戦火のアンジェリーク(15)3.Wales ~ the UK
3.Wales ~ the UK
Aubade ~ 彼は誰故に
様々な不安を抱えた、英国の短い夏が終わりを迎えた、1940年の9月某日。突如、ドイツ空軍による攻撃が、首都ロンドンの街を襲った。翌年の春まで続き、後に『ザ・ブリッツ』と歴史に語り継がれる事になる、ロンドン大空襲の始まりだった。
アンジュ達の住むカーディフ近郊は、ロンドンからはかなり離れている。しかし、流れ弾や爆破に巻き込まれる可能性を危惧し、周辺地域の住民は、カーディフ城内地下の防空シェルターに避難する事を勧められた。
強制ではなかったが、助けを呼ぶ声を出せないアンジュの状態を案じた二人は、少し遠方だがカーディフに戻り、暫くの間、滞在することに決めた。ジャズバーの仕事は休まざるを得ない。状況次第だが、長期の避難は難しいだろうな……と、ジェラルドは悩んだ。
今まで以上に、命の危機をリアルに感じると同時に、スコットさんやクリスの安否が心配で堪らなく、不安が募る。だが、アンジュは、ジェラルドはともかく、自分の身の安全は、内心、あまり気になっていなかった。
逃避なのか、自暴自棄状態なのか……そんな自身に戸惑う反面、どこか不気味で、怖さを感じる中での避難だった。
石造りの城内地下の壕内は、窓はなく薄暗いが、割と広く、小綺麗な空間だった。非常食や薬などの入った箱が大量に積まれ、壁には注意書が書かれたイラスト付きのポスターが、何枚も貼られている。
『騒がない』『走らない』『泥酔しない』『喫煙しない』……
ロンドンに来る時に乗った船の地下の客室を、ふと、アンジュは思い出した。あの時は窓もあり、自由に甲板に出て、外気も吸えた。しかし、今回は窓もなければ、外にも出られない密室……籠城状態だ。
――本当に、牢獄生活みたい
結構な人数が避難しに集まっていた。主に女性や子供、年配の人間ばかりだ。男性でも、まだ成人し間もないような若者はいるが、働き盛りの年代は少ない。この数ヶ月の間、徴兵されたか志願したのだろうと、ジェラルドは思った。
時間が経つにつれ、空腹と恐怖で泣き出す子供が出てくる。既に、夜になっていた。黙らせようと、母親らしき女性が必死にあやしている。アンジュの近くには、悲痛の面持ちで寄り添う老夫婦に抱かれた幼女、母親らしき女性に抱かれ、すすり泣く少年がいた。
幼女は、蝋人形のように表情が無い。泥と煤で薄汚れた色白の顔。後ろに乱雑にまとめたブロンドの長い髪は荒れている。サファイアの碧の瞳は陰で覆われ、空虚な眼差しをしていた。
泣いている少年は、「パパ……パパ……」と呟きながら、ブルネットの巻き毛を撫でられている。
――あの子達、も……? なくしたの……?
アンジュの心の奥底の、何かが、先程からずっとざわめいている。痛ましくて、悲しい光景……見ているのは辛いのに、何故か惹き付けられる。
彼らは言葉は、言わない。今居る場所がそうさせているのか、本当に何も言えないのか、はたまた、何も感じていないのか……
――そんなわけ、ない
聴こえる気がした。音も光も無いが、強烈な叫びのような信号。彼女に内に棲む誰かが、そんな信号の一部と共鳴し、手を振り返そうとする。応答しようとしている。
どくん、と熱を帯び出した心が動き、鳴った。
――こわい。こわい。助けて。助けて
――こんなのいや。きらい。さみしい
――どうして? なんでこうなるの? これは、何?
――どこにいったの? おいてかないで
――きらいになったの? わるい子だから?
