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50歳のノート「ハッピーエンドじゃなくていい」


韓国ドラマのおすすめは、と聞かれると数本の中にそっと入れておくのがNetflixの「私たちのブルース」である。コンテンツがお好きで目が肥えている方なら尚更だ。
「私たちのブルース」は主役クラスの名優が多く出演している。イ・ビョンホン、チャ・スンウォン、ハン・ジミン、ドラマでよく見る顔がずらりと並ぶ。そんなつよつよの面々がひしめいて一体どうなるのかと思いきや、「済州島に暮らす普通の人々」になり切っている。

「私たちのブルース」は済州島の南国感ある美しい海をバックに普通の人たちの小さな心のドラマを丁寧に描いている。オムニバス形式で、それぞれの物語があり話が進むと複数の物語が少しずつ交差してくるのが面白い。
「あんなことがあったのに、今度はこっちの人をこんなに心配して…」と事情をわかっているだけに心遣いに余計にジンときてしまう。

中盤まで「いろいろあるけど明るく元気に生きていきます」なオチが続いた。海風を感じるちょっといい話の集大成なのね、と思いきや、最後にイ・ビョンホンが演じるドンソクがメインの話でズドンと叩き落とされる。

小さなボロトラックに衣類や金物、食品までよろず物を積んで道端で物を売る冴えない男、ドンソク。「これがイ・ビョンホン?」と何度も見てしまうくらいどこにでもいそうな裏ぶれた人物としてつましく、時にはみじめなリアルを見せてくる。



シン・ミナ演じるミステリアスな女性ソナにドンソクは振り回されながらやり過ぎなくらい尽くしてしまう。
ミナから気持ちが返ってくるわけでもないのにドンソクはミナに腹を立てながらもしてやれることをとことんやる。その自己犠牲は痛々しいほどだ。


同じくドンソクが関わる相手が母親のキム・ヘジャ演じるオクドンである。ドンソクはよろず物販売のトラックを市場に止め商売する。同じく市場で野菜を売る母に会う。会えばドンソクは荒ぶって怒鳴る。時にはその場に母はいないものとして無視する。
母は無表情でうつむいてやり過ごす。怒るわけでもなく謝るわけでもなく、母は憮然と息子を無視している。
そんな母の様子にますます腹を立ててドンソクが絡みに行くと母はうるさいもの、嫌なものが襲来したとばかりに顔を伏せる。そこにぞっとするほどのリアルがある。

そんなある日、母オクドンが末期の癌で余命わずかであるとわかる。それを知りドンソクに伝えた彼の友人たちが母と和解して親孝行しろと説得するがドンソクは頑なに拒否する。
ある日突然母がドンソクに法事に連れて行って欲しいという。再婚相手の夫、ドンソクにとって義理の父の法事である。船で本土に渡る長旅だ。余命わずかな母の頼みに「行きたいところ、どこにでも連れてってやる」というドンソク。母が次から次に行きたいところを口にして2人旅が始まる。

2人の小さなやり取りからドンソクの痛みが伝わってくる。
ドンソクが気遣って飲み物を買ってくると、動物のようにむさぼる母。
そこには「ありがとう」がない。
ありがとうに飢え、ドンソクは母に与え続ける。

旅の間、ドンソクは母から「ごめんなさい」「本当はドンソクを愛している」という言葉を何とかして引き出そうとする。けれど母は頑なにその言葉を与えず、とうとう亡くなってしまう。

「本当は自分は愛されていたんだ…」というハッピーエンドを期待していた。けれど母はドンソクに飢えを残してこの世を去ってしまった。
ミナと結ばれる雰囲気があるが、さりげに自分の事情を最優先して押し込む彼女、やはりドンソクがずっと飢えを感じる関係になりそうだ。

ドンソクのように自己犠牲を厭わずに自分を与え続ける人は、本当は傷ついている人なのかもしれない、と思ってしまう。痛みを元にしたその優しさは簡単にもらってはいけないのかも。

あそこで母が「ごめんね」と一言言ってくれればドンソクは報われたのに…と悔しさが残る。
けれど、そこに一層リアルを感じる。

痛みは報われない。
自分がハッピーエンドを諦めるしかない。それでも時間は続いていく。人と繋がることできない飢えも残ったままで。
それでいいのかもしれない。
そんな不思議な勇気を残す物語である。

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