はきだめのチェリー 14
【14】
深淵にいる時は目を開けているのか閉じているのか、その差異が全くない。
意識と無意識が混濁するような、そんな瞬間が好きだった。
薬物の力を借りずとも、トリップに近い感覚は起こせる。これでオナニーしたらメチャクチャ気持ち良いんだろうな。だが利き腕の右手がこのザマじゃあ至す気にもならない。
自慰にまみれた一人相撲で語られる三十年の年月。前回までのあらすじが数行だけで終わる。そんな私のくだらない人生。本当に無為だ。
自宅は焼き果てているのに、身体は家のほうに進んでいた。滑稽な己の行動に心底泣けてくる。
そう広くはない河川敷に辿り着いた。雑草の上をトボトボと歩きながら大きめの石を足蹴にする。
深夜の空気が鼻腔から肺に染み込んでいく。ゴミ清掃員をやっていた時はウイルスや感染症が怖くて息を殺しながら仕事してたっけ。面白くもない過去を割と充実したように回想するのはどこか優越的だ。
そんな風に空を仰ぎながら歩いていたら、無様に転んだ。
まるで童謡のおにぎりのように、コロコロと土手を転がっていく。土と石と草が身体を擦る。気付いた時には、ファーストベースに飛び込む野球選手のように身体がピンと伸びていた。
だが不思議と痛くなかった。身体を見た感じ、傷も少ない。スッと立ち上がり、反対岸を凝視した。
「……飛べるかも」
目測からして三メートルくらいか。小学生の時に陸上のはさみ跳びで代表になったことがある。その頃の感覚がジワジワと蘇ってきた。
顔に付いた泥をふき取り、川の縁に立つ。対岸までの距離を測り、後方に一歩ずつ下がる。転げ落ちた土手をゆっくりと登る。月明かりが向こう岸をスポットライトのように照らしている。足首と肩を丁寧に回し、腰に手をあてて呼吸を整える。
右足に体重を乗せる、一気に駆け出した。土手を滑走する。両腕を勢いよく振り上げて疾走する。走る、走る。左脚に全体重をかけて、一目散に飛翔――。
真っ暗な空が視界を覆った。世界から隔絶されたような、特別な快感。スゲー気持ち良い。だが浮遊するのは一瞬、身体がスローモーションのように落ちていく。ゆっくり、ゆっくりと。
尻から着水した。視界に汚水が広がる。濁った泡沫が幾つも漂う。その一つ一つが、スノードームの中で舞う美しい粒のように見えた。程よく冷たい川の水は、私の意識を拡張させた。ずっと潜っていたかったが、肺呼吸の要求には逆らえず、急いで川面に顔を上げた。
ゴキブリのように無様な体勢で足掻きながら対岸へと這い上がる。
結局飛び越えられるわけがなかった。でも反対側には渡れたんだ。そう思えた時点で私の勝ちだ。こうやって忘れたい記憶を消し去り、忘れたくない記憶を作ってる。
大好きなバンド『GEZAN』の歌を思い出した。『Absolutely Imagination』。絶対的想像力。バンドのステートメントとも言えるこの曲は、生きづらい毎日に彩りを与えてくれた。こんな時でも、摂取してきたカルチャーに救われてる。
全身をずぶ濡れにしたまま、ただただ歩いた。
汽車の現物が飾られてる公園に辿り着く頃には全身が披露困憊していた。公園のベンチに座り背もたれに身をあずける。シャツの汚れは手で擦っても全く落ちなかったので諦めた。
だが、これからどうするか、何も思い付かなかった。無軌道で無計画な行動のツケをこれから払うと思うと、さっきまでの威勢が嘘のように消え去り、途端に虚無の感情が押し寄せた。パトカーのサイレンが聞こえる度に、鼓動が速くなる。
結局、自分が引き起こした暴力に対する覚悟なんて、全然持ち合わせて居なかったのだ。どこまで行っても、情けなくて無様な人間でしかないんだ、私は……。
『note』に書いた話の続きも全く浮かばなかった。さっきまで感じていた微かな可能性も蜃気楼のように消え失せた。
身体中に霧が纏わり付く。自分が無くなる。ゆっくりと瞼を閉じた。ここに、あの人が居てくれたらと思いながら――。
「――久しぶりだね、只野さん」
重くなった眼を開いてくと、そこには見知った人が立っていた。
