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チェコ野球の歴史(2) オリンピックと東西冷戦

東西冷戦とチェコスロバキア代表チーム

1984年のロサンゼルスオリンピック、野球が公開競技としてオリンピックの競技種目の一つとなった。日本代表はロス五輪の決勝でアメリカと対戦、ヤクルトなどで活躍した広澤克己選手(当時明治大学)のホームランで見事にアメリカを撃破し、金メダルを獲得した。

しかし、1980年のモスクワ五輪で西側諸国がボイコットした余波もあり、1984年のロス五輪には東側諸国のほとんどがボイコットしていた。

野球日本代表はロス五輪の前年に行われたオリンピック予選で台湾に敗退していた。しかし、ソ連がロス五輪をボイコットし、既に出場権を得ていた社会主義陣営のキューバがこれに同調したことから日本代表が急遽オリンピックに招待されるという背景があった。

東西冷戦の緊張は依然としてスポーツの世界に影響を与えていた。

1986年、ソ連でチェルノブイリ原発事故が発生した。現在のウクライナのキーウ州プリピャチで起きた事故である。ソ連政府は事故の情報を適時に開示しなかった。事故が発覚したのは、スウェーデンのフォルスマルク原子力発電所で高線量の放射性物質が検知されたことが発覚のきかっけとなった。事故当時は南東の風が吹いていたことにより、放射性物質が北欧スウェーデンの原子力発電所で感知された。このようなソ連の情報開示に対する姿勢について世界中から非難の声が出た。

この時、ソ連では若き指導者、ミハエル・ゴルバチョフ氏が書記長に就任していた。社会主義を理想としていたソ連はゴルバチョフ書記長により、ペレストロイカ(再構築)、グラスノスチ(情報開示)が推し進められていた。ゴルバチョフ書記長は国内の立て直しを最優先に取り組んだ。当時のソ連にはチェコスロバキアを含む東側陣営に対する監視を目を働かせる余力がなかった。国内の立て直しを優先させたことにより東西冷戦の緊張は少し和らいでいた。

その翌年の1987年、「チェコスロバキア」のナショナルチームが初めて正式に組成された。東西冷戦の緊張が緩んだことが一因であった。

チェコスロバキア代表チームはソビエト連邦選抜チームと試合を行うためにジョージアのトビリシに招待された。120km投げる投手がいればホームランを打つのは不可能と言われていた時代であった。それが当時のチェコスロバキアのレベルであった。

1988年、プラハ・ベースボール・ウィークでチェコスロバキア代表チームは、初めて公式戦を戦った。プラハで開催される国際大会でありながら、自国の代表チームが参加するまでに8年もの期間を要していた。

同じ年の1988年、韓国のソウルでオリンピックが開催された。野球は引き続き公開競技としてオリンピックの競技種目となっていた。日本代表は野茂英雄投手、古田敦也捕手などを擁して世界にその圧倒的な存在感を示し、決勝でアボット投手率いるアメリカに敗れはしたものの、銀メダルを獲得した。後に多くの選手がプロに進み、史上最強のアマチュアチームとも呼ばれた。強化試合では東京ドームで野茂投手と古田捕手がバッテリーを組み、アマチュア最強のキューバ代表とも試合を行っている。

しかし、そのキューバはソウルオリンピックをボイコットした。北朝鮮がボイコットしたため、それに同調したキューバを含めた一部の社会主義国がソウルオリンピックへの出場を取りやめた。東西冷戦下においてはアメリカとソ連が野球で相まみえる機会はなかった。

そして、アメリカとソ連が初めて野球の公式戦で対戦したのは、意外にもプラハの地であった。

1980年代 サッカー場で野球をする様子
人がまばらなグラウンド。

(続く)

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