シュヴァルとトレーナーが『新時代の扉』を観に行く話
「シュヴァルーっ! 次でラストにしようか!」
「ハァハァ…………は、はい……っ!」
「…………」
今日のシュヴァルは、ちょっと元気がなかった。
走り自体はいつもと変わりない、流麗でしなやかな、ステイヤーとして理想的なフォームをしている。
でも、その顔には重い雲がかかっていた。
察するに、前回のG1レースでライバルでもあるキタサンブラックに惜敗したのが原因だろう……。悔しさを押し殺しながら、トレーニングに臨んでいる。
シュヴァルは感情を表に出すことが少ない。だからこそ、ひとつひとつの仕草や行動に隠れる不安をキャッチし、ケアしてこそのトレーナーなのに。その小さな機微を掬いあげられない時点で、私はトレーナーとして二流……いや、三流だ……。
こんな私に反し、シュヴァルはトレセン学園でも一目置かれる存在だった。
彼女はこれまでも、得意とする長距離レースで素晴らしい成績を残している。特にG2やG3レースでは他の追随を許さず、抜群の脚をつかい最終直線を駆けぬけて勝利を掴んできた。
その姿はまるで……ターフを疾走する空色の閃光のようだった。
はじめて見たときから、私は心奪われてきた。思わず見惚れてしまうほど、凛々しくてカッコいいシュヴァルの走る姿……私はトレーナーとしても、女性としても惹かれていた。
それは……恋する乙女のようだった……。悶々と膨らんでくるあんな妄想やこんな妄想……。それを振り払うように、だらしなく赤面する顔をぴしゃりと叩き、薄汚れたベースボールキャップを深く被り直した。
少しでも彼女の惑いを和らげなくては……。そう思った私は、スポーツドリンクの入った水筒を持ってシュヴァルに歩み寄った。
「お疲れさま、シュヴァル。はい、これ飲んでクールダウンしてね」
「はぁはぁ……あ、ありがとうございます……」
やはり、表情は晴れなかった……。
ごくごくとスポーツドリンクを飲んでいるものの、目元には影がかかってるように見える。体調には問題は無いように見えるけど、メンタルのほうが……やっぱり心配だ……。
抜け出せないトンネルのような停滞感……それは私、『 鏑木海織 』の指導が至らないせいだ。
優秀なトレーナーから見たら、指導能力に大きな疑問符をつけられるほど、私は愚図で無能だった……。
シュヴァルのトレーナーになってから幾つもの季節を重ねてきた。なのに私は……未だに彼女の才能を開花できていない。
名ステイヤーに求められるスラリと伸びた手足、長距離を物ともしない立派なトモ、豊満な胸囲が生み出す高い心肺機能……いや、"豊満"は余計だな……。その才気あふれる体躯をそなえた彼女の能力を正しく活かすことができないままだ。
きっと一流のトレーナーの指導だったら、既にシュヴァルはキタサンブラックにも勝っていたはずだ。キタサンに勝つどころか、"偉大なウマ娘"として世界中にその名を轟かしていたことだろう。
こんなんじゃ、トレーナー失格だ……。彼女の姉妹、ヴィルシーナとヴィブロスはG1レースで結果を残しているというのに……。しかも、そのトレーナーは……私の……。
「海織トレーナー、ちょっと良いかしら?」
「あっ……ヴィルシーナ。うん、良いけど……」
鬱々とした顔で考え込んでいると、私の眼の前にシュヴァルの姉であるヴィルシーナが腕を組んで立っていた。
この優雅な佇まい、大人しいシュヴァルと違いすぎて、ちょっとだけ苦手なんだよな……。まぁ、私がシュヴァルの柔和な雰囲気に浸りすぎてるせいもあるが……。
「それで、調子はどうですか」
「えっ、ま、まぁ……ぼちぼちかな……?」
「そう。ということは、あまり調子は良くないみたいですね」