――うまれてきたく、なかった
……――刹那、今まで会った人達の言葉が、突風のようにアンジュの脳裏を駆け、流れ巡った。
『僕の分まで夢を叶えてほしい。君の歌で、僕は元気になれた』
『貴女は、何の為に歌いたいの?』
『儂は聴けないが、嬉しいよ。頑張りなさい』
『それでいいんだ。君は、それでいい』
『心の声を、よく聞いて』
『君が選べばいい。生きていてくれたらいい!!』
『……一度だけ。でも、君が好きな歌にするから』
――ああ……そうだ。私、は…………
「……『ほのお、の中で、散る、花よ』」
「シスリー!?」
掠れた声で歌を口ずさみ始めたアンジュに、ジェラルドは驚愕し、思わず見入る。翡翠の瞳孔が見開き、全ての音が、一瞬、耳から消えた。そこだけが、無音の空間に飛ばされたようだ。
「……『真っ赤な、涙を、頭上に舞わせ、最期の瞬間に、君は、何を思う……?』」
『ポピーの涙』だ。拙く、掠れた声で儚く紡がれる、アンジュの何よりも大切な楽曲。固まっていた喉の筋肉や呼吸器を、懸命に動かす。
「止めろ。ここでは……」
我に返ったジェラルドは、歓喜に震える心を必死に抑え、周囲に配慮して止めさせようとする。
刹那――自分達への強い視線を感じた。同時に、幼い子供の澄んだ声が響く。
「お花、どうなる、の?」
先程、老夫婦に抱かれていた無表情の幼女だった。アンジュと向き合い、真剣な様子で問いかけている。まだ片言の幼児である彼女に、歌詞の意味が解るとは思えない。しかし、切なる瞳で続きを知りたがっているようだった。
遥か遠いロンドンの上空から、カーディフの壕内にまで聞こえてくる落雷のような轟音。それらに掻き消されないよう、尚且つ、語りかけるように、囁くように、アンジュは、切なくも優しいメロディを口ずさむ。
「『……さようなら、育った故郷 さようなら、愛した人 さようなら、愛してくれた人』」
少し一息つき、ぐっ、と眼に力を入れた。更に心が痛む歌詞に入る。しかし、彼女の宵の瞳には、淡い閃光が灯っている。
「『遺された、はずの、亡骸さえ、涙と共に、消えていった』」
いつの間にか、シェルター内の人々が、皆、アンジュと幼女に視線を向けていた。少年の泣き声や女性の鼻を啜る音も止んだ。『止めろ』という声も無い。悲壮感の中にどこか厳かな空気が漂う、奇妙な静寂に満ちている。
「『誰の為に、君は泣く? 誰の為に、君は逝く?』」
楽曲は終わった。が、アンジュは少し間をおき、再び、口を開く。
「『……とけゆく涙は、地に還り、陽を浴びて』」
「『やがて、蒼く……芽吹くでしょう』」
――…………
しん、と静まりかえった空間の中、やがて、側にいた老夫婦が、パチ……パチ……と微かな拍手を鳴らした。つられるように弱々しく拍手が鳴り、すすり泣く声や嗚咽が、再び聞こえて来る。乞い求めるように、男の名を呟く女性もいた。
「……お花、泣いてるの?」
碧のガラス玉のような瞳に、雨粒のような滴を浮かべた幼女が、再び問いかけた。そんな彼女に、こくり、とアンジュは神妙に頷く。
「パパも、きっと泣いてる。かえってこないの。お花になったの……!?」
「…………!?」
大粒の涙を流し、急に声をあげ泣き出した彼女を、祖母らしき女性が抱き寄せ、その場から遠ざけた。祖父らしき年配の男が、アンジュ達の傍に近づく。
「申し訳ありません。あの……」
すまなそうに、ジェラルドが詫びた。そんな彼に、憔悴しきった皺の刻まれた顔を静かに振り、男は語り始めた。
「……あの子の母親は早くに亡くなり、水兵だった父親……息子は、春のノルウェー海戦で、戦死しました」
「…………!!」
二人は共に絶句する。あの戦いで犠牲になった者の魂が、すぐ傍に現れたように感じた。
「ですが、帰って来ない父の行方を尋ね、せがむあの子にずっと告げられずにいたのです。私達も……受け入れられなかった……」
