見出し画像

センターポールのアスリートとの出会い 会社起ち上げ編 その①

2月頃からコロナウィルスが広がり、3月末から仕事は軒並み中止や延期になりました。こんなに長引くとは3月の頭には思っていなかったのですが、現在は我が社(一社)センターポールも、就労支援事業所の(一社)アイビーも完全リモート業務しています。
この期間中は当然受けていたイベントも学校授業も、そして3月からスタートするはずだった、障害を持つ子供たちに提供する運動プログラム”CPアダプティブクラス”も中止です。(コロナが落ち着けば再開しますし、年間で実施します。情報はセンターポールWEBで更新しますのでご覧ください。)

今は苦しいですが何とか乗り切って、コロナが明けたらパラスポーツで価値を届けていきたいと思います。
この外出制限期間中は、WEBページの改修や、新しいプログラムの計画など、今までやりたかったけど実働優先できなかった事に時間を割いています。
今の時代、情報発信は常にできますし、振り返りをしたかったので今回から私たちの会社のことや、出会ったセンターポールのパラアスリートについて書いてまいります。

そもそも、私たちの会社センターポールはパラアスリートのマネジメント、パラスポーツのイベント、企画運営。学校へのパラスポーツ交流授業を行っている団体です。

画像1

センターポールは、私が25歳の時に起業した前身の会社から業態を変えて現在に至っています。
何故、そもそも私が起業したかという話がスタートになるので思い出話に少々お付き合いください。
選手が登場するのは少し先です。

センターポール起ち上げ編その①

北海道札幌で育った私は小学校から大学までアルペンスキーという競技を13年間やっていました。
小学生~中学生の頃はハングリーにやっていたわけでもなく、なんとなくスキーヤーでした。続けていた理由は”両親が一生懸命応援してくれたから頑張らなければいけないという後ろめたさ”と、そこまでスキーで成功体験をしたことがなかったので惰性で続けていた記憶があります。
寧ろ、理不尽な先輩との絡みに嫌気がさしていてスキー以外のところでのストレスの方が大きかったし、普段の学校生活の中でスポーツに熱中(文学でもいいのですが)している人とは無縁の環境でしたのであまり居場所がなかった中学時代でした。
性格的に暗かった訳でもなく、グレて悪ぶりたくてもグレルこともできない少年でした。

スキーを続けるにしても、中途半端な気持ちで進学となってしまいましたが、幸い同じ中学校から知り合いも殆どいない学校で、高校デビューの夢を抱き東海大四高校(現在は東海大札幌校)というスポーツの名門校へ進学です。
この学校はスキージャンプの葛西紀明さん、原田雅彦さん、里谷多恵さんとスキーの名門中の名門。もちろんスキーだけではなくてバスケットボール、バレーボール、剣道、柔道、吹奏楽と全国トップレベルの部活動が多く、意識が高い人たちの中で揉まれた学生生活でした。私の世代は(スキー部は)先輩からの理不尽な愛情表現もなくスポーツに初めて取り組めた環境でした。
”環境が人を変える”とはよく言ったもので、物事に取り組む姿勢や人との接し方もこの高校時代に学べた事は多かったですし、今でも人格の基盤になっている気がします。
高校時代にこの環境で過ごせたことは今振り返ると全てが本当に幸せなことで、生意気な態度をとって先生に凄まじい制裁を受けたり、購買のおかずパンを一年生が買ってはいけないというルールを知らず購入し先輩に詰められたり、部活をさぼって野球部の応援に行っていたのがバレて顧問の先生の逆鱗に触れてしばらく口を利いてもらえなかったのを野球部の顧問の先生がなだめてくれたり。恋愛はあまり上手くいきなかった気がしますが、良き三年間でした。
一緒に写真に写っている大塚君は現在は有名人でプロバスケットボール選手として頑張っています。

画像2

画像3

肝心のスキーの結果というと、中学校までは全国大会とも無縁だったのが、高校2年生のインターハイはラッキーで9位入賞することができ大学もスキーで進学する事となりました。
スキーという種目は実力のある人からコース条件が良い早いスタート順で滑ることができるのですが、このインターハイのときは前日が大雪で、当日は強風が吹き荒れるなかでレースが決行されました。
スタート順が早い実績のある選手は前日に降り積もった大雪に苦しめられたのですが、78番スタートと後方だった私が滑るころにはコースが大きく掘れてボブスレー状態に掘れています。そのレーンにうまく合わせてこれたことで9位入賞となりました。とてもラッキーです。

画像4

表彰式の時には今まで雲の上の存在だった選手たちと一緒に賞状をもらうのが場違いで恥ずかしさと、スポーツを通じて自信を得た初めての経験でした。(全国大会の表彰式なんて出たことなかったしヘルメット被って出ればよかったものの、味付け海苔を乗せたような写真が唯一の写真となります。)

大学は本来であれば東海大系列は東海大に進学してスキーを続けなければいけないという暗黙のルールがあったのですが、当時顧問の先生は快く、東京の中央大学スキー部に送り出してくれました。

さぁ、大学から東京デビューです。

つづく