「なっ――!? な、何でそう思うの?」
私の疑問に、ヴィルシーナは肩をすくめた。
「海織トレーナーが自信のないときは、往々にしてシュヴァルの調子も悪い。これまでの経験則から言って、まず間違いないでしょう」
ヴィルシーナの強引とも言える考察に、私は思わず頰を歪めた。
「えぇ……? 私を見ればシュヴァルの調子が分かるなんて……。そ、そんな訳……ないでしょ?」
「分かりますよ。ほら見て、シュヴァルが咳き込んでる」
「ごほっ……ごほっ!」
即座に振り向くと、身体を折り曲げて咳き込むシュヴァルの姿が見えた。私は間髪を入れずに大声で叫んだ。
「シュ、シュヴァルーっ!! だ、大丈夫っ!?」
「は、はい……大丈夫、です」
そう言うと、シュヴァルは口元をごしごしと拭き、再びスポーツドリンクを飲みはじめた。
「キタサンに負けて、二人して塞ぎこんでるんじゃないかと思ったら、どうやら当たりだったみたいですね」
「…………」
まるでエスパーのように、ヴィルシーナの予想は当たった。姉妹だから成せる技か、それとも、私の不安感が本当にシュヴァルに伝染したのか。後者の場合、やはり私のトレーナーとしての資質に問題がある。
一心同体とも言えるウマ娘とトレーナーの関係。その片割れでもある私がシュヴァルの足を引っ張るような無様な状態では、勝てるレースも勝てないままだ……。
拭いがたい不安を強引に飲み込み、私はヴィルシーナに質問を投げた。
「あ、姉貴……じゃなかった、海麗トレーナーは何て言ってるの?」
「その海麗トレーナーに言われて来たんですよ。妹の貴女がしっかりとトレーナー業を果たせているか、それも併せてチェックしてきて頂戴って」
「……そ、そうなんだ」
私の姉、『 鏑木海麗 』はヴィルシーナとヴィブロスの担当トレーナーだ。
歳が三つ離れた姉の海麗は、自他ともに認める優秀なトレーナーだった。トレセン学園では知らぬ者はおらず、常に自分に厳しく、寝る間も惜しんでトレーナー業に勤しんでいた。妹である私にも指導の稚拙さをビシビシと指摘する容赦ない人物だった。私はそんな姉貴が……はっきり言って苦手だった……。
でも、トレーナーとしての実力は一流と言わざるを得なかった。担当するウマ娘をG1勝利に導くだけでも狭き関門なのに、海麗はすでに二人も育成していたからだ。
優秀な結果を残している姉の海麗に、私は隠しきれない劣等感を抱いていた――。
幼いころから、何かにつけて姉妹同士で比較されてきた。トレセン学園内で秀才として名を轟かす姉と、引っ込み思案で凡才な妹というパブリックイメージ。その差を覆そうと努力したが、ウマ娘の能力を見抜く慧眼と卓越した指導力は海麗には遠く及ばなかった……。自分なりにシュヴァルに見合ったトレーニングメニューを組んでいるつもりだったが、結果に繋がらない以上、私の指導に問題があるのは明白だ……。
この拭っても拭っても消えない不安は、シュヴァルが姉妹であるヴィルシーナとヴィブロスに向ける感情のようだった。三人で居るときに見せる物憂げな表情を、私は何度も見てきた。優雅で陽気な姉妹に板挟みにされる真ん中っ子の悲哀。彼女のすり切れた心を、好物である肉まんをご馳走することで癒した気になっていた。
でも、そんなことでは癒せるわけもなかった……。必死にトレーニングをして、絶対に負けたくないライバルの背中が小さくなっていくのが、どれだけ辛く苦しいことか……。その苦しみはウマ娘にしか分からない領域だ。それに、私なんかがシュヴァルのような素質も才覚もあるウマ娘と比較すること自体が失礼だ……。だから絶対、このことは自分の胸のうちに閉まっておくことにした。
