25mプールでもがいて

小学生の頃、プールの授業で毎年1回は着衣水泳の回がありました。体操服のまま入水して、着衣によって水の抵抗が大きくなった状況を体験し、水難事故に備えるためのものです。

水を吸った服がなかなか重たいものだから思うように動けない、というか、私がした動きの軌跡をワンテンポ遅れてなぞろうとする、服の繊維が肌に触れた時の不快感といったらない訳で……
更には、すぐに着替えるために更衣室ではなくプールサイドに置いていたプールバッグに(普通の水泳の授業の後に着衣水泳があったため)、運悪く水しぶきがかかってしまい散々な目に合いました。
何年生のときの思い出かはわかりませんが、時々そのことを反芻します。

反芻して、思うんです。
あのとき全身で感じた不快感に耐えられる人が大成するんじゃないか、私は該当しないそういう枠が世の中にはあるんじゃないかなって。
不始末や不誠実をしてしまったときの、ずっしりと背負いたくない責任がのしかかって、腕を、脚を、骨格が可動する全ての領域を埋めようとする不快感に耐えられなかったのを、あのときのせいにできなあかなって。
水という、自分が立ち向かえない大いなる上位存在に負けることが仕方ないことだと思われるように、責任の重さ自体に責任をなすりつけることはできないのかな。
水という責任に、無責任を濾すことなく煮詰めた私の責任を逃す所となってほしい。

でもあの不快感の原因は水ではなく衣服です。結局のところ責任自体ではなく、着て纏っているものこそが私を苦しめている。自尊心と保身のためだけに私を包む繊維が、より私を苦しめている。
そうなったらもう、嫌になってプールから上がっちゃうんですよね。振り返ればそうやって、たくさんの事から逃れてきたなって思います。そして、上がってみれば25mのプールは思いのほか小さくて、頑張れば顔を出したまま底に足を着けるくらいには浅いものだったことが多いです。
そのたびに、ああ、いけないことをした、と上がる前より一層苦しむのです。

ところで、着衣水泳で服が一番重いのは、水中から上がった瞬間とそのまま陸上を動くときだそうです。実際には着衣状態の方が、生身よりも浮力があるのだと。
あのプールを上がらなかったひとは、きっとそれに気付き報われる瞬間が訪れるのだと思います。そして、水を吸った服を着たまま陸に出たひとは、他のひとよりずっと大きい重力に背を前倒しながらも生きていくしかないのです。

あのプールは蛙にとっての井戸で、その井戸からも逃げた蛙が大海で没することなどできないので、きっと私はやらかしたことを忘れられないまま死ぬことなく生き長らえるしかないのだと、思います。

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