『はきだめのチェリー』
【1】
寂れた街の片隅に佇む古びたホテル。
壁に絡まる無数の蔦は来る者を拒むように纏わりついている。濡れたアスファルトに反射する、うだつの上がらない身体のシルエット。影からも劣等感が漂っている。
パチパチと光る誘蛾灯、経年劣化で傷んだ床。エレベーター前のエントランスで暫く立ち尽くす。傷んだアスファルトの壁を見つめながら、静かに祈る。
――この孤独から解き放って欲しいと。
頭を下げながら、一歩ずつ足を進める。堆積したホコリと鼻を突くカビの臭いに身体が萎縮する。周囲に人影は無かった。古いホテルだからかもしれないが、私の他には誰も居なそうだ。 目的の部屋に着く。数字も何も書いておらず、塗装の剥げたドアの壁が来る者を拒むように、こちらを睨む。 意を決して、中に入る。ドアを開けて周りを見渡す。
私だけのようだ。寄る辺のない感情を消化出来ないまま、埃まみれのベッドの上に腰を下ろした。
ゆっくりと眼を閉じて、これまでの自分の人生を思い返した。
何かを成すでもなく、誰かと結ばれる訳でもなく、人生の大事な時間を自らを慰めるだけに注力していた二十代。漫画やアニメ、映画を消費することが少なからずの糧になっていた。カルチャーをある種の教養として摂取して、何かを得たつもりになっていた。だがそれは、空虚な自分を埋めるだけだった。
端から見たら『肥溜め』に浸かって自分自身を満たしていたに過ぎないと思う。そんな虚無感にいつも苛まれていた。
その時間も過ぎ去り三十という年齢を迎えて、何かを変えたいと思い、訪れたのがこの場所。
ネットでバズっていた『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』という本で知った女性間風俗の存在。自身のアイデンティティは恐らく、異性愛だと自覚してるが、かと言ってこれまで男性と恋愛関係を築くことも無かった。
半分は興味本意、もう半分は、行っただけで自分の中の何かが変わるんじゃないかという漠然とした希望。蜘蛛の糸にしがみつく様に強く願いながら瞼を閉じる力を強くする。
ふと、肩口に体温を感じる。腰を下ろしていたベッドがゆっくりと軋む。気配は感じなかったのに、さっきから其処に居たように感じる。
耳に入ってくる、その声。
「ちょっと、何度も呼んだんですよ?」
足元のハイヒールが眼に入る。ゆっくりと顔を上げる、胸元から、そして顔にかけて。数秒の逡巡、声の主の輪郭をなんとか視認できた。
私が指名した女性だ。
茶に染めたショートヘアー。整った顔立ち。タレ目にキリっとした眉。化粧は控えめのナチュラルメイク。
ハッキリ言って、好きなルックスだった。
「あの、ごめんなさい。気付かなかった」
ボソボソと返事を返す。部屋の鍵を閉めたはずだが、この状況を前に考える余裕はどこかに行ってしまった。「じゃあ改めて。指名いただいたユメキです。お客さん、こういうお店初めて?」
ベッドに腰をおろし、両手を後方に置きながらリラックスした様子でこちらに話しかける。枕の質問は風俗の男性キャストと似た感じか。
「そうですね、女性間の風俗に来るのは初めてで。緊張してます」
膝上で手を重ねながらバカ丁寧に返事をする。最初の会話の出方次第で後々の対応が変わってくる。まずは安牌なカードを切って相手の出方を探る。
「そうなの? でも、お姉さん何度も通ってる感じするよ〜。ホントは初めてじゃないんでしょ?」
私はそんなにスケベな印象を与えてるのか? そう言われると無性に恥ずかしくなる。意識はしてないが、彼女を少しでも好みだと思った下心が読まれたのだろうか。
「ところで、ポケットからはみ出してるそれ、何?」
頭にクエスチョンマークが浮かぶ。ベッドから立ち上がりポケットに手を伸ばすと、仕事で使ってるボールペンが入っていた。
黒いキャップと安いプラスチックで出来た粗末なやつだ。とは言え、意外と大事に使ってる。金銭的な理由と耐久性の兼ね合いもあるが。
「何でこんなの入ってるんだっけ?」「いや、コッチが聞きたいよ。お店で仕事する気ですか? その特徴の無いタイプ、意外とお客さんっぽいかも」
何だか小バカにされてる気がするが、再びポケットに閉まってベッドに居直る。
「えっと、まず最初はシャワー浴びたりするんですか?」
「ウチはいきなりプレイに入るんじゃなくて、お客さんと距離を縮めるためにお喋りしたりお酒飲んだりするのが先なの。相手のことを知らないでいきなりエッチしたって気持ちよくないでしょ?」
手振りをまじえ、ワタシを真っ直ぐに見ながら話してくれる彼女。そのとおりだと思う。私自身も同性相手にした経験はもちろん、男性とも未経験なのだからセックス優先で身体を重ねる自信などあるはずもない。
「私もそう思ってて。いきなりこんなこと言うのも気持ち悪いんだけど、サイトを眺めてた時から貴女の、その、見た目に興味を抱いたの。うん」