私の役割は、あくまで彼女をレースで勝たせることだ。こんな取るに足らない自己憐憫などトレーナーには不要だ。だからこそ……強くあらねばならないという重いプレッシャーが、このガラス細工のように脆くて弱い心をすり潰してきた……。
「ちょっと、聞いてます?」
「あっ……ご、ごめん……」
小さな吐息を漏らすヴィルシーナ。遠い目をしながら、諭すように言った。
「海麗トレーナーも言ってました。二人して、いつまで経っても敗北を引きずってる。隔靴掻痒も甚だしいわ、ってね」
「かっかそーよー? えっ……それ、どういう意味?」
「じれったくて見てられないって意味ですよ」
「あ、そうなんだ……」
ヴィルシーナの視線が痛い……。そのくらいも分からないんですか――? という無言の圧。
まるでボディブローのように撃ち込まれる見えないプレッシャーに、私の心はズタボロになる。僅かに残った自信と自尊心が、真っ黒い渦に飲み込まれていく。喉元まで込み上げる「もう放っといて……!」という言葉を吐き出さないようにするだ、今の私には精一杯だった……。
「私だって、シュヴァルの調子が悪いままだと気が気じゃないんです。可愛い妹が、顔を俯いたままでいるのは気持ちが良いものではないですから」
「それは……私も同じ気持ちだよ……」
「私と貴女とでは意味合いが違いますよ。現状を打破するために何が必要なのか、トレーナーとして適切に見極めてください。少なくとも……海麗トレーナーなら私とヴィブロスの特性に見合った合理的で論理的なトレーニングメニューを即座に立案しますよ」
「うぅ……(言い返したいけど、事実だから反論できない……)。」
ヴィルシーナの背後に、姉貴の幻影が見える……。それくらい、彼女とのやり取りは私の自信と自尊心を切り崩す……。もう……限界かも……。
「ちょっと、姉さん。卜、トレーナーさんに何の用?」
「あ、シュヴァル……」
振り向くと、水筒を抱えたシュヴァルが怪訝な表情で立っていた。ヴィルシーナの眼の前に立つ姿は、まるで私を守ってくれてるように思えた。
「別に、お灸を据えるようなことは言ってないわ」
「ぼ、僕のトレーナーさんに…………つ、強く当たらないでよ」
声を震わせながら、言葉を紡ぐシュヴァル。
『僕の』という、まるでお姫様を守る王子さまのような言葉に、胸がドキッとする……。でも今は、行き違いを正すほうが先だ。彼女を律するように私は手を伸ばした。
「ちょ、ちょっとシュヴァル……。ヴィルシーナはそんなこと言ってないからさ。だから……安心して」
「だ、だって……さっき聞こえたんです。姉さんがトレーナーさんに……い、いやなことを言ってるのが……」
「ち、ちがうよっ! あれは、私に対するアドバイスっていうか……その、なんというか……」
不毛なやり取りをする私たちを横目に、ヴィルシーナはわざとらしく咳払いをした。
「ごほん。まったく、共依存もここまで来ると重症ね……。はい、これ」
ヴィルシーナの差し出した右手には、二枚のチケットが握られていた。それを見ながら、シュヴァルは目をきょとんとさせた。
「え、何……これ」
「映画のチケットよ。ペア券の」
「……な、何で? 僕とトレーナーさんで、一緒に観に行けってこと?」
「シュヴァル。あまり根詰めすぎてばかりなのも駄目よ。この映画、先輩のウマ娘も出演してるし、評判も良いらしいの。たまには娯楽作品に触れるのも、心身のリフレッシュに繋がるはずよ」
シュヴァルの肩に触れながら、優しく諭すヴィルシーナ。妹想いの彼女に私は、嫉妬と羨望、二つの感情が流れた――。
本来ならシュヴァルを導くべきは私であるはずなのに、何も出来ないでいる自分への嫌悪感。そして、シュヴァルの惑いに悠然と救いの手を差し伸べるヴィルシーナの優しさに……。
