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アラフィフ楽しんでますか?【人生の扉】を聴きながらより良い未来へ

最近、愛猫が重い病気になり凹んでいるこの頃ですが。
ふと今の人生を楽しめているのかを振り返って見ていてふとある曲が頭に浮かびました。


【人生の扉】を聴きながら


言わずと知れた竹内まりあさんの名曲「人生の扉」

I say it’s fun to be 20
You say it’s great to be 30
And they say it’s lovely to be 40
But I feel it’s nice to be 50

竹内まりあ「人生の扉」

ただただ楽しかった20代(バブル真っ只中)
30代は充実するだろうと言われた
40代は素敵なになるはずと
そして50代はよりよいものになると

ただただ馬鹿騒ぎして楽しんだ20代


大学もいいところに入って、何の苦労もなく過ごせた(浪人したり、仮面浪にしたりして大満足ではなかったけど)。
バブル時代に就職してとにかくがむしゃらに働き、存分に遊び、やりがいに満ちた日々を送っていたし。

確かに今で言う「パワハラ」(当時はまだそんなに大きな問題にならなにあった時代)上司が部長として部署に来た時は、マジでサラリは理不尽と思ったけど。
すぐに配置転換の希望をだして別の部署(営業職)へ転属できたし、バブルは弾けたもののまだまだ業界的には給与水準も高く経費も使えて、そこまでわるくなった。

充実の20代後半


営業は出だしはほとんど成果が出ずに苦労したけど、今でもお世話になっている先輩がいろいろと教えてくれた甲斐がでて2年目以降は順調そのものだった。
当時取り入れられた成果主義方式のおかげで、むしろ給与はめちゃくちゃ増えた。
営業に移動と同時に、出張先でも電話できるように携帯電話も買ったし(個人負担)、家で仕事をするためにノートパソコン(Macintosh)を秋葉で購入。

※携帯はメールもなく、フル充電での2時間使えない。
 ドコモだったけど加入料13万円(今はない制度)、携帯は8万(ガラケー)
 PCはまだWindowsがなく、ワープロ機能があるノートPCはMacだけ13万円(ネットも使えない時代でフロッピーディスクをが記憶媒体)

時代はまだバブルの名残があり、勤めていたのが「広告代理店」だったので仕事はめちゃくちゃハードだった。
ただ、会社というよりもクライアントに忠誠心の高い企業風土で「24時間戦えますか?」(『リゲイン』のCMソング牛若丸三郎太)を自で行く働き方だった。
携帯もPCも自分もち、担当クライアントがめちゃくちゃ大変なところで「危機管理」のコンサルもしていたので、土日も深夜も早朝も電話がなるような生活だった。

挫折の30代と転職


もともと30代になったら物書きになりたかったので、ずっと代理店で働く気がなく、土日も深夜も仕事をする生活に少し疲れて来たのが30直前。
このころになると流石に「バブル」の余韻も消えて、かなり景気も傾き始めた。

仕事は相変わらず超ハードで、15〜16時くらいにデスクで事務手続きなどしていると「なんか腹減ったなぁ」と感じでよく考えると、「そう言えば昼食べてなかったんだ」と言うことも頻繁にあった。
ある時地下鉄のホームで電車を待ってる時に、「僕って今何歳だっけ?」とそんなことまでも忘れるほどになってた。自覚はないけど疲労は蓄積されていたんだと思う。

電車で倒れる


土曜に休日出勤し、クライアントパーティーが終わって夕方電車で帰路に着く時に、貧血で倒れてしまった。
自分でも「あぁやばいなぁ」と目の前が星が飛んで真っ暗になりながら、「倒れちゃう」と思った。
周りの人に寄りかかって倒れていく時に「なんとか踏ん張らないと」とおもったけど、全くちからが入らずにそのまま倒れ込んでしまった。

周りの人が気を使ってくれてすぐに次の駅で駅員を呼んで、ベンチに寝かされて。
駅員「お酒は飲みましたか?」
僕「ビール一杯だけ」
駅員「じゃしばらく休んでいれば大丈夫ですね」
この時代は本当にこんな雑な対応が普通だった。
結局、帰りはその駅からタクシーで帰宅した。

