「失われた時を求めて」と「プルーストを読む生活」を読む 122
失われた時を求めて
13巻、538ページまで。ゲルマント大公邸の前で、シャルリュス男爵に会う。病み上がりで弱っており、白髪染めもしていない。身動きとるのもジュピアンが手助けをしている。しかし依然として頭は冴えているようだ。この小説に出てくる人は、年老いて病気の人ばかりになってきたな。
ジュピアンはシャルリュス氏出資のもとで自身が管理している男娼の娼館を「破廉恥の殿堂」と呼んでいる。おもしろすぎる。
このあたりの記述で、終戦から何年も経っていることが示されていた。404ページにも既に示されていたようだ。完全に読み飛ばしていた。破廉恥の殿堂に迷い込んだあたりは、まだ戦中であっていた。主人公が療養所から退院してパリに戻り、ゲルマント大公のサロンに出席するのは1925年頃だと、注釈では想定している。第一次世界大戦の終戦が1918年で、そこから7年ほど経っていることになる。この頃の主人公は30代にあたるだろうか。
感性が枯渇し、もう作家になることをあきらめかけていた主人公は、ここで天啓を受ける。ゲルマント大公邸の中庭で転びそうになり、敷石に足を乗せたそのとき、幼き日にコンブレーでマドレーヌを紅茶に浸して食べたときと同様の幸福感を覚える。これは何か、感覚からインスピレーションを受けたというのか。マドレーヌのくだりと同様の天啓を、主人公はこれまでにも何度か経験している。
それはかつて、若き日のスワンが取り憑かれたように聞いた、ヴァントゥイユのソナタと同じだと言う。不揃いなタイル、ナプキンの硬さ、マドレーヌの味覚。主人公は幸福感に浸ると同時に、自信が湧き起こる。この天啓の正体をつかもうとする。このあたりから、「失われた時」の真髄に迫る。
かなりページを割いて、丁寧に説明してくれる。僕はそこに仏教における悟りや、エヴァの人類補完計画のようなものを感じた。鐘の音をきくことで悟りを開く、それに似ている。過去と現在、未来といった時間、今いるこの場所とヴェネツィアやバルベック、コンブレーといった空間、今ここにいる自分と、かつてそこにいた自分、それらが全て同一であることを実感し、心の安寧が得られる。13巻にして、もう「失われた時を求めて」の集大成ではないか。
その感覚を引き出してくれるものは、自然の景色だったり音だったり人工物だったりする。主人公は、幼い頃から内側で感じていた芸術の本分を、大人になった今、言葉でまとめている。
ようやく主人公が書き始めることが示唆されている。14巻はやっと、そういう話になるのだろうか?これまで書かなかった作家が、ついに…?というわけで13巻をやっと読み終えた。この最後のあたりは、ガラリと変わって畳み掛けてきた。一応主人公の考察ということになっているが、かなりメタな視点で文学・芸術論を展開している。作中の登場人物であるアルベルチーヌもジルベルトも、どうやら実体はないようだ。具体的なモデルが存在するわけではないらしい。
プルーストを読む生活
654ページまで。「プルーストを読む生活」では、まだ第一次世界大戦の話をしている。僕のほうがだいぶ先まで読んでしまったらしい。そうやって油断していると、さっと追い抜かれてネタバレを食らってしまうから、そこらへんにいてもらうのが丁度いい。
著者は本を借りすぎて読む気が失せている。この人でもそういうことがあるんだな。読書は快楽と言ったり、水みたいに日常的にたくさん読む話ばかり出てきていたから、読む気が失せることがあるなんて思わなかった。読み過ぎというわけでもなく、体調不良っぽい。季節の変わり目だそうだ。
僕が水みたいに読める本は、村上春樹と高野秀行だと思っていた。でも村上春樹と小澤征爾の対談本は、あまりに内容がわからなくて半分ぐらいで止まっている。またそのうち再開する。高野秀行本は、食べ物に興味がない僕としては「謎のアジア納豆」が全然読めなかった。同じ食レポモノでも「移民の宴」はいろんな国を旅しているようで滞りなく読めた。