若松英輔さんの随想「言葉を練磨する」を読んで考えたこと

先日、新宿の紀伊國屋本店で、初めて若松英輔さんの著書を購入した。購入したのは、日経新聞で話題となった連載「言葉のちから」を一冊にまとめた『探していたのはどこにでもある小さな一つの言葉だった』という随想集。特に、目次にあった「言葉を練磨する」というタイトルに強く心惹かれ、まずその章を開いた。

読後感

なるほど、私が探していたのは若松英輔さんの言葉だったか。短い随想だったが、一文一文が、まるで生命を支える水や光のように、私の中にじわじわと染み渡っていくのを感じた。

著者の紡ぐ言葉は、単なる意味を超え、著者自身長い間をかけて言葉と向き合い、築き上げてきた深い関係性を感じさせる。そして、言葉の本質とはなにかを伝えようとする祈りにも似たエネルギーが、私の心にまっすぐに届いてきた。

読み物としての美しさは言うまでもないが、その語彙の豊かさや単語の選び方といった表面的な尺度では測り切れない、もっと深いレベルで、真実そのものに触れているような感覚を覚えた。まさに私の心の琴線に触れる、素晴らしい随想だった。

「言葉を練磨する」を読みながら考えた、翻訳という仕事とその練磨について

翻訳とは言葉を扱う仕事である。そして翻訳力の向上は、言葉を練磨することと直結している。私が5年ほどの翻訳経験を通じて気づいたのは、翻訳力を高めるには、まず言葉に対する思い込みを取り除くことが必要だということだ。

翻訳という行為は自分本位であってはならない。とはいえ、人間はそもそも主観的にしか物事を捉えられない。それでも翻訳者には、「客観的に」原文を読み取り、「客観的に」別の言語へと置き換えることが求められる。そんなの無理ゲーでは?という議論はさておき、言葉に対する強い主観、すなわち思い込みが強い人ほど、独りよがりで誠実さに欠ける翻訳をしてしまうのではないかと感じている。

言葉は、物事の見方や捉え方と深く関係している。そのため、言葉に対する思い込みを削ぎ落とすことは、(多少飛躍しているかもしれないが)自分本位な物事の捉え方を手放すこと、さらにはエゴ(自我)を削ぎ落とすことにつながるのではないかと私は考える。

以前、翻訳業界で有名な方が「仕事は人格なり」とツイートされていたが、私はこの言葉に深く共感した。翻訳という道は、まさにエゴを削ぎ落とす道だ(もしツイートの意図を誤解していたら申し訳ありません)。だからこそ、翻訳は辛く苦しいものでもあるが、成長を感じたときの喜びは、それだけ大きい。

言葉を練磨することで、練磨されるものとは

著者は随想の中でこう述べている。「練磨という言葉がある。文字通り、練り、磨くことだが、百戦錬磨というように練り、磨かれるのは、具体的な事物ではなく、私たちの心であり、さらにその奥にある、心理学者の河合隼雄の表現を借りれば『たましい』と呼ぶべきものである」

この一文を読んだとき、私は深い感動を覚えた。これまで、言葉を練磨することで究極的に磨かれるものは「エゴ」だと考えており、その捉え方には多分にネガティブな意味が含まれていた。しかし、著者は「私たちの心、さらにその奥にある『たましい』」と言い切っている。この文章との出会いにより、私は「言葉を練磨する」ことの意義をポジティブに捉え直すことができた。この気づきによって、ようやく私は、言葉との関係においてスタートラインに立てたのではないかと感じている。これから、仕事や日々のあらゆる営みを通じて、言葉との関係をより繊細に、そして深く育んでいきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?