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はきだめのチェリー 18
【18】
キンモクセイの匂いは私の心のヒビをいつも癒やしてくれた。秋になると狂ったように悶えだす孤独の焦燥を、キンモクセイの優しい香りは何度も包み込んでくれた。
だが、広場を吹き抜けるキンモクセイの香りは、今まで嗅いできた私の好きな匂いとは全く別物に感じられた。
これから待ち受ける最悪の事態。それを考えると、口に運んだコーヒーが胃から逆流しそうになる。そうならないように、喉を抑えながらぐっと飲み込んだ。
車内にただよう嫌な瘴気。
ユメキと田中は、窓の外の為政者をじっと見詰めていた。
演説用の設けられたスペースを中心に、肩に襷をかけた老人たちが街宣車の上に鎮座し、それを取り囲むように大衆が群がっている。
これが、括弧付きで機能している、この国の民主主義の縮図。
ここまで船体が傾いてしまっていながら、泥舟に乗り続けることしか出来ない私たち民衆。底無しの地獄に落ち続ける感覚に頭が狂いそうになる。
この絶望に誰か気付いて欲しい。そう願いながらシャツの裾を強く握った。
引き返せない状態になるまで自分を追い詰めたのはユメキの為でもあったが、彼女にどんな言葉をかければ最悪の状況を避けられたのか。最適の選択肢なんて、もう分からなかった。
そんなことなど気にも止めず、座席を全開に倒してふんぞり返っていた田中が、ゆっくりとエンジンを回す。
「おい……山中のまわりにSP多すぎだろ。思ってた以上に警備は堅いな、やっぱり。どう思うユメキ。出来っかな?」
「だからさ、山中の演説が終わって控室から車に乗るときに身柄をさらってウチの家の敷地の山奥まで移動して殺る。そのあと直ぐに埋める。そういうプランでしょ。でも、あの感じだと……難しいよね……」
車が揺れ動くほどの貧乏ゆすりをしながら田中が答える。
「取り巻き連中の気を逸らして誘導出来ればワンチャンあるかな?」
「これだけの警備でそんな芸当が可能なのか分からないけど、やっぱり二人だけじゃ、かなり厳しいよ」
ここに来て、腰が引けた会話をしている二人に一瞥を向ける。啖呵を切った時の威勢はどこへ消えたんだ? やる前からこんな風に考えてるようじゃ失敗するに決まってる。それでも、ユメキを一人にはしたくないし、私も一人にはなりたくない。
二人を刺激しないように、恐る恐る問いかける。
「あのさ、そう言うなら、今からでも帰らない? やっぱ無理だよ、絶対」
「いや二人じゃないよ。たった今、お前も頭数に入れたから、成功の確率はそのぶん高くなる」
相変わらずゴミみたいなことを言ってくるバカの田中、怒気と嘔気が同時に押し寄せる。
「そういう意味で言ってんじゃねえよクソ」と即答で返した。
「は? ここまで来てその言い草は無いだろ。お前、さっき言ってたよな、『ユメキを一人には出来ない』って。俺も同じ思いだよ?」
「こういうやり方以外に方法は無かったのかよ!」
我慢ならずに怒声を吐いてしまう。私を律するようにユメキが語りかける。
「あくまで手を下すのは私と田中さん、貴方はサポートしてくれればいいから。この中の誰かが傷付くのは見たくないし……」
こんな状況でも私と田中を気遣うユメキ。結局、こんな選択肢をしても彼女を追い込むだけだった。私は現状を確認するために話を振った。
「そもそも、ユメキは護身用のスタンガンと手錠しかないし、田中さんはそば包丁で特攻しようとしてる。出来る訳ないって」
「いや、コレもあるよ」
そう言うと、田中はボロい麻袋から黒い光沢のある〝何か〟を取り出し、私たちの眼前に差し出した。
「マジで……? まさか、ホンモノじゃないでしょ……」
ユメキの顔が蒼白した。それと同時に私の肌も総毛立った。いよいよ引き返せなくないくらいヤバい代物が現れた。
「ニューナンブ。そんな名前だっけ、確か。装弾数は五発。近所のお巡りさんから貰った、とだけ言っておくよ。ちょっとばかし手こずって左手の中指の爪剥がれてメッチャ痛いけど。まぁ、脅し用だけど必要になったら使うかもね」
指の爪をさすりながら拳銃のシリンダーを開け、これ見よがしに実弾をジャラジャラと見せびらかしてくる。
「田中さん、マジで使うの?」
「だから必要になったらって言ってんだろ。予備の弾なんて無いからさ、鏡を前にイメージトレーニングしてたよ。勿論あの台詞と一緒に。『You talkin' to me?』ってね」
あの台詞とは、ロバート・デ・ニーロ主演の『タクシードライバー』のことだ。あの映画も終盤に政治家に対するテロ行為の場面がある、未遂に終わるが。
シリンダーに弾丸を込め直しながら喜々として語ってるが、この状況と田中のモヒカンはシャレにならない。タクシードライバーの主人公トラヴィスも同じくモヒカンだからだ。最悪だ……本当に。
田中は強い武器を持って油断していた。アレを奪えば威勢を喪失するかもしれない。
