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占いを学ぶほど、人生が停滞していく理由

占星術の世界には、不思議な矛盾がある。

深く学べば学ぶほど、ホロスコープは僕たちの人生に深い示唆を与えてくれる。自分の才能を掘り当て、人との相性を示し、人生の転機も教えてくれる。トランジットは要所要所の出来事を見事に言い当て、その精度の高さに驚かされる。

僕も占星術の学習者として、そんな高揚感を幾度となく経験してきた。「これで本当の自分が分かる!」という興奮をたくさん味わってきた。

だが、ある疑問が僕の中で大きくなっていた。

2年前、ある女性に出会ったときのこと。

「占星術って本当にすごいんです!これで自分のことがよく分かるようになって...」彼女は目を輝かせながら語っていた。その高揚は僕にもよく分かる。

「ホロスコープをもっと詳しく読めるようになれば、いろいろ上手に生きられそう!!」

彼女のその言葉に、違和感は感じなかった。そう信じたくなる魅力がホロスコープにはある。

でも──。

最近、その女性と再会した。そこで聞いた悩みは、2年前とほとんど変わっていなかった。家庭のこと、仕事のこと、収入のこと。占星術の知識は確実に増えているはずなのに、日々の現実は思うように動いていない。

この出来事は、僕の中で長年くすぶっていた違和感を露にした。

考えてみれば、不思議なことだ。

占星術との向き合い方は人それぞれで、豊かな示唆を受け取って人生を広げていく人もいれば、知識を深めることはできえいるが、日常の現実は停滞している人もいる。僕自身、後者の経験がある。

占星術の学びに熱中すればするほど、解釈に囚われすぎて、目の前の「生きた現実」を見失いがちになる。これは占い好きの多くが経験する「落とし穴」だと思う。

これほど多くの示唆が得られるのに、なぜだろう。知識を深めれば深めるほど、むしろ生き生きとした表情を失っていく人が少なくない。この矛盾は、いったい何を意味しているのだろう。

錬金術師という人たち

この違和感を考える中で、意外な場所にヒントを見つけた。それは「錬金術」という古い知恵だった。占星術とは無関係に見えるけれど、そこに含まれる洞察は、僕たち占い好きが抱える矛盾を解く鍵になった。

錬金術師たちは「鉛を金に変える者たち」として一般に知られている。しかし、これは表向きの姿でしかない。

中世ヨーロッパ、キリスト教支配下の時代。自由な思想は異端として迫害され、錬金術師たちは常に命の危険と隣り合わせだった。

彼らは「奇妙な実験をする変人」を装いながら、その裏で深い探求を続けていた。だから彼らの目的な鉛を金に変えることではない。彼らが本当に求めていたのは、この世界の「本質」を理解することだった。

では、錬金術師たちは何を探求していたのか。

彼らの目的は三つあった。

まず、物事の本質──エッセンス──を見極めること。
水を例に考えてみる。水の本質は「流れ、形を変え、他のものと混ざること」。誰もが知っている当たり前の性質だ。でもその性質をよく観察することで、水の持つ深い可能性が見えてくる。

次に、その本質を引き出し、変容させること。
同じ水でも、お茶を淹れるときは熱湯に、かき氷なら氷に。その本質を活かした使い方をすることで、水は驚くほどの価値を生み出す。

そして、世界の仕組みを深く理解し、それを活用すること。
水と茶葉が出会うと、お茶という新しい価値が生まれる。これは単なる「混ぜ合わせ」ではない。それぞれの本質が響き合って、より高次の何かが生まれる瞬間と言える。

つまり、錬金術師たちがやっていたのは単なる「物質の変換」ではない。それは「本質の探究」であり、「調和の創造」だった。

錬金術師たちは、ただ物質を変化させることを目指してはいなかった。彼らが追求していたのは、「そのものが持つ本来の力を引き出し、最高の形に仕上げる」という、より崇高な技術だった。

「本質」を見極め、活かすということ

「鉛を金に変える」という錬金術の目的は、比喩だったと説明した。
繰り返しになるが、彼らが本当に追求していたのは、ありふれたものの中に隠された価値を見抜き、それを最大限に活かす方法。

では彼らが探求した「本質」とは、具体的に何を指すのだろう。

それは「あるものが、まさにそれであるための理由」のことだ。

例えば、火を考えてみる。
火の本質は「燃えて熱を生み出すこと」。それが火を火たらしめている。
水の本質は「流れ、形を変え、他のものと混ざること」。
レモンには「酸味」という本質があり、塩には「しょっぱさ」がある。

人間にも同じように本質がある。

その人の持つ情熱の方向性。物事への向き合い方。心が自然と惹かれていくもの。得意なこと、苦手なこと。喜びを感じる瞬間。自分の意思ではどうしようもならない、固有の特性がのことだ。

錬金術師たちが追求していたのは、シンプルな真理だった。
「その人が持っている本質を見つけ、それを最大限に活かすこと」。

本質を無視すれば、どんなものも力を失う

火を氷と一緒に閉じ込めれば、どちらも本来の力を発揮できない。
塩を甘いお菓子の代わりに使えば、料理は台無しになる。
風の強い場所にロウソクを置けば、炎はすぐに消えてしまう。

