えて、少し重くなったカートをゆっくりと押し始める。拠点にしている現在の住居まで数百メートル、でこぼこのアスファルトと安っぽいカートが荒々しく削りあうように音を響かせた。
 大通り沿いの道は、街路樹が気だるくそよぎ、その葉の取りこぼした光が触れて心地よかった。横に伸びる路地と路地の間にはぎっしりと建物が立ち並び、その隙間や壁に新しい緑が広がっている。人間が数千年かけて懸命に築き上げてきた超自然的な自然は、ものの数年で新たな自然へなり変わり始めている。大都市東京は、いつまで大都市の名を守り続けられるだろうか。名があっても呼ぶ人間がいないことに気づき、その無意味な疑問を思考の彼方へ振り捨てた。

 今回の収穫はわびしいもので、多く見積もっても約一週間で底をつく量だった。急ぎ新しい拠点を探す遠征に出なければならない。
 引っ越しをするときに気を付けなければならないのは、今も昔も同じでご近所付き合いだ。虫やネズミは食料に直接害をなすので、絶対に避けなければならない。必然的に高い階層を持つ建物が好ましくなるが、あまりに高いとこういった移動の際に不便だし、そもそも鍵のかかった部屋が多く、侵入に手間がかかる。それに、高い所へ上ってしまうと、危うく一歩踏み出してしまいそうになるのだ。
 独りという状態は、いろいろなものを麻痺させる。別に死にたいわけじゃない。ただ、生きている必要がないように思えてくる。もともと何のために生きているのかもわからないのに、他人からの社会的評価がない状態だと、何をしても、何をしなくても状態は変わらない。この世界なら、富も地位も名誉も簡単に手に入る。自分しかいないのだから当然だ。参加者が1人しかいない世界大会の優勝者は決まっている。同時に最下位も決まっている。だから、わざわざ開かなくてもいい。そのひとりが勝手に閉会式をして、大会を打ち切ったって文句を言う人もいない。閉会式の準備が億劫だから、ここまで生き延びてきたが、高所はそれにうってつけの会場だ。最後の選手としてのプライドが、無意識にそれを避けているのかもしれないが、閉会の空砲はいつ鳴ってもおかしくないところまで来ている。

 翌日、遠征用の荷物をバックパックに詰めて拠点を出た。拠点にしているアパートの駐輪場で、比較的状態のいい自転車を見つけだし、錆びついた鍵を大きめのニッパーで切り落とした。またがって漕ぎ出すと少しずつ後輪の空気が抜けていくのを感じたが、気にせずそのまま進み続けた。
 今いる地点から西に進み続けると、街の毛色はガラっと変わってくる。東京という街は、それ一つにすべての要素を無理やり詰め込んだような場所だ。五番街のような大きい店が並んでいたかと思うと、少し外れて小さな居酒屋やバーが所狭しと軒を連ねる。権力を見せしめるようにそびえたつオフィスビルは、どの場所からでも遠目で確認ができて、いい目印だ。どの建物も、今はもう野生動物の巣か巨大な植物園と成り果ててしまっているが、眺めていると当時の活気がよみがえってくる。だから、あまり見ないようにして進んだ。
 高層マンションが織りなす山脈の麓を横切って、一般的な民家の多い地区を目指す。駅の周りもなかなか充実していたが、今となっては虫食いの葉っぱで、ほとんど最初に物資は無くなっていた。生鮮食品なんかは初めから当てにならないので、コンビニやドラッグストアが密集している場所を求めた。途中の小さな商店で思わぬ収穫の缶詰めをいただき、出発前に目星をつけていた区域に入っていく。

