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お祖父さんの戦場(4)第二次上海事変

昭和7年、国際的孤立と引き換えに誕生させられた満州国。
その国際的非難をうやむやにした第一次上海事変。

しかし関東軍の一部の過激将校達の野望は止まりません。
昭和12年7月7日、謎めいた盧溝橋事件により戦闘が始まると、和平交渉がまとまらない中で反日感情が益々高まってゆきます。

ドイツ陸軍の支援を受けて対日戦の準備を固めていた中国軍の一部が昭和12年8月12日、上海の共同租界を包囲し、翌日には所在の日本海軍部隊の陣地を攻撃しました。

上海を防衛する日本軍は海軍に所属する特別陸戦隊で、その兵力は約4000名でした。

上海沖の第三艦隊(日本の)に対する爆撃も始まり、これを受けて日本海軍は台北から南京などの重要都市に対する渡洋爆撃を開始しました。

8月15日に日本政府は「支那軍膺懲(ようちょう:こらしめること)、南京政府の反省を促す」という声明を発表。
陸軍は2個師団(第3師団・第11師団)を緊急動員して上海派遣軍を編制し、8月23日には上海近辺で上陸作戦を開始。

華北所在の日本軍も攻勢に出て本格的な戦争状態となりました。
上海派遣軍は上陸戦において水際で待ち受ける中国軍の攻撃を受けて大損害を出し、ゼークト陣地と呼ばれるドイツ式要塞でも苦戦し、9月9日、お祖父さんが所属する第9師団にも出動命令がでました。

派遣軍は苦戦の末陣地を突破し、中国軍を撤退させることに成功しましたが、第9師団は南京占領までに大損害を受けました。
ウィキペディアでは戦死傷者18,761とありますが、これだとほぼ全滅、つまり上陸戦に参加した人のほどんとは南京にたどり着けなかったことになります。

やがて中華民国政府は首都南京を放棄して西へ移動。
これを追撃する形で事変は拡大し、気が付くと日本は世界を相手に戦争しておりました。

この間、日本軍は内陸部でゲリラ戦術に悩まされ、南京事件など東京裁判で問題にされた残虐行為も起きたとされます。

お祖父さんは昭和15年、おそらく華南のどこかで足に銃弾を受け、帰国して除隊しました。
ここで負傷していなければ、たぶん中国で命を落としていたでしょう。

よく生きて帰れたものだなあと思います。
本人は戦争について、ずっとだまっていたのだそうで、私にわかるのはこのくらいです。


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心理法務カウンセラー 風営法-ハラスメント問題アドバイザー
ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 <(_ _)>