当然『人』にも当てはまる。

その人の本質を見誤れば、どんなに努力しても力を発揮することは難しい。
しかし本質を理解し、それに合った環境や方法を選べば、自然と力が引き出されていく。

錬金術師たちは、実験と観察を通じてこの真理に迫っていた。

彼らは様々な物質を組み合わせ、その反応を観察し、記録を重ねた。それは単なる物質実験ではない。「この物質はなぜこう反応するのか」「その本質的な性質は何か」「どんな環境で最も活性化するのか」──彼らは深い洞察を重ねながら、世界の仕組みを理解しようとしていた。

この探求の過程で彼らが見出したのは、「それぞれのものが持つ本質を理解し、その力を最高の形で引き出すこと」という知恵だった。

味噌汁はなぜ美味しいのか

日本人ならみんなが知っている『味噌汁』の美味しさにも、錬金術の要素が隠されている。

味噌汁は一つの食材だけでは成立しない。

昆布、かつお節、味噌──これらを単体で食べてみても「おいしい!」とはならない。昆布だけではぬるっとした海藻、かつお節はただの乾燥片、味噌はしょっぱすぎる。

しかし、この三つが合わさると、あの『落ち着く食卓の味』が生まれる。

これは単なる足し算ではない。
1+1+1が100になるような、錬金術的"変容の過程"だ。

それぞれの「本質」がシナジーを生み、引き立て合うことで、単体では想像もできなかった新しい価値が生まれる。

この現象こそ、錬金術師たちが追求していた真理の一つだった──「それぞれの本質を理解し、組み合わせることで、より高次の価値を生み出せる」という真理。

そしてこの原理は、人生のあらゆる場面に当てはまる。

シナジーが生まれる『関係』

人間関係でも、仕事でも、プロジェクトでも──何かを組み合わせるとき、成功の鍵を握るのは「それぞれの持ち味を活かせるかどうか」。

適切な組み合わせができたとき、驚くべき化学反応が起きる。それぞれの良さが掛け算のように増幅され、想像を超える価値が生まれる。

逆に、どんなに優れた要素でも、組み合わせを間違えれば台無しになってしまう。昆布は熱し過ぎると雑味が増え、味噌は入れすぎるとしょっぱくなってしまう。

味噌汁がそうであるように、それぞれの本質を深く理解し、その力を最大限に引き出せる組み合わせを見つけること。これは料理の秘訣に留まらない。人生を豊かにする深い知恵でもある。

あなたを味噌汁にする配置

もし昆布が「俺もかつお節のように、もっと強い香りを出したい!」と言い出したらどうだろう。主張が強くなりすぎて、本来持っていた静かな風味を失ってしまうだろう。

あるいは、味噌が「透き通ったスープがいい」と言い始めたら?きっと味噌汁のコクは失われ、薄っぺらい味になってしまう。

非常に見覚えのある光景ではないか。

「あの人みたいになりたい」

そう願えば願うほど、本来の良さは失われていく。どこかで無理が生じ、やがて行き詰まる。こういうことを僕らはよくやってしまう。

昆布とかつお節と味噌がそれぞれの持ち味を引き立て合うように、本質を活かせる「配置」を見つける視点を持ちたい。

みそ汁に砂糖を入れてみる

もう一つ、味噌汁に砂糖を入れたらどうなるだろうか。

砂糖は決して「悪い」素材ではない。多くの料理に不可欠な、素晴らしい材料。しかし味噌汁の中ではその価値がまったく活かされない。むしろ料理全体を台無しにしてしまう。

一方で同じ砂糖でも、ケーキやクッキーの中では驚くべき力を発揮する。絶対に欠かせない存在。

『僕ら』という存在も同様だ。どんなに素晴らしい才能も、それが活きる「はまりどころ」や「関係性」がある。その場所を見つけられれば、本質は自然と輝きだす。逆に、どんなに頑張っても、はまりどころが違えば力は発揮できない。

深く考えるタイプが即断即決の環境に置かれれば、慎重さは優柔不断に見えてしまう。丁寧な人がスピード重視の場にいれば、持ち味を活かせないどころか消耗してしまう。

何か人生がしっくりこないとき、自分という素材をまるごと否定してやいないだろうか。それはあなたという存在の本質が、味噌汁の配置にないだけなのに。

ホロスコープはきっかけにすぎない

では、自分の本質を知るために、僕らは何を手がかりにすればいいのか。ここで、ホロスコープの真価が見えてくる。

ホロスコープは、その人の「本質」を映す鏡だ。
性格の特徴、隠れた才能、人生の流れ、人との関係──そこには多くのヒントがある。「なるほど、自分にはこういう傾向があるのか」と気づくきっかけにもなる。