胸の奥が、かっと熱くなる。
何を指をくわえて突っ立っている……シュヴァルのトレーナーは私だ。この助け舟のような状況を瞬時に活かせてこそ、彼女を導くに相応しいトレーナーではないのか。迷ってる時間は……一秒もない。
すると、ヴィルシーナの視線がこちらに注がれた。それは、保護者が我が子に対して何かを促すような目配せのようだった。「はやくシュヴァルに話しかけて」と背中を押された私は、固まる脚を拳でガツンと叩き、シュヴァルの前に踏み出した。
「シュヴァル……! ど、どうかな? 映画とか、興味あったりする?」
「えっと……僕、映画は家でしか観たことないです」
「そ、そうなのっ!? そっか……うん。じゃあ、せっかくだしさ……二人で行ってみない? きっと、楽しいよ」
おそるおそる、私は言葉を紡ぐように訊いた。
左右に視線を泳がせたシュヴァルは、一瞬の思案のあと、不安に曇る私の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「は、はい……! トレーナーさんと、一緒なら……僕も行きたいです」
「そ、そっか。よ、良かったぁ……!」
ほっと胸を撫でおろした。もしも断られたら、シュヴァルと顔を合わせられないくらいに落ち込んだかもしれない。
話が良い方向に進んだのはヴィルシーナと海麗のお陰だ。私はヴィルシーナに軽く会釈をして感謝の意を示した。彼女は微笑を浮かべながら、小さく頷いてみせた。
シュヴァルはチケットを受け取り、嬉しそうに顔をほころばせた。目元にかかっていた暗雲を晴らす、屈託のない純粋な笑み……。
その表情に、私の心はとくんと揺れた――。
しばらく見れていなかった喜ぶ彼女の姿。もっと見たい……もっと見せて欲しい……私が好きなシュヴァルを、もっと欲しかった。トレーナーとして、一人の女性として、強くて凛々しいシュヴァルのことを……。
「トレーナーさん…………か、顔が真っ赤ですよ?」
呆けた顔のまま妄想に浸ってると、シュヴァルが上目遣いで顔を覗きこんできた。
「うわぁッ!!? ご、ごめんッ! べ、べ、別にヘンなこと考えてた訳じゃないよ! ほ、ホントに!」
頭から湯気が出るほどの勢いで狼狽える。私の醜態を気にすることなく、シュヴァルは口元に微笑を浮かべていた。
「ふふ。トレーナーさん、明日が楽しみですね」
「シュヴァル……。うん、そうだね……」
もう、胸がいっぱいだった。
引っ込み思案で上擦った声も可愛いが、落ち着いた声色も堪らなくカッコいい……。
この相反する要素が入り混じる彼女の魅力。それに心奪われてしまったら、もう虜だ……。
……って、こんな推しに夢見るオタクのようじゃ駄目だ。今は優しい姉二人がくれたチャンスを活かすときだ。
本番の明日にむけて、私は大人しくベッドに入った。
〜〜〜翌日〜〜〜
トレセン学園から数キロ圏内にあるアウトレット。
私とシュヴァルは、その一角にある映画館の前に居た。
前日の天気予報は晴れときどき曇りだった。
しかし予報はおおいに外れ、雨音が響くほどの本降りになっていた。
私は肩についた雨水をはらい、滔々と降りつづく空を苦々しい顔で一瞥した。
「すごい雨だね……」
「はい。傘をさしてても、身体が濡れちゃいましたね……」
服の袖をぱんぱんと叩いて雨をはらうシュヴァルの横顔。
儚げで憂いを帯びたその表情は、ずっと見ていたくなるほどだった。写真を撮って額縁に飾りたいと思ったが、そんなことしようものなら、恥じらうシュヴァルに火に油を注ぐだけだ。止めておこう……。