 いくつかアパートの2階、3階をみて回ったが、どこも荒れていて、とても住まいにできるような状態じゃない。散乱した家具や割れたガラスの上で、外から伸びてきた植物たちがようようとくつろいでいる。アパートの内見は、複数の部屋から当たりが一つでもあればいいと気楽に思っていたが、今回はそうもいかないらしい。現在の拠点に移ってから、もう1年以上が経つ。身に着けたはずの新しい知識はいつのまにか錆びつく。常に磨きなおさなければ、取り残されていくのは人間世界も自然界も同じのようだ。
 いっそ放浪するように過ごせばいいのかもしれないが、燃料式の発電機をもって移動する労力を考えると、どうしても面倒という気持ちが立ちはだかる。たまにしか使わない代物だし、運んでいる最中に壊れてしまったらそれこそ大事だ。地味にベランダで育てているささやかな野菜も命綱の一つだから、やはり一所を離れるのは勇気がいる。
 とにかく、出発前の当ては外れてしまった。アパートの階段を下りながら、ふーっと息を吐く。隣合った建物伝いに来たので、自転車はいつの間にかどこかに置いてきてしまった。帰りに適当に見繕えばいいと思いながら、歩いて戸建てが立ち並ぶ区画へ進んだ。
 害虫や害獣の恐れがぬぐい切れないので、できるだけ管理がしやすそうな小ぶりの一軒家を探す。大型の家は、荒らされている場合が多いし、大きい部屋は押し寄せる独りの波もそれに応じて大きくなる。不動産からするとわがままな奴かもしれないが、最後の顧客なわけだから、それくらいの権利はあるだろう。

 外から見ても割ときれいに保たれている家にいくつかお邪魔することにした。鍵が掛かっていれば、少々面倒ではあるが、荒らされていないという保証が付く。適当に2本の針金を突っ込んで、ぐりぐりと押し回しているとカコッと甲高い音が鳴る。今では滅多に聞くことのなくなった懐かしい人工の音だ。
「ただいま」
 ドアを開けて思わず声が出た。自分でも驚いて瞬間固まってしまった。それから数秒もしないうちにフッと鼻で嘲った。
 独りの波というのは、誰とも接することなく、何もしていない時間にじわじわと湧いてくるものではない。それは不意にやってくる。決まって、大きな感情の渦が去った後に。ついさっきまで楽しく話していた恋人が帰った後の部屋や友人と別れた後の帰り道。愛読していた漫画の完結。流れていたBGMが突然ブツっと切れてしまうように、とても静かな世界が一気にその場全体を支配する。
 今は面白い映画を見ても、難しいゲームをクリアしても、共有する相手がいない。どれだけ感動しても、そのあとには必ず虚しさが襲ってくる。だから、何もしない。無駄な感情を波立たせず、穏やかな水面で揺蕩うようにただ生きることが、独りを最も感じずにいられる最善の処置なのだ。「ただいま」という四文字は、触れないように眠らせていた独りという波を荒立たせるに十分だった。だから、おどけて笑い飛ばした。

 その家の一階は、まだ人が住んでいるのではないかと思えるほど生活感に溢れていた。キッチンダイニングとリビング、立派な洗面台のある脱衣所に、浴室とトイレ、奥には寝室があり、どの部屋の家具も埃こそ被っているものの劣化は少ない。こもった空気を逃がすために適当に窓を開けながら、一通り一階を見て回ったあと、玄関から二階へ伸びている階段を上がっていく。
 二階には、長い廊下と部屋が3つあった。手前の部屋には、ベッドに可愛らしいキャラクターのカバーがかけられており、真ん中の部屋には、受験対策の参考書が並んでいる。一番奥の部屋に入ると、大きな地球儀と変わった形の船舶のポスターが目についた。最後の窓を開けて外の空気を呼び込んだあと、木製の勉強机に腰かけて、おろしたバックパックから持ってきた水を出し一服することにした。開け放した窓から流れ込んでくるぬるい風が、緩やかに顔を滑っていく。東京の空は濁っているだとか、空気が汚れているなどと言う人もいたが、今の東京の空は間違いなく美しかった。汚れているのは、空気でも空でも、東京でもないんだろう。