心の底で願っていた人、ユメキ。まるで私の密かな願望を叶えてくれたみたいに、すぐ目の前に彼女が現れた。
「ひ、久しぶり、ユメキちゃん。何やってるの、こんなとこで?」
「それはコッチの台詞だよ。容姿も雰囲気も変わってるから誰だか一瞬わからなかったし」
微笑を浮かべながら私を見下ろすユメキ。小首をかしげて思案する姿を見るだけで頬が赤らむ。居たたまれなくなった私は言い訳をした。
「まあ、前に会ってからだいぶ時間経ってるし変化はあるよね。うん」
「それにしたって変わりすぎでしょ! 殺気というかさ。私に寄らば斬る! みたいな雰囲気出てるよ。その右手に仕込みナイフでも隠してるのかって感じだよ」
背筋に悪寒が走る。触れてほしくはなかったが、ユメキの態度から悪気は感じられなかった。
「……この右手、仕事で潰しちゃったんだよね」
「あ……ゴメンなさい。何にも知らずに失礼すぎたね。その、けっこう危険だもんね、エッセンシャルワーカーの仕事って」
「まぁドジっちゃっただけだよ。それよりユメキちゃんはここで何してたの?」
ユメキが私の顔を見つめながら隣に座る。フローラルの香水が脳内に染み込んでいく。ユメキがすぅっと息を吸い込む。
「前会ったとき『ババヤガの夜』を読んでたでしょ? その流れで王谷晶さんの『完璧じゃない、わたしたち』を読み始めたんだ。その短編の中に宇都宮のアウトレットが出てくる話があって、映画ついでに行ってきたんだよ。女性二人が餃子の王将行ってるの見て私も食べたくなってさ。でもね、餃子二十個食べたらメッチャお腹痛くなっちゃったの! 観たかった映画も観れずにトイレで踏ん張ってたら時間逃した。トボトボと帰る道中で近くの道の駅でジュースを買って公園に来たら只野さんに出くわした。それで今ココ、って感じ?」
相変わらず、話がノッてくると饒舌になる。そんなユメキが可愛らしくて愛おしかった。
「そ、そうなんだ。ていうか、あの話のラスト凄いよね。人魚姫ならぬ淡水魚姫。ざっくり言って父親に虐待されてる女性と友人女性のシスターフッドみたいな話だけど、コメディでもあり、切ない友情の物語だよね」
私の感想をユメキは頷きながら聞いてくれた。
「うん、めっちゃ分かる」ユメキはおもむろに立ち上がり、「てゆーかさ、前から言いたかったけど、只野さんと私って、話メッチャ合うよね」と月のような丸くて綺麗な眼を私に向けながら言い放った。
「そう、だね」
嬉しい、ユメキにそんな風に言ってもらえて。他者と想いが重なるなんて、これまで生きてきて一度も無かったのに。彼女は私みたいな駄目な奴の考えてることに、寄り添ってくれた。
もっと前のめりで喜びを表現したかった。顔をクシャクシャにして抱き付きたかった。
ユメキが私を指差しながら話を続ける。
「でもさ、お店で出会ったときは、この人、孤独すぎんか? って印象だったよ。思わず聞いちゃったからね。覚えてる?」
「覚えてるよ。いきなり出会って割と核心を突かれたから。何と言うか、余計にユメキちゃんのこと忘れられなくなったよ」
「いや、いきなり口説くとかマジで変わったよね」
「つっ! そうじゃなくて、物事を客観的に見れるようになったんだよ。達観してるとも言えるかな。世界中が敵になっても、全然平気なくらい自信が芽生えた。そんな気分なんだ」
「そっか……。私と会わない間に色々あったんだね。誰もがポケットの中に孤独を隠し持ってる。あの頃の只野さんは、もう居ないんだね」
「なんかカッコいいこと言ってくれてるけど、そんなことないって」
「今のはブルーハーツの歌詞から引っ張ったんだよ。『未来は僕らの手の中』って知らない?」
「えっと、うん……知らない」
ここまでカルチャーの話は噛み合っていたのに、流れを止めてしまった。ユメキに距離を置かれてしまう、そんか得も言えない不安がよぎる。GEZANの歌詞もブルーハーツを引用してるのに。知識が足りない自分を殴りたくなる。
「なんか話してたら酒飲みたくなっちゃった。コンビニまで歩かない?」