彼女のファッションは、いつもと雰囲気が違っていた。
勝負服や制服、トレセンジャージのシュヴァルも好き。でも今日の服装もすこぶる可愛い。私は彼女のことを、頭から足先まで舐めるように吟味した――。
トレードマークのマリンキャップは白地のベースボールキャップに変わっていた。どんな帽子でも、やはり可愛いシュヴァルには似合う。インナー代わりの水色のパーカーと純白のカーディガンが瑞々しさを演出し、紺のホットパンツと肌をしっかりと隠す黒のタイツがスポーティな雰囲気を醸し出している。足元のランニングシューズの側面には、可愛いマンボウのイラストがあしらわれていた。カジュアルでありながらアーバン、シュヴァルの魅力を引き出す配色、文句の付けようのない……百点満点のコーディネートだ。
「卜、トレーナーさん……。ちょ、ちょっと、見つめ過ぎです…………」
「わぁっ!? ご、ごめんっ!! その……べつに他意はないからねっ!」
あまりに可愛いかったので、穴が開くほど凝視していたようだ……。まじまじと見つめられたシュヴァルの頬は、ほんのりと赤く染まっている。これじゃ……怪しい人とやってることが変わらないじゃないか……。
あたふたする私を気にすることなく、身体をもじもじさせながらシュヴァルが尋ねる。
「へ、ヘンでしたか…………? 今日の服装」
「いや、いやいやいや、そんなことないよ! 今日のシュヴァル……えっと……その、とっても可愛いよ……」
顔が爆発したかと思うほど、私の頬は真っ赤に上気した。普通の人間であれば、このくらいの褒め言葉を言うのも容易いはずだが、引っ込み思案の私には至難の業だ……。
「あ、ありがとうございます……っ! ぼ、僕もトレーナーさんの、ベースボールキャップから出てるポニーテールが…………。す、す、好きです……」
「(ぐふぉ……っ!!?)」
まるで豪速球のようにハートを貫く甘いひと言……。
あまりの尊さに、私の心はとろりと溶解した。幸せのピンク色した血反吐が口元をつうと流れる。胸をぎゅっと掴み、ハァハァとした息使いを必死にととのえ平静を装う。
私はファッションに疎いという理由から、常にベースボールキャップにポニーテールというスタイルで過ごしていた。単に出不精なだけで、姉のお下がりを与えられるがまま身に付けていた。だが……まさかシュヴァルに好きと言ってもらえるとは、予想だにしてなかった……。
「あ、あ……ありがとうシュヴァル。褒めてもらえると、な、なんか背中が痒くなっちゃうね……」
「えっ――!? 卜、トレーナーさん。それ、ヘンな病気じゃないですよね!」
その瞬間――シュヴァルの心配そうな顔が、急接近してくる。吐息が迫るほどの至近距離、視界を覆う抜群のビジュアル、その事実に……小さな心臓が激しいビートを刻んだ。
「(も、も、もうたまらん……っ!!)」
このまま気を失って、シュヴァルに抱きつきたいと卑しい妄想が頭をよぎったが、残った良心をなんとか動かして己を律した。
「だ、大丈夫っ!! こ、このくらいの痒みは、掻きむしれば治まるからさ! ハハハ……」
「トレーナーさん、無理はしないでくださいね……」
「う、うん。ありがとね、シュヴァル……」
これ以上は心臓がもたない……。
映画館に入る前に絶頂を迎えないように、私は先陣を切って館内に入った。
館内は人がまばらだった。
そんなに混んでない映画館を選んで良かった。ポップコーンの香りが鼻腔をくすぐる。映画を観ながら食べることは少なかったが、この匂いを嗅ぐだけで自然と気持ちが昂るのも事実だ。
「はじめて来ると、ちょっと緊張するよね」
「はい。でも、ポップコーンの良い匂いがするんで、なんだかお腹が空いてきます」