 そうして、しばらくぼうっと空を眺めていたが、室内に意識を戻して探索を再開した。こういうオタクっぽい部屋には、まだ使える電池が転がっていたり燃料になるオイルが眠っていたりする。椅子に掛けたまま、引き出しや箱の中を漁る。しかし、これと言って役に立ちそうなものは見当たらなかった。唯一、目を引いた机上のノートパソコンは、その顔を上げたまま主人の帰りを待っているように見えた。
 何も起こらないとわかっていても、ボタンやキーを目の前にすると押さずにいられないのは、人間の本能なのだろうか。御多分に洩れず、開いたままのノートパソコンのキーボードをいたずらにカチャカチャと叩き、電源ボタンを押してみた。しかし、やはり何も起こらない。当然だ。そもそも電気が通っていないし、内臓のバッテリーが放電し終えるのに十分な月日が経過している。がっかりするほど期待もしていないので、さっさと立ち上がってほかの棚を調べ始めた。
 棚には少しの小説と参考書、それからよくわからない船の模型などが並んでいる。素人目に見ても立派なものだった。下に併設されている引き出しには、学校のプリントや何かの申込用紙のような書類であふれていた。奥底に覗いている肌色の多い雑誌は触れるまでもない。

 具体的な収穫はなかったが、ここは次の移転先として有力な候補になる。そう考えながら、空に続く窓を閉めて部屋を出ようとした。その時、馴染みのない音が耳に触れた。風のようだが、もっと人工的な、文字通り不自然な音。換気口や扇風機のような、ファーという薄く透明な音。振り向くと、その音の主はすぐに分かった。数分前に電源ボタンを押したノートパソコンが、弱弱しい光を放っている。風のような音は、パソコンのファンの唸り声だった。
 腹の底のあたりがヒヤッと縮みあがるのがはっきりと分かった。そして間もなく、体全体がじんわりと熱を帯びた。驚きと疑念、そして予想外のことに対する少しの恐怖が一気に押し寄せ、すべてが去った後に抑えようもない興奮が思考を巡らせる。生き残っている人間がいて、今もなお使用されているのか。いや、実はただバッテリーが残っていただけかもしれない。しかし、電源の供給があるとすれば、あるいは…。
 葛藤しつつ、やや都合のいい妄想を広げながら、駆け寄ってそのノートパソコンの周りを調べる。ノートパソコンから伸びているコードをたどると、閉じた窓とは別の小窓の脇にごちゃごちゃとワイヤーやアンテナのようなものが張り巡らされている。そして、その中に、太陽光パネルが無造作に置かれていた。コードは、そのすぐそばの蓄電池につながっている。こうして都合のいい期待は、興奮の絶頂で、あっけなく打ち砕かれた。

 全身の力が抜けて、椅子に体を落とす。はぁっと大きく息を吐き、その流れのままにうなだれた。急激に体が冷めていき、手足がじんと弱くしびれている。

「もう、いいって…」

体内での処理に限界を迎えた感情が絞りだされた。強い光は濃い影を生み、高い山は深い谷を作るように、大きな希望の裏には必ず相応の絶望が潜んでいる。何度も裏切られたはずの希望に安易に手を出すとは…。
 反省会を終えて、しばらく目を閉じ興奮を飲み下した。すーっと鼻から息を吸い、顔を上げる。この騒動の渦中にあるノートパソコンを見ると、勝手に立ち上がったのか、開いたままのアプリが何やら波形のようなものを表示していた。
 放心から徐々に正常な思考を取り戻し、その波形をしばらく眺めた。この部屋の主の趣味から察するに、船に関する何かだろうか。もしかしたら、ただのゲームの類かもしれない。表示されている波形は上下に分かれており、どちらも微細に動いている。時折、上の波形はせわしない大きめの揺れを見せ、また元の小さな動きに戻る。折れた線が揺れるだけだったが、久しぶりに見る人工的映像は、見ていて不思議と癒されたような気分になれた。