――今ならまだ間に合う。
私はユメキにもう一度問いかける。
「もし、拳銃を使うような事態になって、山中以外の誰かを傷付けることになったら、どうするの……ユメキ?」
「そうなったら、ある程度は、覚悟してるつもりだよ」
聞きたくなかったその一言。
だが、その言葉には独り善がりな感情とは違う、悔恨に似たモノを感じた。
一方の田中は、窓の外を暫し眺めながら、拳銃のトリガーに指をかけて物憂げにふけってる。
もう限界だった。考えるよりも先に、身体が動いた。
田中に向かって両手を伸ばす。
「痛って、離せよ! 危ねえだろ。暴発したらどうすんだよ!」
田中から拳銃を奪おうと後部座席から必死に手を伸ばす。だが田中の抵抗は激しかった。私は声を振り絞って叫んだ。
「ホントは覚悟なんて無いんだろ! そうなんでしょ! だから渡してよ!」
車が上下に揺れる。サスペンションが悲鳴を挙げていた。ここで何とかしないと、取り返しの付かないことになる。そんな痛切な思いが私の身体を突き動かしていた。
田中は拳銃を天井に掲げて手を伸ばす私から引き離した。私は咄嗟に右手の義手を奴の鼻の穴に突っ込んだ。苦悶に顔を歪める田中、私はその瞬間を逃さず拳銃を奪った。だが初めて持った拳銃の重さに手が滑り、ころころと転がった挙げ句、ユメキの足元へと落ちていった。
一瞬の沈黙、ユメキは拳銃を拾い上げ、あろうことか、銃口を私の顔面に向けた。
「ちえり、落ち着いて。やる前からサツにバレるなんてヘマしたくないの。だからお願い、田中さんから離れて」
殺伐とした空間に似つかわぬほど、落ち着いた声色だった。目線はしっかりと照準口に置かれてる。すでに撃鉄も引かれてる。全身から血の気が引いていく。
ユメキは本気だった。
「わかったから……離すから。ユメキの方こそ、それ、置いて。お願い」
身体は自然とホールドアップの姿勢を取っていた。警察に銃口を突き付けられなくても、人はこの態勢になることを脳内でインストールされているのかもしれない。
ユメキは瞬きもせず私を睨んでいる。こんなに凄む表情もするんだ、可憐だと思う心と胃の腑から湧きあがる恐怖心がぐちゃぐちゃに混ざっていた。また私の知らないユメキの顔を突き付けられた。もう、全てに押し潰されそうだった。
「一旦さ、タバコ吸ってきて良い? 吸ったらすぐに戻ってくるから。逃げないよ? 絶対に。田中さんはユメキの側に居てあげて」
平身低頭しながら二人を必死に落ち着かせ、ゆっくりと車のドアを明ける。ユメキと田中は黙って私に視線を向けていた。
周囲の様子を探る。コチラを怪しむ目線は、幸い無かった。山中の支援者は、一様に青のシャツとハチマキを付けている。統一感の演出と同調圧力に寒気が走る。
彼らの姿を訝しみながらタバコを吸おうとする。しかし、百円ライターを取りこぼしてしまった。相変わらず義手は使い辛い。ころころと転がっていった先に居た青シャツの女性の足に当たった。
彼女はおもむろに振り返り、ライターと私にまるで無機物を見るような視線を浴びせてきた。声をかけようと喉に力を込めた瞬間、ライターを明後日の方向に蹴り飛ばした。
思考が止まり、唖然と立ち尽くす。そして直ぐに怒りの沸点が上っていく。
「おいアンタ、何してんだ――」そう言い終わる前に、別の青シャツの人間が眼前を横切った。
即座にライターを拾ったその女性は一目散に駆け寄ってくる。
「あの、スイマセン! 彼女がとても失礼なことをしてしまって。これ、お返しします」
即座に立ち去る女性に返す言葉も浮かばなかった。一連の流れに有無を言う間もなかった。演説が始まるらしく、二人は広場の中央へ走り去っていく。
ぶつかってきた女性にジェスチャーを使って何か注意を促してるのだけは見えた。
よく分からない感情が脳裏を駆け巡った。
ふと、頭に浮かんだのは、シンプルな答えだった。
――どんな思想や心情を持っていても、無為に刃を向けられていい訳なんてない。
誰だって弱い、誰だって儚い、優しくて、ムカつく、けど愛おしい。そんな簡単な事柄に、ようやく気付けた。
たゆたうタバコの煙は、一つの方向に迷わず進んでいた。
タバコを手の中で握り潰す。乾燥した素肌を抉るほどの熱さに顔が歪む。でも、お構いなしに強く握りしめた。火種も、フィルターも、何もかも。
もう決めたんだ。
公衆トイレに入り、怯えと後悔を便器に流す。
そして、ヒビ割れた鏡に写る自分を見つめた。
深淵のように真っ暗な眼を睨みつけ、そこにユメキの姿を探した。彼女だけではない、田中の姿も。
二人は、私だ。私は二人なんだ。観念なんだ。この話は。
情けなくて愛おしくて、どこか逞しくて、でも儚い。鏡に映ったのは、私だけじゃなかった。
一目散に公衆トイレを飛び出した。鼻腔に抜けるキンモクセイの香りは、あの時の優しい匂いに戻っていた。
私は変わる。ユメキを救い、そして田中を止める。今なら間に合うはず。
心の中で、そう強く、決意する。