「この匂いは映画館ならではだよね」
「トレーナーさんは、結構来るんですか?」
「そうだね。週一くらいで来てるかな」
「やっぱり、家で観るよりも迫力があるんですか?」
「うん。でかいスクリーンとでかいスピーカーで鑑賞することで没入感が格段に上がるんだ。だから映画を観るのがベストなのは、やっぱり映画館だね」
「スゴい…………トレーナーさんの言ってること、なんだか説得力があります」
「そ、そうかな……ははは。そう言われると、ちょっと照れるね」
あまりトレーナーらしいことを出来ていないせいか、シュヴァルからの羨望の眼差しは、ボロ雑巾のようにくたびれた自尊心をピカピカに漂白してくれた。
ちらちらと周囲を見渡すと、トレセン学園の生徒の姿が見受けられた。
「トレセン学園の生徒もけっこう居ますね」
「やっぱりウマ娘たちが出演してるだけあって、学園でも話題になってるんだろうね」
「あのジャングルポケットさんが主役なんですよね。す、凄い…………」
「だね。アグネスタキオンやマンハッタンカフェ、ダンツフレームも出るみたい」
「同世代の先輩たちが一斉に走る姿。今から楽しみだなぁ…………」
ワクワクするシュヴァルの横顔を見てるだけで、私は幸せな気持ちになる……。姉貴とヴィルシーナに感謝しなくては……。貰ったチャンスを絶対に活かして、シュヴァルに目いっぱい楽しんでもらえる努力するんだ。
私は勇み足のまま、劇場のフロントでチケットを交換した。シュヴァルを座席にエスコートして、開幕の時刻を待った。
そわそわとするシュヴァルを横目にしながら、私は改めてこの状況について思考を巡らせた。
「そう言えばさ、二人で出かけるのってはじめてだっけ?」
「はい。よくよく考えたら……トレーナーさんとお出かけするのは、はじめてでした」
ふと、姉の海麗はヴィルシーナたちと出かけてるか気になってしまい、不毛だと思いつつもシュヴァルに質問を投げた。
「気になったんだけど……ヴィルシーナやヴィブロスは、私の姉貴と出かけたりしてるの?」
「えっと……そういうのは聞かないですね。ヴィブロスなんかは、トレーナーさんのお姉さんを遊びに誘ってもジムやレース場に連れていかれるってボヤいてましたね……」
「あ〜、姉貴はそういうところあるから……。常にレースのことばかり考えてるの。家でも、トレセン学園でも。まぁトレーナーとしてはそれが正解なんだろうけど。平凡な私なんかじゃ、絶対に真似できないなぁ……」
言い終えた瞬間、「……しまった」と小さく口走った。またも負のオーラを発してしまい、二人の楽しい時間に水を差してしまった……。
私はおそるおそる、シュヴァルの顔を覗きこんだ。
「トレーナーさん…………。今日は僕と二人っきりなんですから……。い、いやなことを忘れて一緒に……た、楽しみましょう……っ!」
「シュヴァル……」
言葉に詰まりながらも、私の目を真っ直ぐに見つめるシュヴァル。その気持ちに、私の胸は嬉しさで一杯になった。
「うん…………ありがとう。私、シュヴァルのトレーナーとして……恥ずかしくないように頑張るよ」
「トレーナーさん…………」
私の大切なパートナーは、優しい微笑を浮かべていた。それに釣られて、不安に引きつる私の顔もほころんだ。
この幸せな時間が続けば良い――そう願った。
「あ、電気が落ちた。もうすぐ、映画がはじまるってことですか?」
照明が少しずつ落ちていき、館内は瞬く間に暗闇に包まれた。どうやら上映時間が来たようだ。
「うん、照明を落として予告が終わったら映画が始まるよ」
館内の照明が落ち、暗闇が私たちを包んだ。
「わぁ……真っ暗ですね。緊張とワクワクが同時に来て……なんだか、不思議な感じがします……」