 そうはいっても、いつまでもここにとどまるわけにはいかない。ギイッと鈍い音を立てて、木製の椅子から立ち上がった。すると同時に先ほどまで微細にしか動かなかった下の波形が、少しだけブレて見せた。視界の端に映った微々たる動きだったが、気になり注視する。気のせいかと肩の力を抜くと、次いで突然部屋の扉がバタンと音を立てて閉まった。他の部屋の窓を開け放したままだったので、どこからか風が運ばれてきたのだろう。一瞬そちらに気を取られたが、すぐに画面に目を戻すと下の波形が今度はさっきよりもはっきりと揺れるのが確認できた。この波形は、リアルタイムの音を拾って揺れているらしい。下はこの部屋の音を拾っている。では、上の波形は…。
 すぐに言葉を発した。
「あーあーあー」
2秒ほど遅れて、先ほど上の方で見たせわしない波形が下に反映される。上の波形に動きはない。
「もしもーし、聞こえますかー?」
下の波形が、発した言葉に呼応して大きく揺れる。上の波形に反応はない。
考えてみれば、もし仮に運よく同様の送受信機があったとして、その近くに人間がいるとは限らない。椅子の軋みやドアの閉まる音を拾うくらいだから、自然の音や動物の鳴き声をたまたま拾ったという可能性もある。しかし、電源は?電気の供給がなければ、機器は動かない。やはり、生き残った人がどこかにいるはずでは…。

「…っふー、ダメだな。」
散々と思考を巡らせた末、改めて蔑みの語を漏らした。ついさっき、数分前に痛い目を見たばかりなのに、また希望にすがろうとしている。溺れて藁を掴み肩を落とすくらいなら、いっそそのまま沈んでいった方がマシだ。
 短い時間に2度も大きな落胆を味わい、一気に来た疲れが体を重くした。すべての元凶は、目の前のこのマシンだ。先ほどまで心地よかった揺れる線は、嫌悪の対象に成り下がった。必要ないものは、切り捨てる。この世界が始まって最初に学んだ鉄則を思い出した。
 強制シャットダウンしようと、電源ボタンに指を伸ばした瞬間、波形が大きく揺れて見せた。上の方の波形がだ。しかもそのせわしない波形は、断続的に大きな揺れを呈している。
 限界まで削り取られた気力の、最後のほんの一握りを、波形に込めて飛ばした。
「もしもし、聞こえますか、誰か…いるんですか…。…いるんですね!?」
大きな揺れを見せていた上の波形が止まり、しばらくして、またせわしなく動き出した。間違いなく、こちらの発信に合わせて動いている。

 生き残りがいる。自分の他に人間がいる。この世界のどこかに。

 紛れもない事実が、この日最も大きな希望として、手中に収められた。そして、間髪を入れずに、二の句を次いだ。
「どこにいるんですか?どこに行けば…どこで、会えますか?」
またしても、上の波形はしばらく動きを止め、ゆっくりと揺れだす。しかし、伝えたいことがわからない。波形の揺れだけでは、音が出ていることがわかっても、何を言っているのかがわからない。早急にこの問いを解決しなければ、このやり取りも無駄になってしまう。
「…ちょっ、ちょっと、待っててください。」
そう言って、画面に映っている波形以外の部分を隈なくにらみつけた。
 音量のつまみを上げて反応をみたが、波形が揺れても音は聞こえない。ならばと思い、赤い丸印の録音ボタンとみられる部分をクリックし、しばらく待ってから録音ファイルの再生を試みた。すると見事、音が再生された。ザザッ、サーッ、ガガガッというノイズ音が。合間合間に肉声のようなものも聞こえたが、何を言っているかはさっぱりだった。何かほかに方法はないかと頭を捻るも、そう簡単に名案は降りてこなかった。
「すみません、音は聞こえるんですけど、何を言ってるかわからなくて…」
とりあえずその場をつなぎ、しばらく頭を悩ませた。そして、妥協の末の結論を出した。

「えっと、音は当てにならないので、質問に答えてください。イエスなら大きい音を一回出して。ノーだったら、大きい音を二回。音の波形を見て、読み取りますから…伝わりましたか?」
 こちらの言葉が伝わっているのならと思い、ゆっくり、はっきりとパソコンに向かって発音した。下の波形が揺れているのを見送ったあと、上の波形が一回だけ大きく揺れた。よし。これならいける。
「こちらは東京にいます。一人です。そっちは、人がたくさんいますか?」
波形は大きく二回動いた。
「えーっと、一人、ですか?」
大きく一回揺れる波形。どうやら、向こうも一人でいるらしい。
「そう、ですか…。え、っと、東京からは遠いですか?」
波形は微妙に動き、イエスかノーかを読み取ることはできなかった。距離の質問は曖昧過ぎたのかもしれない。
「じゃあ…東京にはこれそうですか?」
次は間髪入れずに、大きく一回振れるのが見て取れた。勝手な解釈かもしれないが、遠近にかかわらず、必ず合流するという決意を感じた。長い間忘れていた感情が湧いて、不器用に口角が上がった。

