「謝罪」することに慣れているのか、それとも「謝罪」することを

僕らは求めてしまう習性なのか? 

コロナウイルスに感染した有名人、芸能人が「謝罪」をすることに疑問がある。 正直言うと「必要性」があるのかどうかが非常に疑問であり、これを新聞やテレビで報道することが、より「謝罪」を求めてしまう温床になっていないのかと個人的に思う。

関係者やご家族への感染の可能性があるため、感染経路の確認のため公表することは必要である。

しかし、「謝罪」は必要なのか?

誰もがかかる非常に怖いウイルスであることは報道を見る限り、理解しているつもりである。注意を払っていても感染が起こりうるため、ひとりひとりの感染への意識と行動が重要であるのは 散々、さまざまな媒体で注意喚起が行われており理解している。

しかし、それでも「謝罪」を求めている?もしくは感染者は「謝罪」をしてしまうのか? 

関係者や家族に対し「謝罪」をするのは理解できる。

感染者が著名人や有名人であればあるほど、関係する人や範囲が広範囲と広がるため各方面への「注意」および「検査」のお願いをするのは最低限やるべきことだろう。

しかし、「謝罪」をする必要があるのだろうか?

勿論、最低限の予防措置を個人が取っていなかった場合なら多大な迷惑をかけたという「謝罪」をすることは理解できる。 

「誰」に対して「どの程度」の情報を提供するかが「言葉を伝える」というのであれば、テレビや新聞で報道される「謝罪」という文字や音声は「誰」に向けてで「どの程度」の情報なのか、僕みたいな情報を受け取る側としては非常にわかりづらい。

携わった関係者やそのご家族に対して「謝罪」するなら

その人達にだけ「謝罪」し、そのほかの方には「公表」するだけで良いはず。 

「罪を謝る」のを「謝罪」というなら、普段行っているのは「謝るという罪」ではないかと思う。

誰に対してなどの方向性もはっきりとしないまま「謝る」がために、他の様々な方が連鎖的に「謝ざるを得なくなる」風潮がある。

これにより、世論や大衆が「謝らないのは反省していない証拠」という方向へと判断基準を動かしてしまう。

この「罪」はなくならないやろうなあ。


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