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薔薇の年譜 —島崎季子『封蠟』鑑賞—

「さっきから女、女と騒いでいるが、この中に一人でもわたしに敵う者がいるか!?え!? 腰抜けどもめ。空威張りだけが男の能か!?」

    (オスカル・ド・ジャルジェ准将『ベルサイユのばら』より)

封蠟も薔薇もくれなゐ濃かりけり


 その作品は、いつも瑞々しい感性と透徹な筆致に裏打ちされている。島崎季子さんといえば、私の中ではずっとだれ俳(※)での優秀成績者のイメージであった。

 この度、上梓された句集を繙き、また新たな感動に震えた。重厚なタイトル、そしてあとがきに添えられた「企業戦士」の文字。

 実際にお会いしたことがない私からすると、ページの其処此処から浮かび上がるシルエットは、『ベルサイユのばら』に登場する憧れの女性軍人オスカルのようだった。

 ご存知の方は少なくないであろう。オスカルは、男性だらけの軍隊の中にあって戦いに身を投じ、ついにはフランス革命のさなか自由を求める民衆と共に戦い散る、悲劇のヒロイン、いやヒーローだ。数々の古典少女漫画きっての聡明かつ勇敢な主人公である。


 『封蠟』は第一部を中心に、学校を卒業した頃亡くなられたのであろう御尊父への交々の想いが滲む。

薄氷を踏み父のこと父のこと

父の墓に蝌蚪の紐埋め卒業す


 一番どきりとさせられたのは、

どの家もひとりはピエロ鳥雲に


 家庭の数だけ苦難は存在する。しかしその辻褄を合わせるような役目を負ってしまう子どもがいる。断絶からひととき目を逸らせ、家族の将来や願望を背負い、家庭の空気を和らげるエンターテイナーだ。そして男子の跡取りが一人も生まれなかったジャルジェ家では、オスカルがその役目を負っていたと思う。

月冴ゆるジェルソミーナの吹く喇叭

道化師の投げしミモザの黄をつかむ


 春を告げる明るい黄色が印象的なミモザは、主に南欧で男性が女性に感謝を伝える花であり、女性の社会でのあり方を象徴する花でもある。

 まるでブーケトスのように放られた宿命を受け取る、望むと望まざるに関わらず。このイメージをリフレインさせる句もある。

阿修羅の掌よりうすずみの一落花


 こちらはまた、向田邦子の有名作品のように、三面六臂(妻・母・女)の宿命を帯びた女性の一生を想わせる。美術展「ルイーズ・ブルジョワ展」でも、阿修羅のごとく三つの顔を持つ女性が、乳房から母乳を溢れさせ茫然と立っている像があった。

かたくりの花なかんづく姉の恋

八月の樹下に笑はぬ母を据ゑ

泉汲むいつかはうすれゆく少女


 恋を選ぶことは、やがて阿修羅になる道を選ぶということかもしれない。その道の先に、もう笑わなくなってしまった母や薄れゆく少女時代がある。

 表題となる句以外にも季子さんには薔薇の句が多い。

原罪の薔薇より赤き靴を買ふ

しあはせに不慣れで薔薇の首を切る


 女性としての原罪とは何だろうか。『ベルサイユのばら』が連載された年は、奇しくも勤労婦人福祉法が制定された年でもあった。一般的な家庭の幸せに背を向けて、家族が望むように男として生きることを選んだオスカルもまた薔薇を愛した。薔薇の花弁を口にし、男性に「背伸びするのはおよしなさい」と余計な世話を焼かれることもあった。

 海外詠も多い。しかし異国への想いにロマンチックさよりも戦争の苛烈な印象を残す。

空港に月少年兵にカラシニコフ


 旅から帰る場所である家は、ただ建物としてあればいいということではない。誰かが待ってくれていたり自分が相手を待ったり、そんな家族がいてこその家である。後半の作品にどことなく戦場ではない家庭への憧れのようなものを感じてしまうのは私だけだろうか。

烏瓜引けば父母こぼれけり

牡蠣を剥くまめな男と暮らさむか

虚数には居場所がなくて春の月


 オスカルも、もし生き延びていれば家族を愛し、猫を愛し詩を愛する生活を送ったかもしれない。

革命を知らぬ暮雪のペンナイフ

クリスマスローズみなそれぞれの星を得て

 以上勝手な印象を述べてきたが、叙情と高潔を備えた作品など選びきれないほどあった。長くキャリアを積まれた社会人としての来し方を、そっと紅薔薇色の封蠟に秘して送ってくださったことに、若輩として喜び謹んで受け取るものである。

(※)『山河』誌上の「通信だれでも俳句」欄
                    (2025年2月1日発行『山河』392号 寄稿)

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