 いつの間にか独りになってた。ただ、その事実を認めるのが怖かった。毎日、必死に生き延びて、人間として生きることを考えて過ごした。できるだけ普通の食事をして、決まった運動を欠かさず、いろんな本や映画を見て泣いたり笑ったりした。
 無線の受信機を作ったのは、その延長だった。ノイズ音を聞きながら周波数を合わせている時間は、まるでラジオがまだ流れているかのように錯覚させてくれた。もしかしたら、生き残りがいるかもしれない。初めはそんなかすかな希望もあったけど、都合のいい妄想は空しくなるだけ。ただ、多少都合の悪い妄想は、妥協となって実現を手繰り寄せてくれる。
 受け手じゃなくて、送り手になればいいんだ。受け手は、送り手がいなきゃ受け取ることはできない。だけど、送り手は受け手がいてもいなくても成立する。こっちから一方的に発信してやればいいんだ。受け手がいるかいないかは、シュレディンガーの箱の中。頭の中で受け手っていう猫が生き続ける限り、この一方的な配信は双方向の関係を保つことができる。送信機の作成は、受信機よりも手こずったけど、ありがたいことに時間は無限のようにある。
 毎日3回、必ず決まった時間に配信を続けた。できるだけ遠くまで届くように機材を整えて、できるだけ見つかり易いように周波数を増やした。放送のあとには必ず受信機を稼働させて、反応がないかを見張ったけど、放送を始めてから数百日、返答がきたことは一回もない。それでも、この日課は辞めなかった。いや、辞められなかったと言うべきかもしれない。この配信を日課から外してしまうと、同時に生きる気力も剥がれ落ちてしまうような気がしていたから。

 低めのアパートの屋上で粗末な昼食を取って、今日2回目の配信の準備を始めた。ごちゃごちゃと広げた機材の真ん中に座って、ほとんど塗装の剥げたマイクを手に取る。
「ううん、う、うん…あーあー。マイクテスっマイクテスっ、聞こえますかー。」
小さなモニターに映る音の波形を確認する。少し遅れてブブっと波が揺れた。問題なさそうだ。スッと息を吸い込んで続ける。
「…みなさんこんにちは、今日も始まりました、お昼のスペシャル生放送!お相手はわたくしDJ…えーっと、あっそうだ、DJ夕立がお送りしまーす。さっき急に通り雨に降られちゃいましてねー、すぐやんだんですけど、お昼に降る雨も夕立っていうんですかねー…」
話す内容は毎回適当だ。その日にあったことや、見た映画、本の感想、季節とか天気のこととか。意識して避けているわけじゃないけど、この世界のこととはあんまり関係のない話が多い。
「えー、それではそろそろお時間のようなので、これくらいにして…また夜にお会いしましょうー。じゃあねっ。」

 数十分の独り芝居を終えて、一服しながら受信機を立ち上げた。相変わらず動きはない。椅子にもたれかかりリクライニングを倒す。ゆっくりと流れる雲を目で追いながら、はーっとため息をついた。
 その姿勢のまま手探りで受信機を掴み取って、空を遮るように持ち上げる。周波数のつまみを適当にグリグリといじっていると、突然、逆光で見えづらい画面に映る線の動きが、少しだけ歪んだ。見間違いか?顔に近づけて目を凝らしてみる。すると、次はさっきよりもはっきりと線が揺れた。
「いっ!つー…」
動揺のあまり受信機が顔に落ちてきてしまった。急いで体を起こして、転がった受信機に手を伸ばす。絶妙な位置に転がり、やっとの思いで拾い上げたが画面が映らない。一瞬壊れたかと思ってヒヤッとしたけど、むき出しだったバッテリーが外れただけみたいだ。足元から急いでバッテリーを拾い上げ、つけ直して電源を入れた。数秒後、子供の落書きみたいな波線が画面に浮かび上がり、この機器から初めてノイズ以外の音が聞こえてきた。それは、小さくてかすれていたけど、間違いなく、人の声だった。

