チェコ野球の歴史(6) 最終回 絆
近年のチェコ代表チームの活躍
青少年のクラスを細分化して、野球人口の層を厚くしてきたチェコ野球、その成果が2000年代に入り、トップチームの成果にも表れている。
欧州選手権での最初の突破口は2001年に訪れた。この年、チェコ代表は初めて決勝トーナメントに進出し、5位という結果を残した。
2005年には、欧州選手権が初めてチェコで開催され、それはチェコの野球ファンにとって忘れられないベースボール・ショーとなった。何千人ものファンの歓声を受けたチェコの選手たちは、欧州の強豪国と互角に戦った。
「地面が揺れるほどのファンの声援に心臓が激しく鼓動し、全身にその感覚が広がった」と、チェコ代表のミハエル・ミュラー選手は話した。
この欧州選手権では5位という素晴らしい結果を残した。試合後に小さな女の子たちが選手にサインを求めてきた。このスポーツがチェコに根付いていることを示す大会となった。
この欧州選手権の結果により、初めて世界選手権(IBAFワールドカップ)にも出場し、チェコ代表は世界レベルの野球の雰囲気を体感している。
この世界選手権では日本代表とも対戦した。結果は0-16の大敗であった。しかし初めて世界を経験したチェコ代表はこの経験が大きな財産となった。
2007年、北京プレ五輪でチェコ代表は再び日本代表と対戦した。日本代表は星野仙一監督、坂本勇人選手や前田大和選手などが率いた。チェコ代表は、パベル・ブドスキー選手のホームランで先制するも中盤に日本に追いつかれ、延長の末、2-3で敗れた。
2014年の欧州選手権は再びチェコで開催された。結果は4位と初めてのメダル獲得はならなかったものの、ヤクブ・スラーデク選手は5本のホームランを放ち、この大会のホームラン王に輝き、打撃賞を受賞した。
若い世代も台頭した。この年の21歳以下のワールドカップでは世界5位という結果を残した。メキシコ、オーストラリア、オランダ、イタリアなど、世界の強豪国を押しのけて堂々たる結果であった。この時チームを率いたのがパベル・ハジム監督であった。
ハジム監督は2013年にリトルリーグワールドシリーズでコーチとして指揮をとり、そしてアンダーカテゴリーの若い世代も率いて世界と戦ってきた。23歳以下のカテゴリーでは2016年ワールドカップ、そして2017年欧州選手権など、世界と互角に戦い、結果を残してきた。
そして2022年、ハジム氏はトップチームの監督に就任、この年WBCの出場権を獲得した。長年の悲願を遂に達成した。それは小さい頃から成長を見守ってきたあの時の子供たちが躍動した結果であった。
1990年代から2000年代初頭にかけてチェコでは状況が変化した。初期の代表選手や技術的に優れた選手たちが引退し、若手の育成が重要であると気付いた。
指導者たちには、勝つことよりも野球というスポーツを楽しむことが重要だと伝えられた。子どもたちが野球を好きになり、スポーツを楽しめることを常に心がけていた。勝利を追い求めることもあるが、何より野球を楽しむこと、バランスを取りながら長い期間にわたって彼らの汗と涙がグラウンドに滴った。
「野球は知的で刺激的なスポーツであり、多くの選手たちが世界最高峰のレベルでプレーすることを夢見ています。いつかNPBで活躍できる選手が出ることを祈っています。」と、チェコの指導者たちは子供たちにチェコ野球の夢を託している。
2023年には世界最高峰の大会であるWBCに出場したチェコ代表、しかしその始まりは何もない、プラハの片隅にある小さなフィールドから始まったのである。
最後に
~我々がチェコの野球から学ぶこと~
1963年にアレシュ・フラベ氏によってプラハで組織的に野球が開始されてから60年以上もの時が経つ。
もっと古くまで遡ると1919年、第一次世界大戦後にキリスト教青年会のインストラクターによって、「プレイボールグランド」と呼ばれるスポーツが、バスケットボールやバレーボールと同様にこの地域にもたらされた。その一人がジョー・ファースト氏であり、彼の意思がアレシュ・フラベ氏に引き継がれた。
ミロスラフ・ヴォイティシェク氏は、プラハ・ベースボール・ウィークの開催に尽力し、1988年には初めてチェコスロバキアのナショナルチームがプラハ・ベースボール・ウィークに参加した。
当時、チェコスロバキアではグラウンドの設備がままならなかった。共産主義政権下では自由に野球をすることも難しかった。しかし彼らは諦めなかった。外国に行くと、球場の設備や環境に目を見張り、心からそれを羨ましく感じた。
「いつかこういう球場がプラハにもできれば」という強い思いがあった。当初はゴミ捨て場であったその地に土を運び、鮮やかな芝生の野球場を完成させた。30年の努力が実を結んだ。今では外国のチームがこのプラハの球場で野球をやりたいと思うようになっている。
チェコ野球協会の会長であるペトル・ディトリッヒ会長は、40回目のプラハ・ベースボール・ウィークの開催の時にこうコメントを残している。
「私たちにとって、プラハ・ベースボール・ウィークは象徴的な大会です。何もなかった頃からこの大会は続いています。オランダのチームに10点差で負けていた時代もありました、でもすべてが歴史の一部なのです。ヨーロッパやアメリカのチームがプラハ・ベースボール・ウィークに参加してくれることを嬉しく思います。そしていつかアジアのチームとも交流できるようになることを願っています。アジアのチームがこの地に来てくれることを心から願っています。」と。
それから僅か3年後の2024年、大学生の日本代表がプラハ・ベースボール・ウィークに参加した。チェコの野球関係者たちは、日本代表がプラハの地に来ることを心から喜んだ。それはこの地で野球を愛し続けた人たちの一つの結晶でもあった。
彼らにとってベースボールとは一生の信条であり、選手間の友情は生涯にわたって続く強い絆であると彼らは信じている。一度このスポーツに取り組むとそれは一生のものになる、と。
大学日本代表の堀井哲也監督はプラハ・ベースボール・ウィークの大会後にこう語っている。
「今までやってきた日本の野球、チームでやってきたことを出し切ろう、と。特別なことをする必要はない。海外の野球を体験して、学べるところは学ぶ。この大会は選手の心に深く刻まれた。とてもうれしく思う。記憶にも記録にも残るような大会となった。」と。
侍ジャパンとの対戦で2024年のプラハ・ベースボール・ウィークは多くの人の心に刻まれる大会となった。そして秋にはプレミア12の強化試合でチェコ代表は侍ジャパントップチームと互角に渡り合った。彼らの活躍に日本の野球ファンからは大きな拍手が贈られた。
WBCでの対戦をきっかけとして日本とチェコに大きな架け橋ができた。この日本とチェコの絆が生涯にわたって続くものであると多くの人が信じている。
最後に、
チェコの地でバットを使うスポーツが長きに渡って行われてきたことにお祝いを申し上げ、将来に向けて日本とチェコの絆がより大きな力を生むことを願っています。
Czech Baseball Association / External Deputy 斉藤佳輔
(おわり)