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実はスゴイ!座間市鈴鹿明神社|古代史の闇に消えた鈴鹿神社の神様の謎

鈴鹿神社の歴史ミステリーに迫る!
2024年正月、災い多い元旦でしたが、気分を一新して神奈川県座間市にある鈴鹿明神社に初詣しました。
正月にはたくさんの参拝客でにぎわいます。臨時駐車場はいっぱいです。
私は座間の神社が好きですが、この鈴鹿明神社もなかなか面白いです。

古代史好きの目線で「好き」なのです。

鈴鹿明神社は座間地域でもっとも活気がある神社ですが、この神社には謎があります。

せっかく参拝するのですから、心を通わせ合う相手(神様)のプロフィールくらいは知っておきましょうよ。
こちらの神様は、実は歴史上存在したスゴイ人かもしれません。
だとしたら、きっと特別なご利益がありますよ。

今は隠されてしまった鈴鹿の神とは何か
歴史の闇に迫り、古代王族と神社の秘密を紐解きます。


一見、ありきたりな神様だけど

この神社の祭神は伊邪那伎命(いざなぎのみこと)素戔嗚尊(すさのをのみこと)です。

イザナギイザナミは記紀の国生み神話において夫婦で大八洲(おおやしま:日本の国土)を創造したとりわけ重要な神様で、天照大神と素戔嗚尊の親でもありますが、イザナギはの方、つまり男性の神です。

そして、もう片方の素戔嗚尊イザナギの息子です。
まあ、わりあいよくお目にかかる有名な神様です。

しかしですね。

鈴鹿明神社の神様は親子で、しかもいずれも男性、つまり、父と子の関係なのです。これは不思議だと思いませんか?

イザナギの妻であるイザナミも、素戔嗚尊の姉であり妻でもある天照大神も祀っていません。

イザナギとイザナミをセットで祭る神社が多いのに、鈴鹿明神社はイザナギだけです。これには何かわけがあると思うのです。

鈴鹿の神が有鹿神社の神と戦った

座間周辺は歴史的に面白い地域です。
このあたりで一番古いのは有鹿神社ですが、その古さは他の神社など寄せ付けない圧倒的な古さです。

というのも、有鹿神社の神はおそらく縄文時代からこの地であがめられてきた神です。

このあたりに相模川の支流の鳩川が流れており、そのほとりの勝坂縄文遺跡として有名で、縄文時代の祭祀跡が発掘されました。

そこでは鳩川の神か、または湧き水にかかわる水の神が祀られていたと想像され、それが有鹿の神であったかと思われます。

私の妄想では、「あるか」は「うるか」と同じであり、「うるかす」「うるうるする」のように水が満ちている状態を指すのではないかと思います。

有鹿神社の奥の宮と呼ばれる小さな祠(ほこら)が勝坂遺跡公園のはしっこのあたりに残っていて、そこは今でも台地から湧き出す水の源泉です。
周辺は草花と叢林に囲まれたのどかな風景ですので、春先と紅葉の時期に散策するのがおすすめです。

有鹿神社は現在は海老名市にあります。

言い伝えによると、欽明天皇の時代、座間の地に鈴鹿の神がやってきましたが、鈴鹿の神は財宝をたくさんもっていて、それを有鹿にいた蛇神が奪おうとして戦いになり、鈴鹿の神は諏訪明神と弁財天の協力を得て蛇神を追い払いました。

蛇神は勝坂に帰ることができず、現在の地(海老名市上郷)に移り住んだという話です。蛇神だというので有鹿の神は鳩川の神なのでしょうか。ちなみに諏訪神社もすぐ近くにあります。

鈴鹿の神は海をわたって来た

話を戻すと、言い伝えによれば鈴鹿明神社の本来の神は「鈴鹿の神」なのです。
神社の祭神はしばしば「表と裏」がありますが、鈴鹿の神はホームページの情報では現れない裏神様だと思います。

では鈴鹿の神の正体は何かについてですが、神社の歴史として面白い記事があります。

遠く伊勢の鈴鹿郷の祭礼において神輿が海上を渡御していた際、暴風によって漂流し相模国入海の東峯に漂着したといい、このことから里人が座間全郷の鎮守として社を創建し鈴鹿大明神を崇め祀った

という伝説があるそうです。

伊勢の鈴鹿から?

神輿は伊勢の鈴鹿郷から海を渡って来たということ。
古代東海道には鈴鹿の関という関所があり、701年に設置され789年に廃止されたそうです。つまり鈴鹿は奈良時代の交通において重要な場所です。

そこで祀られていた神が海を渡って座間の地にやってきたというのです。

畿内から東国へ向かうには、鈴鹿の関を越えて四日市あたりに出て、そこから船で熱田あたりに渡るか、または船でそのまま東へ向かうのでしょう。

神輿は相模国の入海の東の峰に漂着したということですが、この入海はどこなのか。

入り江という意味でしょうが、座間の地が相模川のすぐそばであることを考えると、相模川の河口付近が気になりますが、河口が古代において入り江であったとしても、その東に峰が見当たりません。