「その気持ち、すっごい分かるよ……! ふふ、楽しみだね、シュヴァル」
「はい……!」
スクリーンの灯りに照らされたシュヴァルの横顔は、はじめて観る光景に心躍らせる子どもみたいにキラキラしていた。額縁にして飾れないのが本当に残念なくらい、とっても可愛い……。私は気付かれないようシュヴァルをじっと見つめながら、その姿を網膜に刻み込んだ。
そして――映画の幕は落とされた。
〜〜〜終映後〜〜〜
「トレーナーさん。僕…………とっても面白かったです!」
「うん! 私もすっごく面白かった! ポッケ、かっこ良かったな〜!」
「はい! ポッケさんとタキオンさんのライバル関係、目が離せませんでした」
「わかる! タキオンとダービーで決着を付けられなかったポッケの咆哮は、なんというか……切なかったね……。ていうか、オペラオーの世紀末覇王感もヤバかったね!」
「わかりますっ! もしも同じレースに出ていたらって考えたら、なんだか身震いしちゃいました…………」
「あの絶望感はコッチにも伝わるよね…………。そのオペラオーに勝ったんだから、ポッケは本当に凄い……!」
「ポッケさんの叫びは、身体がビリビリ震えるくらい凄かったです……っ!」
私たちは劇場の片隅で語り合っていた。
熱くてエモいウマ娘とトレーナーの物語は、シュヴァルと私の心に深く刺さった。
面白いと聞いて期待はしていたけど、まさかここまで感情を大きく揺さぶられるとは思わなかった。私もシュヴァルも、堰を切ったように感想が溢れ出していた。
「でも……特に良かったのは、フジキセキさんとナベさんの関係です……」
「……シュヴァル…………」
思わず、胸がきゅっと切なくなった。
ジャングルポケットが憧れたフジキセキ、そして彼女のトレーナーであるナベさんのエピソードは、私たちが置かれた境遇に近いものを感じさせた。
「怪我のせいで、フジキセキさんがナベさんにダービーを勝たせてあげられなかったことが……今の僕に……ものすごく刺さったんです…………」
あの場面は、私もじんと来ていた――。
フジキセキの想いを知ったナベさんの惑いと喜びの混じった表情、間違いなく名シーンのひとつだ。勢いにまかせて感想を言おうとしたが、シュヴァルの想いは止まることなく続いた。
「……あのシーンを観てたら、胸の奥が苦しくて……切なくなったんです…………。僕はトレーナーさんに、見たことのない景色を魅せられるのかなって……」
ゆっくりと、咀嚼できない感情を吐き出すように語るシュヴァル。
今にも泣き出しそうな横顔。私は優しく掬いあげるように語りかけた。
「……シュヴァルは……これからどうしたい?」
「僕……諦めたくないんです。"偉大なウマ娘"になるって夢を……トレーナーさんと一緒に、叶えたい…………」
彼女の想いが、私の心に熱い風を呼んだ。
"偉大なウマ娘"というシュヴァルの願い。私も……一緒に叶えたかった…………。
「シュヴァル…………ありがとう。私は、貴方と一緒にG1を勝ちたい……。私たちの夢は…………まだ始まったばかりだよ!!」
気が付くと、私はシュヴァルの手を掴んでいた。両方の手でぎゅっと包みこむように……彼女の手を握っていた。
「あ……」と言葉が一瞬よぎったが、その手を放すことはなかった。繋がる想いを、絶対に放したくなかったから。
「トレーナーさん…………。はい……! 勝ちましょう、絶対にっ!!」
掌から感じるシュヴァルの熱情。思わず、眼の奥がじんと熱くなった…………。
私たちの物語は……まだまだこれからだ。ウジウジしてる暇はない、トレーナーとして、シュヴァルを"偉大なウマ娘"にするんだ……絶対に……っ!!