 おおおーっと思わず雄たけびを上げて、さっき切ったばっかりの送信機を叩き起こし、マイクに向かって叫んだ。
「もしもし!聞こえる!?ラジオ、聞いてくれたのか!?おーい!」
受信機の反応を見ながら、叫び続けた。そして、聞き取れた単語をつなぎ合わせて、出来上がった質問に答えた。
「…ああ、いるよ。ここにいる!!生きてるよ!!…こっちか?こっちは…どこだろうな、ここは。」
自分のいる場所など、とっくにわからなくなっていた。何度も移動を繰り返してきたし、どれくらい移動してきたかは、恥ずかしながら自分ではわからなかった。
「それより、キミはどこにいるんだ?…おい!…聞こえないのか…。」
人間とは本当に際限のない生き物で、生き残りがいたという喜びだけでは飽き足らず、コミュニケーションが取れないことにいらだちを覚えてしまった。それから少しの沈黙が明けて、ジグソーパズルのような会話が始まった。
「…イエス。…ノーノー。…イエス。…イエス、かな…わかんないや。…イエス!」

 距離も道のりもわからないが、最後の質問には、はっきりと答えた。そう答えるしかなかった。こんな世界で、たった一人の理解者だ。希望を削ぐようなことは言えない。それが仮に、ほとんど歩くことができず、食料もあと少しで底をつくという状況であったとしてもだ。
「…リハビリは毎日欠かさなかったんだけどなぁ」
自作の車いすにもたれ掛かり、元世界一のお喋りは、新しいチャンピオンのマシンガントークに相槌を打ちながら独り言ちた。

 その日から、待望のラジオを独り占めしながら作業を進めた。基本的に向こうからしか意思表示ができないから、いくつか新しいサインも作った。例えば、寝るときは大きい音を3回出すとか、朝の最初のやり取りは必ず10時にするとか、自然に決まっていったものも多い。
 そうして出来上がったのが、向こうの発信に合わせて波形を返すプログラムだ。プログラムといっても、スマホについていたアシスタント機能を少しいじっただけのものだけど。向こうの声に合わせて音を出して、イエスやノーやおやすみの波形を生み出すという代物だ。バッテリー問題は、省エネモードと手元に残った燃料すべて、それから自給できる自然エネルギーもおまけした。もう自分には必要なくなるだろうから。
 こうしておけば、向こうの君は死ぬまで私を待ち続けることができる。残酷だって?それは孤独を知らない人のセリフだね。

 心躍る毎日だった。相変わらず向こうの声は断片的にしか聞こえないが、例のルールと自然に生まれた2人のサインによって、意思疎通は滞りなく、とは程遠いがなんとか行うことができた。通信の性質上、こちらの方が多く話す形だったが、それでも向こうはテンポよく相槌をくれた。できるだけ明るく楽しい話題を展開した。止まらない汗のことも、小さな擦り傷が延々と治らないことも、時折息が苦しくなることも、わざわざ言う必要はないだろう。希望に満ちた命がけの上京に水を差すわけにはいかないから。
 幸いにも、この通信の状態はお世辞にもいいといえるものじゃない。自分の声でなくても問題ないことは実証済みだ。リビングにあったスマートデバイスの設定を適当に弄って、定期的に話題を振るよう設定した。
 これで、向こうは死ぬまで自分を探し続ける。人は残酷と言うかもしれない。だがそれは、本当の孤独を知らない者のセリフだ。

 東京の空の下で、今日も2人の波形が小さく揺れている。

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 これは以前、YOASOBIが新曲の題材となる小説を公募していた際に執筆したものです。文字数制限やタイトルの指定があり、なかなか苦戦したのを覚えています。配信とか孤独とか当時自分が悩んでたり楽しんだりしてたものを詰め込んでるのでかなりエゴエゴしいけど、黒歴史にするにはもったいない文字数かと思って、ここに残してみます。素人文なので違和感は否めないと思いますが、そこは目をつぶって世界観を楽しんでくれると嬉しいな。

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