きしきし、と絞られるように、アンジュの心臓が痛んだ。彼らの行き場の無い思いが、滲みてくる。
「やがて、あの子は口を利かなくなり、表情も消えました……が、さっき泣いたんです…… 上手く言えませんが……私達もきっと……ありがとうございます……」
震える声で少し俯いた男に、ジェラルドの胸奥には、複雑で感慨深い想いが湧き上がっていた。最後に見たスコットの姿が、彼と重なる。
ぎゅっ、とアンジュは目を瞑り、勢いよく首を振った。掠れた声で、ゆっくりと、喉から思いを紡ぐ。
「……同じ、です」
「え……?」
戸惑う男と少し離れた場所に移動した幼女と女性、そして、隣のジェラルドを、ゆっくりと順々に見つめ、固まっていた頬を動かし、アンジュはぎこちない笑みを浮かべ、伝えた。
「……彼女と、皆さんのおかげで、私も、声が……歌えたんです。本当に、ありがとうございます……」
目の前の男と、自分達をずっと見ていた人々に向かって、深く、丁寧に頭を下げる。
「シスリー……」
涙しそうになるのを堪え、ジェラルドは静かに呼んだ。優しく重厚に響く、チェロの切な音色。
「ジェイド……さん……」
儚くも久方ぶりに口にする、いとおしい人の名。呼ばれた彼も、彼女自身もを、魔法がかかったように煌めかせる。
――誰かに頼まれたから、求められるから、認められたいから……だけじゃない。
――私が、温かな人達がくれた優しさが、強さが、好きだから、感謝を、祈りを込めて、彼ら全ての想いを伝え、謳い続ける……
「ご存知だったのか知りませんが……」
幼女の祖父は、泣き笑いのような表情を浮かべ、続けてアンジュに告げた。
「……ポピーはね、フランスの国花なんですよ」
切なくも不思議な巡り合わせに、アンジュの心にいつかの夜の鍵盤が甦り、ポーン、と再び鳴った。
「私達は、フランス系でね…… こちらでは停戦の花でしたね…… 改めて……本当にありがとうございました」
一部始終を見ていた、シェルター内の子供達が、戸惑う大人達の手を離れ、次々に集まって来た。幼児から物心ついた年代、成人前の年頃まで様々…… ぐずっていた子も、泣いていた子も、遠慮がちに、少しずつ近寄って来る。
何かを察知し、引き寄せられるかのように、アンジュの周りを囲んだ彼らのうち、近くで母親に抱かれ泣いていた、ブルネットの巻き毛の少年が、泣き顔のまま尋ねた。
「……おねえちゃん……歌、うたう人?」
少し考え、こくん、とアンジュは頷く。今は『歌手』ではない。だが……
「…………!!」
瞳に淡く光が差し、少し表情が柔らかくなった少年は、楽曲のタイトルを口にする。
「あれ、歌って。『エーデルワイス』……」
「次は、『アメイジング・グレイス』!」
彼に続いて、隣の少女も名曲をリクエストする。そんな無垢な瞳に囲まれ、不思議な万能力をもらった気がしたアンジュは、自然と口にしていた。
「……少しだけなら……いいわよ」
「シスリー、無理するな。まだ、喉が……」
彼女の身体を心配したジェラルドが、歓喜で動揺しながらも、焦って止めに入る。
「ジェイド、さん……」
いとおしい人の言葉、心遣いが、アンジュにまた光明を注ぐ。彼女が知らないうちに、彼がいつかの朝、彼女から浴びたものと、同じ天明のような……
「……この位の声量なら……大丈夫です。水と、ドロップを……くださいますか?」
その場が、ささやかな音楽会になった。柔らかく澄んだ歌声……ウィスパーボイスの旋律が、地下内を包み流れる。暫くの間、偏った傾向の楽曲ばかりを耳にしていた子供達は、久方ぶりに聴く、それぞれの好きな歌を真剣な面持ちで聴いていた。
リクエストされた中には、昔、アンジュがオーストラリアの美しい海辺で、自分を励まし、鼓舞する為に一人で歌っていた楽曲もあった。
彼らの瞳の暗い陰は消えていない。泣き顔のままの子もいるし、晴れやかな笑顔は見当たら無い。けれど、少しずつ、何かを取り戻していくように見える。そんな力なくも健気な姿を、アンジュは何とも言えない不可思議な、感慨深い思いで目にしていた。
