
非科学的だからこそ意味がある、占い
▼音声はこちら▼
それってあなたの感想ですよね?
「科学的根拠は?」
「エビデンスはあるの?」
現代を生きる私たちは、常にこういった問いに囲まれています。
データに基づかないものは信用できない。
感情や直感は当てにならない。
客観的な事実こそが真実。
...こんな価値観が、知らず知らずのうちに私たちの中に染み付いているのではないでしょうか。でも、ちょっと立ち止まって考えてみたいと思います。人間って、本当に「理性的な判断」だけで生きているんでしょうか?
理性の限界
行動経済学者のダニエル・カーネマンという人が興味深い研究をしています。人間の思考には2つのシステムがあるという話です:
システム1:
直感的
迅速
無意識的
感情的
システム2:
論理的
慎重
意識的
分析的
私たちは普段、システム2(理性)を重視しがちです。だって、それが「賢い」判断のように思えるから。でも実は、システム1なしでは生きていけないんです。ある興味深い事例があります。
事故で頭部にケガを負った患者さんがいました。幸い命に別状はなく、論理的思考も正常でした。計算もできる、会話もできる。でも、何が困ったかというと...「決断ができなくなった」んです。何を食べたいか、どの服を着たいか、これからどうしたいか。論理的には考えられるのに、決められない。
これは、感情を司る脳の部分を損傷していたからなんです。つまり、理性だけでは「選択」すらままならない。人間にとって感情は、そのくらい重要な働きを持っているんです。
実際、私たちの日常生活を振り返ってみても...
車を買うとき。確かにスペックは比較します。燃費も調べます。価格も検討します。でも最後の決め手って、「なんとなくこっちがいいな」という感覚じゃないですか?
仕事を選ぶとき。給与、勤務条件、将来性...色々な要素を考慮します。
でも結局は「ここで働きたい」という気持ちが大事になってきます。
「事実」は本当に絶対的なもの?
理性の限界について触れましたが、もう一つ考えたい問題があります。それは「事実」とは何か、という問題です。ここで、科学史上の興味深い例を紹介させてください。
天動説をご存知ですか?地球が宇宙の中心にあって、太陽や惑星が地球の周りを回っているという考え方です。
「え?そんな非科学的な...」そう思われるかもしれません。でも、実はそう単純な話ではないんです。アリストテレスという、人類史上最高の天才の一人とも言われる人物も、天動説を支持していました。彼は決して非科学的な人ではありません。むしろ、徹底的に観察と事実を重視した人です。
なぜなら、当時の観測データと天動説は、完全に整合していたからです。事実(観測データ)に基づいて、理論が組み立てられていた。その意味では、極めて「科学的」だったんです。
後になって、コペルニクスやケプラーによって地動説が提唱されます。面白いことに、彼らは熱心なキリスト教徒でした。彼らは「神の創造した宇宙は美しいはずだ」という信念から、より単純で美しい理論を探求した。そして結果的に、その方が「正しかった」。
事実と解釈の関係
このエピソードが教えてくれるのは、同じ「事実」でも、見方によって全く異なる解釈が成り立つということ。
事実 ≠ 真実
事実 ≠ 真理
私たちが「事実」だと思っているものも、実は特定の見方(パラダイム)の中でのみ意味を持つものかもしれません。これを日常生活に当てはめてみましょう。
コップに水が半分入っている。これは「事実」です。でも、それを「半分も入っている」と見るか、「半分しか入っていない」と見るかは、解釈の問題です。
仕事で行き詰まっているとき。給与が下がった、残業が増えた...これらは「事実」かもしれません。でも、それを「人生の危機」と見るか、「次のステップのための準備期間」と見るかで、まったく異なる物語が生まれます。
現代の科学主義の問題点
今の時代、多くの悩みや問題に対して、どんなアプローチが取られているでしょう?
心理テスト
適性診断
ビッグデータによる分析
統計に基づくアドバイス
「20代後半の男性で、このような経歴の人は、統計的にこういうキャリアが向いています」こういった提案、どこか物足りなさを感じませんか?
それは、個人の具体的な感情や、その人固有の状況が捨象されてしまうから。人間を「部品」のように扱い、パターンに当てはめようとする。
これこそが、現代の科学主義の限界なのかもしれません。
占いという可能性
ここで、私は占いという可能性に注目したいと思います。占いは、その人が世界をどう解釈しているのかに注目します。その人にとっての「意味」を大切にします。
もちろん、「こうすべき!」と断言する占いは、私はあまり好きではありません。でも、象徴を通じてその人固有の物語を紡ぎ出していく。
そういう意味での占いには、大きな可能性があるように思うんです。
例えば...
「今は成長のための試練の時期かもしれません」
「これは、あなたが新しい道を選ぶためのサインかもしれません」
これは単なる解釈です。科学的な事実でも、客観的なデータでもありません。でも、この「解釈」が、時として驚くほどの力を持つんです。
世界が新しい意味を持ち始める。混沌としていた状況が、少しずつ整理されていく。新しい一歩を踏み出す勇気が湧いてくる。
最後に-バランスの重要性
誤解のないように言っておきますが、私は決して科学を否定しているわけではありません。むしろ私自身、分析的なデータは大好きです。でも、それだけでは足りない。人間は「意味」なしに生きてはいけないから。
客観的な事実も大切
主観的な解釈も大切
理性的な分析も必要
感情的な理解も必要
現代はどちらかというと、科学や理性に振り過ぎているように思います。だからこそ、占いのような、意味を紡ぎ出す技法が必要とされているのではないでしょうか。
まあ、占い師の立場でこう言うと、単なるポジショントークになっちゃいますが(笑)
でも、これは占い師になる前から考えていたことなんです。その時は全然ポジショントークでも何でもなかった。人は物語なしには生きられない。意味なしには前に進めない。
その意味を紡ぎ出す手段として、占いという古くて新しい知恵が、今まさに必要とされているように思うんです。今回はここまで!ありがとうございました。
ポッドキャストでより詳しく喋ってます!
▼聴く▼
ちなみに今回のはこれ↓の続きです