小声で「うん」と相槌を打ち、少し距離を置いて歩き出す。
顔は向けないまでも、ユメキを大いに意識してしまう。勘付かれないように思考を抑えながら歩く。
サルスベリの木が群生する小高い丘に着いたころ、ユメキが私のほうを振り返った。
「ねぇ、サルスベリの花言葉って知ってる?」
「花言葉? いや、分かんないな」
「〝雄弁〟だよ。只野さんてさ、私に気があるでしょ?」
唐突な問いかけに、思考が停止した。
「えっ……どうしてそう思うの?」
胸の内を見透かされる。恥ずかしいのと同じくらい嬉しくてたまらなかった。
だが、ユメキのことを求めるこの気持ちとユメキを好きかもしれないという気持ちが同じなのか、正直わからなかった。恋愛経験ゼロの自分には、確信に至る経験が無かった。
「私の直感。ラブかライクなのかは分からないけどね」
そこはユメキにも判別されなかった。私は流れ出した汗を必死に隠しながら応えた。
「いや、私はアレだよ、前にも言ったと思うけど、アセクシャル・アロマンティック? それだと、思う……」
本で知った付き焼き刃の知識で返す。赤面する顔を見られないように、彼方を向きながら答える。
「そういうことを聞いてるんじゃないって。名前の付いた属性に自分を当てはめるのは楽かもしれないけど、それは貴方が本当に自覚してる性自認なのかな?」
一瞬で浅はかな思考が看破される。メチャクチャ居たたまれない。
思い切って話題を変えた。
「そ、そう言えば、コミティアで一緒に居た男性とはその後どうなの?」
「あぁ……」ユメキは真っ暗な空を見上げながら暫し押し黙る。「あの人とはもう距離を置いた。付き合ってた訳でも無かったし」
彼女にしては珍しく、発言に歯切れの悪さを感じた。ラブかライクの話から話題を逸らすように、私は更に質問を続けた。
「私が見た感じでは、仲睦まじそうにサークル参加してたと思うけど」
「彼自身は良い人。画力もストーリー構成も抜群に凄いし。そこに惹かれてツイッターで出会ったんだけど、何と言うか、段々と嫉妬していったんだよね。私のほうが」
「え、もしかしてユメキちゃんも同人誌作ったりしてたの?」
「一度だけね。でも散々な結果で終わっちゃった。一冊も売れなかったし。画力もストーリーも良くなかったから当然の結果だけど。神絵師と付き合ったら自分も上手くなるかもって思ってた。そんな訳ないのにね。バカだよ、私は」
まさか、ユメキも私みたいに才能ある者に対して負い目や自意識を抱えていたとは。自分の事のように胸が苦しくなる。
「そんなんだしさ、あの日のコミティアのあと口論になってお台場から一人で帰ったんだよ。しかも徒歩でさ」
「え、何で?」
「何となく。お台場はニジガクの聖地だし、巡礼しながら帰ってたら全然さみしくなかったよ」
ニジガクは『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』の略称で、アイドルアニメの人気に火を着けた記念碑的なシリーズ作品だ。
真っ直ぐに前を向きながら言い放つユメキの横顔から、得も言えぬ達成感を感じられた。
「それは、たくましいね」
「ゴールデンブリッジから見える夕焼けに自分が溶けていくような感覚は、今でも忘れられないかな」
小高い丘の変なモニュメントに座って話に耳を傾ける私と彼女も、そんな風に解け合えたら良いのに。
「でも今思い返すと、どこにも自分の居場所を見つけられない孤独な感情から眼を背けてただけだったのかも」
「うん、分かる。メッチャ分かるよ……」
完全に自分事として、彼女の話に聞き入っていた。気が付くと、涙が頬を伝っていた。バレないように、汚れた袖でそっと拭う。
その答えを聞いた時には近くのファミマに着いていた。ユメキが宝チューハイ、私が金麦を飲みながら、昇りゆく朝日の中を肩を揃えて歩いた。
夜に抱いたこの感情が消えないように何回も何回も飲み込んだ。顔を見せ始めた朝日が昇り切る前に。私は、ユメキの横を、これからも歩いていきたい。