これから悲しく辛い思いを、彼らも……いや、自身も経験した事の無い、深い傷を負うかもしれない。ここで今、希望を持つのは、先々で、残酷な痛みも伴うかもしれない。
だが、見えなくても、聞こえなくても、彼らは必死に鼓動している。確かに、ここに、在る……
夜更けになり、待つ大人の元に戻った子供達が、一人、また一人と、眠り始める。皆、このシェルターで夜を明かす事になりそうだった。支給された毛布に共にくるまり、アンジュとジェラルドは互いを温め、暖をとる。
「大丈夫か? 疲れただろ」
「少し……でも、休めば大丈夫です」
「……全く、君には、本当に驚かせられる」
周りに配慮した小声で呟き、ジェラルドは苦笑した。いつか、二人きりの演奏会をした夜を思い出す。
「すみません…… 心配かけて」
「いや……良かった……本当に…………」
ほうっ、と息を吐き、アンジュの肩に顎を乗せ、そのまま抱きしめる。彼女の声が戻った事、そして、歌えた事が、何よりの喜びだった。
「ジェイド、さん……」
掠れた声で呟き、そっ、とアンジュも抱き返す。
『あたたかい』――そんな想いが、心の奥底から湧き出した。血の通った命が……生きているという証。
闇や狂気は消えなくても、同じように、同じ地球で、直向きに光を灯している命も、美しい世界も、確かに存在している。
声を張り上げながら産まれ、懸命に呼吸し、ささやかながらも巡り廻っている。その灯火がどんな形であろうと、吹き消してはならない……
――私も、今、ここで生きて……活きている。
そんな想いを抱きながら、久方ぶりにアンジュは、深い眠りを得た。
天遣いの終焉
声と共に、新しい力を取り得たアンジュは、シェルター内で夜明けを迎えた。アパートの部屋に射し込んでいた、いつもの陽光は無い。視界には、ランプの仄かな灯りが心許無く照らす、見知らぬ暗がりの空間がぼんやりと映る。
だが、自身の中に芽生えたもう一つの光、そして、すぐ傍で微睡むいとしい人の吐息とぬくもり。それらが、今の彼女の希望の光だった。
外ではロンドンへの空爆がまだ続いているらしいと、街の職員づてに住人から聞いた。数日間、様子を見る事にしたが、いつ何が起こるかわからない状況。成す術もなく、迂闊に出られなかった。
身に迫る恐怖に耐え、慣れない密室空間を見知らぬ他者と過ごすという、精神的な戦いを強いられる日々が続く。そんな中だったが、たまに子供達にせがまれ、彼らを宥め、慰めるようにアンジュは歌っていた。
いつ終わるかわからない緊迫状況の中、大人達も、初めは歓談や軽い飲酒などで気を紛らわしていた。だが、次第に、ストレスが積もるにつれ、苛立って塞ぎ込んだり、突如泣き出す者が出てきた。皆、限界に近づいていたのだ。
そんな中、ジェラルドは長い間、仕事を休んでいる状況が気になり、自分だけでもアパートのある町に戻る事に決めた。アンジュはカーディフに残るよう彼女に言ったが、『離れるのは不安で耐えられない。声も戻った今なら大丈夫』と彼を説得し、二人で共に帰る事にした。
辛い日々を過ごした場所だが、あのアパートが懐かしくて仕方ない。彼処が、今では自分達の帰るところなのだと…… そんな風に思える自身が不思議でこそばゆく、こんな時だが妙に嬉しくも感じる二人だった。
――もしかしたら、スコットさんもそんな思いで、あの庭園に残ったのだろうか……
ふと、ジェラルドは切なさと共に痛感した。彼の事だ。危険だと解っていても、それでも彼処が、彼の全てだから……
大切な場所、人、もの達の為、あえて、自ら業火に身を投じる。滑稽だ馬鹿だと嘲笑われても、そんな想いすら利用されていると解っていても、それでも、人は守るのだ。踏みにじる者達から、自身の宝、尊厳を。
《続く(準備中)》
【※まだ続きますが、私事で途中投稿しています】