パワハラ上司が再び上司へ


そんなことが続く中で、仕事もだんだんきつく感じるようになって行った。
営業成績はずっとよかったけど、休みもほとんどなく家でも常に携帯がなるような日々が続き、いつしか不眠症になってしまった。
週に数時間しかちゃんとした睡眠時間がとれてなく、それも寝ると言うよりも気絶するように眠りにつく状態が常態化していた。

そんな時に人事異動で、営業へ希望をだした理由になった上司が何の因果か営業の本部長として移動して来た。
前とは違い、数字があったので手のひら返したように煽てるような態度ではあった。
でも上限まで達成率をこなしていたのでその上司から「この売り上げを○○さん(先輩)につけてもらう」とノルマ達成ができない先輩に数字を回すことで、管理職としての成績を上げようとしてきてのがどうにも許せなかった。

病気と転職


ちょうど社長交代もあり、大組織改変もあったので、管理部門へ移動を希望しとにかくパワハラから逃れた。
この頃はすでに体調も限界だったので、悩んだ末に精神科へ行った。
当初は「不眠症」を何とかしたかったのだが、診断結果は「うつ」とのとこ。
診断を受けて余計ショックになり一気に体調を悪化させてしまった。

管理部門は営業にくらべるとやはり地味でやりがいもなかなか見出せず、管理畑の担当役員は絵に描いたような「忖度」だけが取り柄の人だった。
下には厳しく、上ばかりみてる「ヒラメ」(ヒラメは目が上しかみられない)の人で、「もうやってられない」と思い休職することにした。

ここからいろいろあるんだけど、少しよくなったので現場復帰をしたくなり、移動を求めたけどなかなか認められず。
営業で世話になった先輩の計らいで新しくできた部署の室長補佐(秘書)のような仕事させてもらえるようになった。
能力は認めてもらえて、組織のちょっとした再編で現場復帰出たが、権力争いの末の別のパワハラ上司に全く仕事をもらえずに…

転職を繰り返した30代


リーマンショックなどもあり転職がなかなか思うようにできなく、ベンチャー企業経由して大手企業のグループで役職付きでやっと、やりがいのある仕事ができるかとおもったが、M&Aを繰り返したきぎょうだったのでここでも派閥争いに巻き込まれた。

当時は少しはコンプライアンスが見直されていたが、今ほどキチンしてなく結局は長くは勤められなかった。

苦労の末独立できた40代


転職も多く、年齢的にも職歴的にも次の仕事を見つけるのが難しく、最初にいた会社でわりと懇意にしていた先輩がベンチャーIT起業をするので手伝うと同時に出資や融資し参加した。

当初は立ち上げてということで、やる気と気力を振り絞りなんとかこれで会社を大きくすることで一発逆転できるかと期待した。
会社も麻布(東京港区にある一等地)にあり、出資者も大手起業の人もいたので明るい未来がと思っていたが。

無能だった先輩


立ち上げ時期で給料などはろくにないも同然だったし、出社時間などもフレックスだったので、社会人大学院へ行こうと先輩に相談した
母校の早稲田大学の商学部の社会人でもいける大学院の願書までとって準備していたが、「今は立ち上げの時なので、フルでやってほしい」と説得されて断念した。

するとその説得した社長である先輩は、別の大学の大学院へ入学、会社のそばではあったがほとんど授業などに出ていると仕事も放置。
「将来仕事に役立つから」と言い訳していたが、納得はできなかった。

給与らしいものももらえずに馬鹿らしなり、会社ごっこをつづけるなら「せめて融資金」は返してくれと迫ったが言を左右にのらりくらりで拉致があかなかった。
もうやけになり出社もやめて(どうせ正規社員じゃないし)、家に引きこもりもうどうにでもと思って過ごす日々を過ごした。

裁判と起業


出資も融資もしたのに(僕にしては多額)、どうしても納得できなくて、知人に話したところ今でもお世話になっている弁護士を紹介されて相談することに。
話し合いの末、もう人間関係もなにも切り捨てて「裁判」をすることに。
優秀な弁護士先生のおかげもあり勝訴とはなったが。

