
【キャリコンへの道#5】沈黙が怖い、正しい面談はそんなことも思わせないはずで。
沈黙が怖い。
わたしが話さないといけない場面で、沈黙ができることが本当に怖い。
人に求められている言葉を回答できているかがわからなくなって、
わたしの言葉が伝わってるかわからなくなって、
言葉を重ね過ぎてしまう。
心の中が恐怖に満ちて、話し続けてしまう。
どうしてそうなってしまったのだろう?
キャリアコンサルタントの面談において、「沈黙」はゴールデンタイムだという。
それは内省のきっかけであり、
「う〜ん」と言う唸りが出たらそれは最高のものだという。
わかる。
人は自分が思ってもない質問をされた時、
考えるために黙ったり唸ったりをするだろう。
それはわかるのだけど、
わたしはとても怖くて仕方がない。
なぜなら、伝わってないのではないかと思うから。
「こう言う意図を持って質問したんですよ」と言うのを追加で伝えようとしてしまう。
わたしは伝わらないと言うことがとても怖いらしい。
そもそも、キャリコンとしてはそのような思考自体が
「キャリコン中心の質問」であり、よくないとされる。
「自分が知りたいから」
「癖による質問」
などは、知的欲求ではあるが自分のためだけであり、
相談者のことを考えた質問ではなくなっている。
これは、自分のゴールを用意していることになるのだ。
そして、その結論に至るために誘導していく。
キャリコンがするべきなのは、
「相談者中心の質問」であって、その人が話したいことをまず話してもらうことに価値がある。
それは、その人が新たな自分に気づくためである。
だからこそ、沈黙をして考える時間は大事だ。
わかる、わかるんだけど、わたしはとても怖くなってしまう。
それは、どう言う恐怖心なのだろう。
新卒で入った会社では、毎日朝十分ほど面談があった。
「どう?」としか聞かれず、
じっとわたしを見る。
睨むように笑うこともなく、わたしの目だけをじーっと見ている。
「昨日はテレアポを30件やって、その後〇〇について教えていただきました。
まだうまくテレアポの言葉が出ないのでもっと頑張りたいと思います」
言葉が口から垂れ流されてしまう。
表面上をツルツルと流れていくような、言葉の羅列になっていく。
その間もずっと、相槌も打たず見ているだけの上司。
怖くて仕方がなかった。
きっと、彼女にとっての答えをわたしが言えていないから。
彼女が求めてる回答をわたしができていないから。
何かを間違えてて、もっと適切な答えを言わないと。
わたしの頭はギュルギュルなっている。
心臓がバクバクとなり、手は小刻みに震えている。
だけど、アルミブラインドに区切られて見える青い空のことをわたしは思い出せる。きっと心をどこかにやらないといけなかったのだろう。
上司の凝視が怖くて、目を上げることができなくなった。
目を合わせることができなくなった。
怖い、怖くて仕方がない。
カエルはこんな気持ちだったのか。
キャリコンの勉強をしてわかったことは、
この時の上司の面談方法は、絶対にやってはいけないことばかりだった
と言うことだ。
目を見る時は、左目だけを見るようにすると圧を感じにくい。
話を聞く時はゆっくり頷く。
感情を合わせる。
伝わっていると言うことを伝える。
目を細めたり、大きくしたりすることで感情を伝える。
この学んだ技術と全く逆のことをやられていたから、
わたしは恐怖を感じて、内省も何もできなかったのだろう。
ダメな面談方法を身をもって体感したことで、
絶対にそんなことはしたくないと思った。
相談者は追い詰められている中できているのだから、
安心や解決がしたくてきているのに、
より追い詰められるカウンセリングを受けて何の意味があるのだろうか。
そう言う場所で
そう言う対応をされてしまうと人は逃げ場を失ってしまう。
限界の手前で来てくれた人も多い中で、
カウンセラーがそういうことをしてしまうと
日常生活で同じ対応をされるより
心は大きく傷つき、絶望してしまうだろう。
救えるほどの力はない。
だけど、
少しは世界は悪くないかもしれないと思うきっかけにはなれるはずなんだ。
そうは思うのだけど、
まだわたしはすぐに早口になってしまう。
怖くて、怖くて仕方がなくなってしまう。
もっと言葉を大切にしたいと思うのだけど、
心の表面の言葉をさーっと話してしまう。
緊張してしまって、うまく話せない。
試験が心配だ。
面接が怖い。
人が求める言葉を探してしまうし、
わたしを理解して欲しいと思ってしまう。
その真逆の中で、わたしは止まれなくなる。
わたしはずっと不安で仕方がない。
どうしてもどうしても不安で、自分の軸を保てていないのだろう。
だから、いつもそうなってしまう。
もっと、ゆったりしていい。
ゆっくりしていい。
遅いことがよくないことだと思ってきたのだろうか?
何をきっかけに?
まだ、わからない。
探さなければならない。
そう言えば以前、こんな記事を書いた。
『モモ』を読んで考えたこと。
大学の講義でマックスピカートの『沈黙の世界』を学んでいた。
内容としては、『沈黙』は人が言葉を語らないから出来るのではなく、もともと『沈黙』があって、『沈黙』が充溢するときに言葉が出来るのだというようなことだ。『沈黙の充溢』とは自己自身の充溢である。もっと簡単に言えば、思いが溢れた時に言葉が出てくる、といったようなことだろう。
なにか近いものを感じないか?
『時間』とは『沈黙』なのではないか?
そんなことが私の頭を行く。
これは『沈黙』を奪われたんだと気付く。沈黙こそが私たちの人生の深みを出し、思考する時間を作り、言葉を喋らせる。
だけど、『沈黙』の時間を奪われた彼らは、思考する時間を失い、心から出る言葉を失い、人生の深みを失い、生きる理由を失った。
生きている時間を楽しむことが出来なくなり、ただ作業として生きていく。そして、灰色になって死ぬ。
こちらも併せて読んでいただけたらと思う。
きっとおなじ根本がある。