そう、強く決意を新たにした――。
二人で肩を並べて帰ろうとしたとき――背後から弾むような足音が近付いてきた。
かつかつと軽快なリズムを刻む足音。その音がするほうに、シュヴァルはゆっくりと振り向いた。
「あー! シュヴァルちゃんだ! おーい!」
「あ、キタさん……」
キタサンブラックだ――。
シュヴァルより背丈のある身体を元気よく跳ねさせながら、抱きつくように彼女の肩に触れていた。
先日、G1レースで勝利したことを全く意識させない距離の取り方は、彼女らしいスキンシップだなと思った。ちょっと迷惑そうに見えるけど、シュヴァルの顔に暗い影はなかった。一安心した私は、そっと後ろに下がり、二人の様子を遠巻きに見守った。
キタサンの背後には、見覚えのある人の姿があった。サイドを刈り上げ、後ろ髪を結った独特のヘアスタイル、黄色いワイシャツに黒のベスト、チーム・スピカのトレーナーさんだ。
「おっ、海織トレーナー。こんなところで会うとは、奇遇だな」
「お、沖野トレーナー……」
思わぬ遭遇に、私はシュヴァルと同じ反応をしていた。
「ジャングルポケットさんたちが出る映画を観に来たんだけど、まさかシュヴァルちゃんたちに会えるとは思わなかったですね、トレーナーさん!」
「あぁ。まさか、この二人も一緒に来ていたとはな。まぁトレセン学園でも話題になってるしな」
よりによって、この二人に出会うとは……。
シュヴァルがキタサンとちょっと気まずいのは分かるけど、私も沖野トレーナーとは……できれば会いたくなかった。チーム・スピカを導く優秀なトレーナー。彼と面と向かって話すことは特にないし、というか……そもそも男性はちょっと苦手だ……。
沖野トレーナーから離れ、私はシュヴァルたちの心配をした。突然のライバル襲来に萎縮するシュヴァルと、距離感を全くわかっていないキタサン。まぁ……いつもトレセン学園で見る光景ではあった。
しかし、シュヴァルのほうは様子が違った。キタサンに触れられて小刻みに震えていた身体は、気が付くとぴたりと止んでいた。
その瞬間――シュヴァルとキタサンの間に流れる空気が揺らいだ。まるで、剣豪同士の決闘のような並々ならない緊張感……。
そして……意を決したように、シュヴァルは背筋をぴんと伸ばし、悠然と口を開いた。
「キタさん……。次のレース、絶対に、僕が勝つよ……!」
迷いのない真っ直ぐの想い。シュヴァルの放った言葉が、二人の間の柔らかい空気をビリビリと刺激する。
にっこりとしていたキタサンの顔が一転、真剣な表情に変わった。まるでレース直前のように、彼女の瞳は眼の前のライバルをしっかりと見据えていた。
「うん! 私だって絶対に負けないよ!」
ライバル同士が互いの主張をぶつけ合う姿は、見ている私まで胸が熱くなった。
「なんだか熱いな二人とも。なぁ、海織トレーナー」
軽口のような沖野トレーナーの口調に、私は思わずムッとした。
もう……他人事ではない、自分事なのだ。私とシュヴァルは一心同体だ。シュヴァルがキタサンに想いをぶつけてる。私だって、何か言わないと……。今こそ、決意を新たにするときだ。
「沖野さん……。私は、シュヴァルをG1で勝たせたい……いや、勝たせます。絶対にっ! だから、その……よ、よろしくお願いしますっ!」
「へ……? あぁ、うん。わかった」
鳩が豆鉄砲を食らったようなリアクションだった。沖野トレーナーは頭をぽりぽりと掻いている。真意が伝わらなかったようだが、この宣戦布告が……今の私の精一杯だ。
でもシュヴァルのトレーナーとして、大きな自信に繋がったことは確かだ。
私たちは、勝者が花道を歩くように映画館の入口にむかった。
うしろでキタサンが手を振っていたが、シュヴァルは一瞥をし、決意に満ちた表情を返していた。
映画館を出ると、雨で黒ずんだ空が嘘のように晴れわたっていた。
まるで私たちを祝福するように、満点の青い空が広がっていた。
「トレーナーさん。僕、トレセン学園まで走って帰ります!」
「シュヴァル……。うん、私も付き合うよ!」
私はベースボールキャップを逆さに被り直し、気合いを入れた。
映画館に来る前は、私の陰鬱な心情を映したみたいに薄汚れていたキャップ。でも、今となっては、それさえも逞しく思えた。
「行こうか、シュヴァル……!」
「はい……! トレーナーさん!」
もう、迷わない。どれだけ高い壁にぶつかっても、どれだけ強いライバルが立ち塞がっても、私はシュヴァルと走り続ける。心を覆う黒い霧はもう、この澄みわたる空のように、完全に晴れわたっていた。
"偉大なウマ娘"と肩を並べられる、唯一無二のトレーナーとして、もっと頑張るぞ……っ!!
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