辛い体験への助言と人格批判
辛い体験をしている人が中々再起できない様をみていると、これまでに辛い体験をしている人ほど、助言をしたくなる。辛い気持ちがわかる気がするし、自分が体験した辛い出来事で得た教訓を共有して早くその人を楽にさせてあげたい、早く再起してほしいと思ってしまうからだ。辛い体験の痛みの時間など当たり前だが1秒でも短い方がいい。無い方がいい。
しかし、僕が知っている辛い体験へ一番強い作用を与えるアドバイスの多くは人格批判として受け取られやすい形を持つ、具体的には「あなたが体験したことに今あなたは辛い思いをしているかもしれないが、受け止め方を変えれば痛く無いよ」というやり方である。これは、人格批判に繋がりうる危険なアドバイスであることが、わからない人に向けた文書である。
まず人格批判、人格攻撃って何だろうと考えた。wikipediaには「人身攻撃」とは
ある論証や事実の主張に対して、その主張自体に具体的に反論するのではなく、主張した人の個性や信念を攻撃すること
今ここでスタートアップ を始めたての人達が大好きな人格攻撃のMVP(Minimal Viable Product)を作ってみようと思う。
今考えたい人格攻撃は①上の用件を満たし、かつ②辛い体験への助言の体をとるとして、具体例をひとつ挙げたい。
Aさん「Bさん、昨日コンビニ寄ってアパートに帰ってストロングゼロを飲んだら足をぶつけてしまって、痛いって声出たら寂しくて泣いちゃった。」
Bさん「寂しくて泣かなくていいじゃん。骨折してないでしょ?大したことないから気にしなくていいよ。」
結構分かりやすくするために厳密にMinimalでなくなってしまったが、上の例をみていただきたい。上の例では足をぶつけて孤独で寂しいというAさんの体験の受け取り方にBさんが文句をつけている。これは①の事実の主張に対してその主張自体を具体的に反論するのではなく、主張した人の個性である”痛みと寂しさで泣く”という部分を否定している。また②の辛い体験への助言の体をとっている。
私はこの事実を説明したからと言って、この種のアドバイスを完全にやめろと言っているわけではない。この種類の「体験の受け取り方を変えろ」というアドバイスは殆ど全ての辛い体験に対して有効な特効薬で、ダメージを限りなくゼロにすることができる魔法の方法なのだ。多くの宗教がこの手法を取り入れている。スピリチュアルにもこの手法を取り入れているものが多々ある。しかしこれをしなきゃいけない、これをすべきだ、という主張はほとんどの場合直ちに人格否定、人格批判につながる。
しかし、これをBさんのようにやると人格攻撃になってしまう。同じ体験をしている人ならBさんのようにやってもいいかと考えてしまうが、Aさんが仕事で疲れてコンビニから帰ってくる一人で足をぶつけた孤独の体験は正直なところAさん一人だけの体験で、誰かが厳密に同じ体験をしたと言えるはずはない。
じゃあどうすればいいか。こうすればいい。
Aさん「Bさん、昨日コンビニ寄ってアパートに帰ってストロングゼロを飲んだら足をぶつけてしまって、痛いって声出たら寂しくて泣いちゃった。」
Bさん「泣いちゃったのか…今大丈夫?」
Aさん「今は大丈夫、少し痛いだけ」
Bさん「足ぶつけたことよりも寂しいことの方が泣いちゃうね」
Aさん「泣いてしまう」
Bさん「酷いタンスだね、Aさんの足に激突してくるなんて前方不注意極まりないね」
Aさん「タンスがぶつかってきたんじゃないよw」
Bさん「ワハハ、どう歩けそう?行けるなら、暇だし、そろそろ歩こうか」
今相手が体験している現実についてそのまま受け止めることだ。Aさんしか体験したことのない痛みはAさんが体験したこと自体を(事実で有るかどうかは置いておいて)そのまま受け止める。また、Aさんは公開したくない部分を必ず持っている。そこには入らない、聞かない。相手の体験に対する感情があったことを認めて共感だけをする。その後に可能であれば誰も傷付けないギャグを入れて話にオチをつけて「2人の中で」終わった話にする。会話や受け取り方、ストーリーの共有というのは2人の間の関係が大きな影響力を持つ。また、それとは別に今目の前の現実の話をする。この場合は歩けそうなのか相手の状態はわからないまま、尋ねる。自分で今歩けるのか、歩ける条件は何か。こちらから腕を引っ張り上げて歩かせるのは最後の手段だ。自分で歩き始めることを選択させる。受け止め方を変えるのは遠い未来でいい。大事なのは今その人が歩けるかどうかだ。歩き出した時にはAさんは「歩き出せるぐらいの痛みだよ」と説明することができるようになっている。後に起こったことによって先に起こった歴史上の出来事の解釈は変わるように、今どう動けるかが過去の出来事の評価を変える唯一の方法なのだ。
この面倒臭い文書を読んでくれたあなたが歩き出してくれること、あなたの歩き出してほしい人が歩き始める選択をしてくれることを願ってやまない。