移動できる人のための世界、移動できない人のための世界、それ故の格差
ビジネスをやっていく上で、その商売内容とやっている人間の人柄との直結度が高いと感じるものほど、個人的には怖いと思う事がある。コワーキングスペースは、個人的にそうありたくなかったものの、どう足掻いても商売内容と人柄との相関関係は高いものだと感じている。
そういう意味では、自分はこのコワーキングスペースというビジネスに向いていると思っていない。でも、自分と対比して、この人向いているなと感じる人ほど、コワーキングスペースをやりたがらない。そんな人が、1日だけでも数時間だけでも始めてみたいって感じてもらえるようなビジネスモデルを作って、役割はある程度には終わりかなと思っている。
向いているなという人というのは、割と人と積極的に交流していたり、その人の好きなことややりたいこと、人柄を全面的に押し出して売りにしている人で。人たらしだったり根明だったりする人で、地域の有力者(ヤンキーの虎)でもあればそういう人だなと感じている盛岡の人が何人かいるのだが、ここんとこ、その性格故のSNS上のトラブルを見受けられる。そういう様子を見ると、とても悲しいんですよね。自分でも最近さすがに頭にきた事があったから人の事を言えるわけではないんですけども、もっと冷静に自分のような人生を送りたくても送ることができない人の気持ちに立って発信ができないかなぁとは思うことはあります。SNSの公共性を意識してという意味でですが。
一方で、ここ数年、ワーケーションをよくするフリーランサーさんとか旅をしながら働いている人とかそうなんですけども、自分の人生を楽しむ・その様子をSNSで発信するのはいいんですけども、同じようなことをしたくてもできない人への配慮がなされた発信って、見ていてないんですよね。したくてもできない周りが大人として対応していることをいいことに、自分がやりたいことを思いっきりやって出来ない人に対して権力を見せつけているようにも見えるようになってきたのがあって。これは自分自身よく親からも注意されたし、注意の果てに殺されかけられる事もあった。いまだにその深い側面を意識できずに行動に移すこともあるけども(ひどいと思う場合には意識して行動することもあるが)、そういうSNS投稿を通じて、この親が伝えたかった感覚がようやっとなんとなしに分かってきたところがあります。ワーケーションという働き方の特性を見抜いた上で、向かう地域でよくわからない事も含めて楽しむ事が大事だという事を伝えていけば良いとは思うのだが、そうなると権力の見せつけのような見せ方とも表裏一体になってしまうのだろう。
SNSの特性を活かして、同じことをしている仲間だけで楽しみ合えばそれでいいという考えだとは思うのです。 でも、7年前に他の街へ移動できるかできないかで格差が生じていくのではないかと主張していた社会学者さんがいて、これすごく共感しているんですよね。主だったことは2ページ目に書いているので、そこだけ読んでもらえるとありがたいです。
この記事で述べてある内容というのが如実化してるなと感じることが多くあって、こういうトラブルもその一端なのかなとは思うんですよね。ゆくゆくはこの業界でも注意すべき事項にはなると感じてはいるのですが、今はブレーキをかけられない状態になっている感じがします。ここが正直怖いです。
これから移動しながら働く事ができる人は、仕事の関係上、移動しながら働きたくても働くことができない人に敬意や感謝の思いを持つこと・意識することが、仕事の前に大切になってくる時代になるでしょう。いや、していかないといけないです。ここがしっかりできてこないと、間違いなく世界の分断につながる。そして、先のアメリカ大統領選挙の結果分析を見るに、ほぼそうなりつつある印象があります。
この冒頭にも述べたのですが、震災を通じてすごく感じたのは、そういう地域内と地域外の人とで一緒に復興していこうとなった時に、結局相互にビジネスパートナーにしかならないコミュニティでしか成立しなかったことである。地域の有力者と協創していくという関係性でしか、復興が成し得なかったという事実がある。正解だったのかも知れないが、最適解ではなかったように思うのだ。結構地域のその溝の深さって強く感じたし、そうでしかならないとしたら、ここを効果的にしていくしかないと思っている。