そもそも「峰」は山の上なので、そこに神輿が漂着すること自体おかしいのですけどね。
もしくは、「東峰」という地名が当時はあったのでしょうか。

現在の相模川河口付近は、かつては入り江であり、古代より以前には寒川神社あたりまで海だったかもしれません。

神輿は相模川を遡上して海老名あたりまで運ばれ、座間に届けられたのでしょう。

海老名は奈良時代に国分尼寺が建てられ、相模川水上ハイウェイ東西を結ぶ陸路をつなげるインターチェンジでした。

あ、もちろん神輿が実際に太平洋をさまよって鈴鹿から海老名に流れ着いたはずがありません。何ごとかを暗示している可能性を考えています。

鈴鹿」は何を意味しているのでしょう。

鈴鹿の神は鈴鹿王

さらにウィキペディアではこんな記事があります。


『正倉院文書』によると、天平年間(729年〜749年)には当地は鈴鹿王の所領で土甘(とき)郷と呼ばれていたことから、王の名前より「鈴鹿」という字名が付けられたとも考えられている。


鈴鹿王の所領が「土甘(とき)」というところにあり、鈴鹿王にちなんで「鈴鹿」という字名がつけられたという説があります(土甘は藤沢の地名という説もあるようです。)。

面白くなってきました。鈴鹿王は実在の人物です。

鈴鹿王奈良時代の皇族で、父は高市皇子です。高市皇子天武天皇の長男です。つまり、奈良時代におけるもっとも高貴な身分の皇族です。

その名から推測するに、伊勢の鈴鹿にゆかりがある人物でしょう。
「鈴鹿」が王の固有の名前だったら、「鈴鹿」を地名には使わないと思うのです。
おそらくは母方の実家が鈴鹿だったかと推測します。

しかし、生前の鈴鹿王は政治的に微妙な立場にありました。

長屋王の変

西暦729年、兄の左大臣長屋王が有名な長屋王の変で自殺に追い込まれました。長屋王は藤原氏の陰謀によって追い落とされたといわれます。
鈴鹿王も連座して罪をかぶりそうなところですが、罪を免れ、むしろ出世しています。

739年、藤原四兄弟が疫病で死滅すると、政権首脳部は人材不足に陥り、鈴鹿王が知太政官事、現在の総理大臣に相当する政権トップの座に躍り出ることになります。

そんな鈴鹿王の所領が座間の地にもあったとすれば、地元の人たちとしては鈴鹿王を崇め奉って当然ですし、地名を「鈴鹿」に変えるほどの強い結びつきを持ったのもうなづけます。

土着の古い豪族にしてみると、誕生したばかりの律令国家の重圧には勝てないと感じていたでしょう。

その権力の事実上のトップの座にいる人が座間の直接統治者として登場すれば、当然ながら財宝は持ってくるでしょうし、ケンカをして負けるわけがないです。

地元の有鹿の神を信奉していた人々が、突如登場した鈴鹿王の権力に反感を持って当然です。
実際に鈴鹿王が座間にやってきたわけではないでしょうが、土着の権力者に不満を持っていた人々も地元にはいたでしょう。

そういった人々にとってみれば、新たに出現した鈴鹿王の権威の利用価値は高かったし、みやこからやって来る人や物が珍しくきらびやかで頼もしく思えたでしょう。

まさに鈴鹿王さまさまということで、代々神様として祭られることになったのではないか。

だとすると、鈴鹿明神社の由緒は奈良時代までさかのぼることになり、神社の中でもかなり古い神社ということです。

神社の伝承では欽明天皇の時代とされていますが、奈良時代以前の「○○天皇の時代」という伝承は信じがたいと私は思います。

しかし、鈴鹿明神社の地下には縄文時代後期の住居跡があります。
縄文後期ということは、弥生時代の直前ということで、そんな時代からこの舟形の台地はこの地域における重要地だったということです。

鈴鹿王の一族は領主としてこの地域における一等地を占有し、その名残がこの神社ではないか。
鈴鹿王という古代王族との関わりの深い神社というのは、神社のなかでもかなり特殊です。

もっと注目されるべき神社だと思います。

正月の鈴鹿神社

鈴鹿の神ではちょっと地味?

鈴鹿王の一族の本拠は鈴鹿にあり、彼らの氏神とともに船で座間に渡来したはずです。

当初は鈴鹿王一族が祀る氏神が鈴鹿神社の神だったかもしれませんが、時間が立てば、地元民にとって得体の知れないよそ者の神から、知太政官事鈴鹿王に信仰の対象がうつるのは自然の成り行きです。

鈴鹿王は745年でこの世を去り、鈴鹿王の一族は歴史の表舞台から去っていきました。おそらくは座間に土着したのでしょう。

鈴鹿王の所領がその後どうなったかはわかりませんが、鈴鹿郷の人々が鈴鹿王を氏神として祭り続けるのは、中央政権とのつながりを世間に誇示するうえでは自然な流れです。

しかし、「鈴鹿王」と言っても、歴史が過ぎるにしたがって人々の記憶から消えてゆきます。
記紀神話に登場する有名な神様の方が世間にとってはわかりやすくてありがたみがある。そんな時代になってゆくと、知名度の高い神様を表の神様にしたくなります。

