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1人称問題

みなさん、こんにちは。秋葉雄貴(通称:こっくす)です。この文章は完全に自分の話だけです。

先日の卒論ミーティングで「自己紹介」の話になり、「自己紹介はとっても悩むもの」と言う衝撃的な事実を知りました。

実は、体育会では自己紹介の定型文が決まっています。

体育会式の自己紹介

①腕を後ろで組み、第一声の前に前屈みになって大きく息を吸う

学生「東京都立〇〇高等学校出身!」(止まらずに続けて言う、「う」の発音を省略してはならない。)

周囲「名門!!!!」

②ここで「名門!!!!」を待たなければならない

学生「経営学部、経営戦略学科(がくか)1年、、秋葉 雄貴です。」(発音を省略してはならない ×けーえー 〇け

学生「身長〇〇㎝、体重〇〇kg」

学生「精一杯頑張りますのでよろしくお願いします!」(ここは少し自由)

以上が体育会式自己紹介の全文です。

姿勢や細かい息継ぎのタイミングを暗記し、声を死ぬほど出さなければなりません。(要望があれば完璧に再現します。)

この練習をひたすら行います。1年生は荒川の土手で横並びになり傾斜の下にいる先輩に聞こえるように練習しなければなりません。「失敗したらやばい」と言う圧力をかけ上下関係を叩き込みます。教えるのはもちろん2年生、3年生と4年生は時たまチェックします。2年生は「先輩たちがやれって言ってるから厳しく教えなきゃいけない」とここでも上下関係を意識させます。 厳しい世界っちゃ厳しい世界ですけど「間違えなければOK」なので楽です。「意味ねーな」と違和感を抱えつつも「俺たちはサークルじゃないんだ、“体育会“なんだ。だからしっかりやらなければならないんだ」と自分に言い聞かせていました。今、書いてるうちに気がつきましたが、「うちはサークルじゃねーんだ!」と言うのも、目の前の人が誰なのかではなく「どの組織に属している人なのか」を見る「個」は組織が作るものという意識の表れなのかも知れません。

さて、私はこの影響もあってか、自己紹介ではまず、「所属」、そして「立ち位置」に「名前を添えて」最後に「ささやかな意気込」を語るという自己紹介の型が知らず知らずのうちにできていました。それに沿って自己紹介をしていくだけなので「何を言おうか」なんて考えることはなかったのです。

ここまで体育会に染まっていた、と気づいた時は衝撃的でした。そもそも自分は、ゼミに参加してみたり、上下関係に反対したり(とんでもない反発を受けた)、「4年生」が全て決めるという伝統に抗ってみたり、「自分は染まっていない」と自称しながら生きていたので、卒論ミーティングの対話中に「行動」や「アイデンティティ」が体育会に染まっていると気がついた時は、落ち込みました。しかも、その視点で見ると、私はかなり、体育会に染まった人間であると気がつきました。

※体育会文化を否定する意図はなく、あくまで「私が体育会的な生き方を脱し、体育会染まっていないと自負して生きていた」、のに、染まっていたから衝撃的だったということです。

自分が気づいてないだけで、染まっている部分はなんだろうと考えて気がついたものの一つが今回のタイトルにもなっている「1人称問題」です。

先輩や監督、目上の人には「僕」または「私」でなければならない。というルールがあります。

上下関係を醸成するための1人称なので逆に、後輩や同期に、「僕」「私」では、強烈な違和感を感じるようになります。よって、同期や後輩には「俺」をつかわざるを得ません。

目上の人→「僕」・「私」

目上以外の人、身内→「俺」

体育会で定義された「相対的な1人称」を使っていることに気がついた時、

「自分って自分のことなんて、呼んでたっけ?」と考えるようになりました。

1人称問題、死ぬほど悩んでいるわけではないのですが、考え始めると結論が出ずにずっと考えることになります。ということで、今回は頭の外に出してみることにしました。「1人称くらい」と思うかも知れませんが、でも僕にとっては結構な気づきでした。

1人称は、“自分は誰なのか?“を決める一つの要因ではないかと思います。自分らしさの一つとして、自分の呼び方を自分で決める。私は「私」でも良いし「俺」でも良いし「僕」でも良いし「アタシ」でも良いはずです。自分の呼び方は自分で考える。今は、「組織に決められた1人称の使い分け」に染まっているけど、そうなっていることに気がついた状態で多様な人々と話をしていけば自分なりの1人称が決まってくる気がします。

「体育会」→「体育会っぽい職場」→「OBとして部に関わる」という人生を歩んでいたら、「1人称なんだっけ?」と気づきも得られなかったかも知れません。気づくと面白い。

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