ただし、それは「確定された運命」ではない。ホロスコープを"完全に"読み解くのはこの世界を生きる我々には不可能だからだ。

占星術の知識がどれほど豊富でも、その解釈は必ず「読み手の視力」に依存する。その視力は、その人の経験や価値観、霊性、そして精神的な器の大きさで決まってくる。

自戒を込めて言うと、多くの占星術オタクはここで深刻な誤りを犯す。

「このアスペクトがあるから、私はこういう性格なんだ」
「この配置だから、こういう運命なんだ」

本に書かれた解釈をなぞり、それを自分に当てはめることで満足してしまう。でもこれは、単なる「情報の丸飲み」でしかない。 本当に大切なのは「そもそも、自分は本質を探ろうとしているのか?」という問いかけなのに。

主役は「私」であって、ホロスコープではない

「ホロスコープを読めるようになれば、人生が変わる」

この考え方自体が、すでに間違いの始まりだ。どんなに精緻なホロスコープの解釈も、「今この瞬間を生きている私」という事実よりもリアルではありえない。

しかし、多くの人がこの視点を見失っている。

「私、土星が強すぎるから、人生ずっと試練ばっかりなんだよね…」
「金星が弱いから恋愛運が悪いのは仕方ない」
「天王星が効いてるから、定職につけないのはしょうがない」


こんな風に、ホロスコープの解釈を見て終わりにしていないだろうか。本に書かれた解釈を暗記し、「このアスペクトがこうだから、私はこうなんだ」と理解して、それで満足してしまう。

その解釈を基に生きて、自分の本質に近づけた感じはあるのか。実際の人生で試してみなければ分からない。その解釈が本当にあなたの本質なのか、実験してみる価値があるんじゃないだろうか。


現実という実験場で、本質に近づいていく

ホロスコープは、人の本質を見定めるために驚くほど優れたツールだ。生まれた時の星の配置は、その人の才能や可能性と確かに結びついている。これは、数多くのケースを見てきた僕の実感でもある。

でも、現実の中で実感できる変化の方が大切ではないだろうか。実際に人生そのものがよくなることを求めて、占いを学んでるんじゃないだろうか。僕らは『わたし』を最大限生きたくてホロスコープに魅了されてるんじゃないだろうか。

僕らは占星術ソフトで出力した出生図の中を生きてるわけじゃない。現実を生きている。

だからこそ、生きている実感の中で本質を探っていくのだ。現実におけるあらゆる選択は「本質に触れているかどうか」を確かめる実験になる。

実際に環境を変えてみること。新しい関係を築いてみること。そのとき感じる充実感や不安、心地よさや違和感。体が軽くなるか重くなるか。エネルギーが湧いてくるか、消耗していくか。

こういった体験の一つ一つが、本質に近づいているかどうかを教えてくれる。

忘れないでほしい。地図を読むことと、実際に歩くことは違う。

地図を見るだけでは、その道がどんな景色なのか、どんな香りがするのか、風はどんな具合に吹くのか──そういった生きた体験は得られない。ホロスコープも同じだ。解釈を読んでいるだけでは、その可能性が本当にあなたのものなのか、確かめようがない。

実際に一歩を踏み出し、その体験の中で感じること。それこそが、あなたという存在を理解する本当のヒントになるんだ。

そして現実に向き合う中で、本質(自分にとっての味噌汁の配置)を探り続けていくと、世界中に散りばめられた「大切なヒント」がたくさん見えるようになってくる。

それは、自分を大切にするヨガの時間かもしれない。
毎朝の散歩で感じる空気の心地よさかもしれない。
大好きな人との何気ない会話かもしれない。
長年続けている趣味かもしれない。
丁寧な手料理を作る時間かもしれない。
季節の花を飾る習慣かもしれない。

ホロスコープを眺めて格闘するより、人生にある体験、感覚、感情の方が『わたしの本質』に迫ってくれることは往々にしてある。

本質に近づく道は一つじゃない。むしろ、あらゆる経験が、本質を映し出す鏡となりうる。ホロスコープはあくまでその一つなんだ。頭でっかちになってるとき、人生が停滞しているとき、そんなときは出生図なんて川に投げよう。自分を、世界を生きよう。

ただ、こんな風に考えられるようになったときこそ「初めてホロスコープの本当のすごさ」に気づく。

「ホロスコープはあくまで一つのツール」と理解しながらも、「でも、やっぱりめちゃくちゃすごいわ……」と心から感動できる瞬間が来る。この素直な感動こそ、ホロスコープと正しく向き合えている証なのかもしれない。

冒頭の問いに戻ろう。なぜ占いを学んでいるのに、人生がよくならないのか。

その答えは明確で、僕たちは「占いを学ぶこと」と「本質に近づくこと」を取り違えていた。占星術は確かに素晴らしい地図。でも地図を読むことに没頭するあまり、実際に歩いて確かめることを忘れてしまっていないだろうか。現実でしっくりこなければ、それは間違った地図の読み方をしている。

加えて、地図は世界ではない。目の前にある"ここ"こそが、世界そのものだ。

だからこそ現実の中でその叡智を試し、確認し、活かしていこう。 その姿勢こそが、『あなた』と『占い』が本質を引き出し合い、最高の味噌汁を生み出す組み合わせになると僕は思っている。


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