【キャリコンへの道#4】「社会人になることは、感情に鈍感になること」?
昨日の#3を書いた影響か、前職の夢を見た。
辞めたのにまだ怒られる夢だ。
オフィスで、目の前に座ってる彼らに非難をされる。
それにわたしは、ブチギレる。
大きい声で、「間違ってる!」って。
そういえば、5月の時にも同じような夢を見た。
「お前らはおかしい!全部おかしい!」
そう叫んでる。
きっと、わたしが一番言いたかったのはそれなんだろう。
ずっと違和感があって、全員の言動に一貫性がない上に屁理屈や理不尽なものばかりだった。
それでも「それが社会というものか」と思って、何も言わなかった。
「わたしが間違えてるのだ」と自分のなかに落とし込もうとしていた。
だけど、本当はちゃんと怒りたかった。
「間違ってないですか?それ本当ですか?このように言ってましたけど?」
何かを言うと「言い訳をするな」と言われた。
だから言えなくなった。
会社を辞めるか迷っている時、
兄が言った言葉が残っている。
「とかげが怒らなかったのがびっくりした。
ああ、そのレベルでやばいんだって」
わたしは人生においてありとあらゆる理不尽に立ち向かうことで生きている。
制度上おかしいこと、誰かが勘違いで怒られていること、
ちゃんと怒り、それを行動のエネルギーにして、物事を解決するために動く。
わたしの中心には怒りがある。
それは実感としてもあり、文学フリマに出店するきっかけも怒りがきっかけだった。
なのに、前職では怒れなくなった。
自分が悪いんだと思い、動けなくなった。
心をストップしようとして、何も考えないようにパズルゲームをする。
感情を一つずつ削ぎ落としていくように、
楽しいも喜びもなくすように、ゆっくりだけど強く少しでも早く、
心を無にしていく。
感情の波は無意味だと思いながら、
会社の前の横断歩道を渡る。
白いところだけ踏んで、一歩一歩、手放していく。
「大人になることは、感情に鈍感になること」
きっと、この時わたしはギリギリだった。
もう少しで、黒いところのマグマに落ちていくギリギリの淵に立っていた。
キャリアコンサルタントの面談には
わたしのようなギリギリの場所にいる人が来る。
多くは人生の大きな分岐点に立ってる人だ。
そう言う人は、自分のことを肯定できないような状態になっていることが多い。
「自分が間違っているのかもしれない」「自分がダメなのかもしれない」
「自分にはいいところなんてない」「自分は何もできない」
自信を持って自分の人生の選択をできない状態とは、このような思考に、気持ちになっている時のことだろう。
だからこそ、キャリコンは基本的傾聴の連鎖だけでは足りない。
その先にあるクライエントの「肯定的資質の探求」を促していかないといけない。
クライエントの素敵なところ、できてきたこと、頑張ってきたこと、気づいていない魅力をキャリコンは話を聞いて、聞いて聞いて、伝えていく力が必要だ。
なんでもいい、
人は自分を肯定したいとずっと思っている。
それをキャリコンと話すことで
自然と「あ、そうか、自分も悪くないな」と思うのかもしれない。
そうすることで、人は問題解決の一歩を踏み出せる。
わたしの強みはなんだろう?
わたしのいいところはなんだろう?
きっと、本を作って売ると言うところがわたしの強みであり、拠り所である。
だから一生これをしていたいと思うのだけど、
それを発展させる方法がわからない。
マグマに落ちそうな時、わたしの拠り所は文学フリマでの経験だったのだろう。
フォロワーさんがわざわざ会いにきてくれると言うのが肯定的経験になって、
あと一歩を踏み外さずに済んだ。
わたしは淵を知っている。
それは小説を書くし、読んできたからだ。
そして、映画や漫画に触れてきた。
ずっと、苦しい経験をしてきたから、わたしは感情を多く知っていくことができた。
それもきっと強みだ。
その感情を表現することができるのも強みにすることができるのだろう。
講師も
「読解力がない人、感情のぶつかり合いを知らない人は、韓国ドラマを見るといい。激しい感情をちゃんと説明してくれるから」とおっしゃっていた。
物語に縋りついた小さなわたしは、
感情を知りたかったのだろう。
感情を言葉にしたかったのだろう。
そして、それを持つ自分を肯定したかった。
だから、わたしは文章を書くのかもしれない。
この世には自分の感情を理解できない人が多くいるそうだ。
今の小さな子供は、「体の感覚が鈍感である」そうだ。
だから、『お母さんといっしょ』では、体を触る振り付けの曲があると聞く。
それぐらい、人は感情をあやふやにしている。
大学の教授も同じようなことをおっしゃっていた。
「今の子は、感情を知らない。だからこそ、物語が必要なんだよ。
文学部は無駄だという人がいるけれど、無くしちゃダメなんだよ」
そうか、感情は手に入れるものなんだ。
ぼんやりと生きていくほうが楽だ。
だって、悲しいは辛いから。
「だるい」ってことにしちゃえば、向き合わなくて済むから。
感情なんて持て余して疲れるだけだから。
わたしもそう思った。
あの時、強く「感情なんてなくなれ」と思った。
鈍感に、適当に言われたことだけをやればいいと思えれば、きっと楽だった。
でも、わたしは感情を無くせない。
感情を、悲しみを、喜びを、全て大事にしていきたい。
だから、わたしは感情を言語化する練習をできる場所を作りたいと思う。
いつか、キャリアコンサルタントとして子どもの塾を作りたい。
勉強をするんじゃなくて、
社会の経験をする場所、そして感情を言語化する方法を知る場所。
不登校児は、キャリア教育を全く受けられないでいる。
授業でやってるはずだけど、そこら辺の情報は得ることができない。
5教科を必死に自分で勉強するしかないから、余裕がない。
そんな子どもたちに将来を考えられる場所を作りたい。
わたしにとって小説がそれだった。
世界は広い、世界は学校だけじゃないと気づくには、SNSは濁流すぎる。
居場所になることは確かだし、わたしもSNSに救われたけれど、
もっと安心できる場所を作りたい。
感情は敵じゃないように、
なればいいな。
苦しすぎるのだけど。