裁判の結果を受けてもお金はいまだに未返済。
民事の場合はこう言うことが多いらしく、強制的に回収できるケースは不動産などがないと難しいのが現実。
でも裁判したことで吹っ切れて、もう、自力で稼ぐしかないと。

自分のスキルを身につけて起業


およそ犯罪ではないことはなんでもやるつもりで、必死にやれることを探した。
そんな時に、ネットを介してであって人脈(知り合って数年たってた)人から「ネットビジネス」というものを紹介された。

たんなる情報商材ではなく、リアルセミナーもある形式で実際に対面で指導してもらえるもので「最後のチャンス」と思って飛び込んだ。
後に大きくなるそのバーチャル塾も当時は立ち上げで、講師陣が直接教えてくれることもあり、多くの参加者が短期間で稼ぎを出していた。

「コピーライター」と師匠


そこは主にコピーライター養成をするところで、今で言う「コンテンツ販売」を教える塾だった。
リアルイベントもあり、バーベキューをやるというイベントで数十人の参加者が来ていた。
その中に、一際目を引く女性がいたので下心で声をかけたら、すごく気さくなかたでLINEを交換することに。

実は実績ある「コピーライター」だった


20代中盤の可愛い子といったKさんだが、後に参加していたセミナーの講師を務める優秀なコピーライターであることがわかりびっくり。
ただ、Kさん自身はまだ個別に相談する弟子的な人はいなかったので、僕が最初の弟子となり。文字通り二人三脚でブログを始めた。

毎日書いたブログをチェックしてくれて、1行1行丁寧に説明と添削をしてもらい。知り合ってから2ヶ月後にはブログで稼げるようになった。
格段にコピーライターとしてのスキルを上げることができて、翌年にはコピーライティングとWebマーケティングのコンサルをする会社を起業。

充実の50代


ネットビジネス塾の経営者ともいまでも交流し、そのご縁から事業も広げて行けている。
コロナ前はまではそれなりに余裕がある状況になり、会社も10年を超えておかげさまで2社を続けられている。

大学院留学とコロナ


コロナ前は安定していたのと、インターネットがあればどこでもできる自由業でもある少しのんびりしたくなった。
そこで前から興味があった「海外の大学院」へ留学兼ねた移住を準備し始めた。
以前から仲がよかったオーストラリア人の友人が住む「メルボルン」にある大学に手続きをする書類(GPT=成績証明書)と推薦状(社会人としての評価)などを集めているところでコロナが襲ってきた。

オーストラリアは気候がよく、アジア系の友人やその両親もバックアップするからと言われて後押しされたんだけど。
コロナで白紙になってしまった。

猫3匹と暮らしているんだけど、オーストリアは独特の生態系を保つために動物の移住にはすごく厳しい。
猫も17歳が2匹と9歳の子なのでなかなか移住は厳しいかなと思いつつ、スローライフもいいかなと思いはじめたが。

最後の一踏ん張りしようとしたら


もう50代もおわりにかけてあと数年、仕事をめちゃくちゃに頑張ってあとはゆっくりとしようと思ってやる気になった矢先。
冒頭に書いたように、愛猫が進行性のガンを発病してしまった。

正直に厳しい状況ではあるけど、1日でも長くいられるように最善を尽くすこと。
費用がいくらかかっても大丈夫なように今からでも全力で仕事もやること。

【人生の扉】


あなたの人生はどうですか?

I say it’s fun to be 20
You say it’s great to be 30
And they say it’s lovely to be 40
But I feel it’s nice to be 50

竹内まりあ「人生の扉」

人生は山あり谷ありですし、年を経るたび辛い経験も増える。
それも含めて人生だし、下を向いても明日はくるから。良い時に寄ってくる人は本当に必要な人だとは限らない。
辛い時も含めて一緒にいてくれる人が何人いるのか?

これから先の人生も

I say it’s fine to be 60
You say it’s alright to be 70
And they say still good to be 80
But I’ll maybe live over 90

竹内まりあ「人生の扉」

こう言えるように、アンチエイジングも猫の看病も全力で1日1日を過ごそうと思います。

めちゃくちゃ長文になってしまいましたが、僕の半生を書いていみました。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

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