うつむき気味に話す。自分のことながら本当にキモい。
「ハハハ! いや、全然気持ち悪くないよ。うん、リップサービスでも嬉しいです」
口元を抑えながら笑うユメキ。
彼女の顔を見れてはいないが、私のほうをずっと見ていたユメキの視線が私の後ろに逸れてしまったのが分かった。恐らく、客の気持ち悪い本音に引かれたと思う。
――少しの静寂。相変わらず俯いたままの私。すると手元に暖かい感覚が走る。
「まずは、手を握って緊張を解きほぐしましょうか。おねえさん、さっきから全身カチコチだからさ」
背中から頭にかけて熱くなる。同時に得も言えない心地の良さが全身を駆け巡る。人肌とはこんなにも暖かいモノだったのか。下がっていた頭が徐々に上を向く。
私の指と彼女の指が絡まっていく。じわっとした汗が頬をつたう。ベッドのシーツが見えるくらいに白く透けた肌が美しい。
「顔が赤くなってきましたね。手もじんわりしてきた。さっきより体温も上がって色々と解きほぐれてきたし、おねえさんのこと少し教えてくれない?」
「教えることもそんなに無いよ。仕事に行って家に帰ってテレビ見たり映画観たりして過ごしてるだけだし。異性と付き合ったことだって、一度も無いし。あとはまぁ、ひとりエッチとか。」
最後のは微妙に引かれそうな気がしたが、雰囲気も相まってつい口走ってしまった。
「へぇ〜。映画ってどんなの観るの?」
そっちに食い付かれたか。どうしよう。好きな映画監督とか出しても知らなかったら冷めるだけだし、公開中の話題作も観れてないし、パッと名前出ないな。
「えーと、人間ドラマとか。あとは血が流れるのなら大体好き、かな」
漠然とした答えにどんな反応が返ってくるか不安だったが、どう答えれば自分と相手の満足を天秤にかけられるか分からなかった。
「結構ざっくりしてるね。私はね『真夜中のカーボーイ』って映画が好きかな。昔、お父さんと一緒に観たんだけど、スゴい良い話でさ。ああいう男同士の友情モノにハマるきっかけだったな」
驚いた。私も好きだったからだ。彼女のことを勝手に決め付けた自分が恥ずかしくなる。
「えっ、その映画。私も……」
コクンと頭を下げる。
「うそ、ホントに? 私の周りに観た人少なかったのに! 何だかグッと距離が縮まったね」
彼女の嘘偽りの無い言葉は私の心の壁を取っ払ってくれた。
真夜中のカーボーイは所謂『アメリカンニューシネマ』の作品だ。
カウボーイに憧れる青年と足の不自由な男が六十年代のニューヨークを舞台に衝突し合いながらも絆を紡いでいく映画で、ブロマンスとしても好きだった。
何よりも、孤独な魂同士が結び付く話として大好きだった。
「そういえば、午前十時の映画祭でも上映するらしいね」
「何だったら、私と一緒に行く?」
「一緒は……ちょっと考えておくね」
いきなり会って一緒に行くのは気が引けるだろう。次の会話を思考するうちにユメキがまた話を振る。
「素朴な疑問なんだけど、異性とも同性とも付き合わない理由ってある?」 凄く答えづらい質問だ。時計の針の音が聞こえるくらい思考にふける。「いや、でも何と言うか、私は異性を性の対象に出来ないっていうか。アセクシャルとか、アロマンティック? そういうカテゴリの人種だと思うの。だから、今まで付き合ったことも一度も無いし、友達だって全然居ないんだ」
底の浅さを知識で上塗りしたかったハズが、彼女に恥ずかしい姿を露見されただけ。緊張感と切迫感に襲われる。
「でも、別にこれで良いと思ってるよ。コロナ禍で否が応でも距離を取らざる得ないご時世だし。ここに来たのは、色々と溜まってたからではあるけど……」
大量に流れる汗を誤魔化すよう、続けざまに話す。
無言の時間が流れる。少し間を置いて、ユメキが口を開いた。
「……お姉さんのこと、ちょっと分かった気がする。胸の中で色々と溜め込んできたんだね。誰かと繋がりたいと思うから悶々としてたんだよ。きっと。凄く苦しかったでしょ。そんな毎日を送るのは。でもいつか、その孤独を誰かが癒やしてくれるはずだよ。諦めないで」
重ねていた手と手にぐっと力が入る。指と指が絡まる。
――何故だろう。
あなたに何が分かるの? という気持ちにならないのは。
何でもない他者に言われたら、多分頭に入らなかったであろう。でも彼女の言葉は心の奥にスッと入ってくる。
目頭が少し熱くなる。会ったばかりで私の問題を一瞬で看破された。絡まる指に、力がこもる。
「そう、だと思う。うん……そうだよね」
自分自身にまとわり付いた見えない棘が、今日はじめて見えた。
何でもない夜だったのに、一生忘れられない夜になるかもしれない。
彼女の顔は見れなかったが、繋がる手と手は離さなかった。
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