どうせ選ぶのなら鈴鹿王に関わりの深い神がよいです。そこで選んだのがイザナギミコト素戔嗚尊だったのです。
なぜか?これは日本古代史最大級の謎と関わるテーマです。

素戔嗚尊と天照大神にまつわる古代史の謎

結論を言ってしまうと、素戔嗚尊天武天皇なのです。鈴鹿王は天武天皇の孫。しかも、天武天皇の長男である高市皇子の子なのです。世が世なら鈴鹿王が天皇になっていてもおかしくないのですが、当時の天皇は天武天皇持統天皇の間に生まれた草壁皇子の子孫なのです。

ざっくりと言うと、天武天皇の血統持統女帝の血統に天皇家の地位を譲ったのです。
素戔嗚尊は記紀においては天照大神の弟とされていますが、この二人は子をなしているのですから実態としては夫婦です。素戔嗚尊が天武天皇なら天照大神は持統天皇です。

記紀神話においては、天照大神が高天原の正当な統治者であり、素戔嗚尊は傍若無人な暴れん坊。しかし、多くの人が気にしていませんが、天照大神が貴いなら、その夫である素戔嗚尊も同様に貴いはずであるところ、わかりすい格差がつくような細工が記紀神話のなかで仕組まれています。

記紀神話は持統天皇の子孫だけが天皇としての資格者であることを印象付けるために編纂されています。
天皇家は今でも父系主義を取っているのに、なぜその天皇家の祖先神が天照大神という女神なのか。

それは天武天皇の子のなかでも持統天皇の子である草壁皇子だけが皇位継承資格者であると主張するためです。鈴鹿王にとってみれば、まさに自分をなかば敵視する思想教育が当時進行していたわけですが、おそらく鈴鹿王はそれを積極的に推し進めていた当事者であったから、長屋王の変後も政権首座にいられたのです。

鈴鹿王が天皇に?

国家の安定のためには天皇家の血統を思想教育によって固定化することが重要であると鈴鹿王は考えていたのでしょう。しかし、鈴鹿王の取り巻きたちはそれにひそかに反発していたでしょう。

ウチの親分が天皇だったかもしれないのだ。天皇家の血統の源泉は天武天皇であり持統女帝ではない。」という不満は鈴鹿郷にも伝わったと思います。

だとすれば、鈴鹿王の代わりに女神を祀ろうとは思いません。鈴鹿王の祖父、天武天皇のイメージキャラクターである素戔嗚尊こそそれに相応しく、イザナギはあまり重要でなくてオマケ程度だったと思いますが、イザナミは女神だからオマケとしてもイヤだったのです。

天武天皇系が持統天皇系によって皇統から排除(長屋王の変)されたあと、それを画策した藤原四兄弟が疫病で全滅したことで、藤原氏の血を引く聖武天皇が天武天皇系のたたりを鎮魂する目的で東大寺やら国分寺やらを造らせました。

伊勢神宮と出雲大社もこれに関連し、当時の政治的な背景があるわけです。
鈴鹿明神社の祭神がイザナミでもなく天照大神でもなく、素戔嗚尊とその父であるイザナギである理由がおわかりいただけたでしょうか。

私は鈴鹿神社を参拝するとき鈴鹿王に思いを馳せながら拝礼します。
権力闘争から一歩後ろに下がったところで政権運営に精一杯尽くす。
そういう人物だったからこそ座間の民にも慕われ、今の鈴鹿神社につながっていったのではないか。

元々は牛頭天王だった

素戔嗚尊が祀られるようになったのは16世紀頃からのことで、それまでは八坂神社から勧請された牛頭天王が祀られていたという説もあるようです。

これもなかなか興味深い話でして、牛頭天王と素戔嗚尊は最初から同一人格ではなかったかと思うのです。
つまり、神の実態は同じだけれど、その呼び方が変わったということではないかと。

藤原四兄弟が疫病で死んだとき、長屋王の祟りだとされたました。
牛頭天王は疫病封じの神とされています。

疫病の神=長屋王(天武天皇の孫)=牛頭天王

だとすると、

イザナギ=天武天皇
イザナミ=持統天皇
素戔嗚尊(イザナギの子)=長屋王(天武天皇の孫)

という図式も思い浮かびます。

しかし、疫病の祟り神に天武天皇も含めるとしたら?

藤原四兄弟が長屋王を滅ぼし皇族から権力を奪取したことは、亡き天武天皇に対する裏切りでもあります。

つまり、牛頭天王は、天武天皇の長男(高市皇子)の血筋でありながら皇統から排除された一族の祟りを象徴しているのではないか。

天武天皇の長男系統の孫であり、長屋王の弟であった鈴鹿王。
鈴鹿王と牛頭天王も、やはり深い関係があったと思われるのです。

なお、私は学者でありませんから、以上の見解はしょせん素人による古代史の妄想の一部であるとお考えください。


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心理法務カウンセラー 風営法-ハラスメント問題アドバイザー
ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 <(_ _)>