なぜ文学を読むのか(2024/7)
雑踏一人回です。今回は、自分がなぜ文学を読むのか、ということについて考えてみたいと思います。本は文学以外も読みます。新書とか、エッセイとか、経済の本とか、ノンフィクションとか日記本とか、エンタメ小説とか。その中でも文学の割合は、どちらかというと多い方です。3割ぐらい?ただ全体的にそんなめちゃくちゃたくさん読んでいるわけではないけど、文学を好んで読んでいます。
他のジャンルの本については今回置いといて、なぜ文学を読むのか。それはもちろん面白いから、なんですけど、どういう文学の、どういうところに面白さを感じているのか。僕にとって文学を読むとはどういうことなのか、振り返ってみます。
ではまず、文学とは何かというところから、入っていきたいと思います。文学とは、小説の中のジャンルの一つで、日本では純文学とか言ったりします。純文学と大衆文学という言葉が分かれていますが、その明確な定義みたいなものは、僕はよく知りません。だから今回ここでは学術的な意味での文学論などではなく、自分が思う文学、みたいなことになってしまいます。自分がどういう作品を文学とラベリングして、他と分けているのか。
僕が思う文学、少なくとも僕が読んできて「これは文学だな」と思ってきた作品の条件は、人生だったり世の中を解き明かす手がかりになる作品であること、です。生きるとはどういうことなのか、人間の人生にまつわる根本的なことを描いていたり、もしくは世の中の普遍的な真理について描いていたり。それを説明するのではなく物語として、一つのあり方として提示しているのが文学なのかなと思います。
だから例えば、ミステリなど事件を解決したりといったことが物語の主体となっている小説は、僕の中では文学と言えません。人間や人生は描いていたとしても、それが本の主題にはなっていないからです。
ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの「日の名残り」や「わたしを離さないで」などは、人間の人生についてかなり真に迫った物語を描いています。
「日の名残り」がどういう小説か、簡単に紹介しておくと、第一次大戦の終戦から第二次大戦にかけての時代、イギリスのとある屋敷の執事が主人公です。執事は屋敷と主人に仕えながら、自らの仕事ぶりを磨いていきますが、その仕えていた主人は時代に翻弄され、没落していきます。屋敷は新たにアメリカ人の金持ちに買われ、主人公は新しい主人に屋敷の執事として仕えます。その間に休暇をもらい、仕事しかしていなかった自分の人生を、休暇中に振り返るというのがこの物語の筋です。
「わたしを離さないで」は、映画化されたり日本でも綾瀬はるかが主演でドラマ化されたりして有名だと思いますが、内容についてはネタバレ要素が強いため触れないでおきます。子供時代に特別な施設で育ち、大人になってからその子供時代と青年時代を振り返るという話です。
物語に明確な答えがないのも、文学の特徴かもしれません。アートは問いであり、デザインは答え、みたいなこともよく言われますが、この場合文学はアートにあたります。
ここに一つ、自分が文学を好んで読む理由がありました。僕の個人的な嗜好として、問いを投げかけられて考えるのが好き、というのがあります。わからないものを提示されて、それがどういうことなんだろうか、と考えることにゲーム性を感じ、遊び感覚で楽しんでいます。はっきりとした正解のあるものより、自分なりの仮説を立てて「こうなんじゃないか」とそれっぽい答えをひねり出すことを楽しみとしています。なので、わかってしまうと興味を失ってしまいます。見たことあるものや知っているものにもあまり興味を抱きません。
エンタメ、娯楽といった物語には、わかりやすい結末や答えが用意されています。むしろそれがないと、読んでいる人に怒られます。スッキリさっぱり解決、例え後味が悪くてもわかりやすく完結することが、エンタメには求められているんじゃないでしょうか。文学は「お前はどう思う?」と言われてるような問を投げかけられて、そのまま物語が終了します。エンタメだと思って読んでいた人が文学作品を読むと、何じゃこの結末!と思って放り投げてしまうかもしれません。このあたりは好みだと思います。
他に、他人の視点で世界を見る面白さが文学にあると思います。文学は基本的にフィクションだから、現実の世界をそのまま見ているわけではないですが、物語を通してそこにあるともしれない世界に、自分の中にはない世界に入っていける楽しみがあります。文学作品を読むことで、そこで生きている登場人物と友達になれるような気がします。それはきっと文学に限らず、マンガや映画、ドラマなどでもあることだと思います。
また、文学作品を読んでいると、ときどき自分と同じ疑問を抱えていたり、その先に行っている登場人物に出会います。彼らに共感することで、自分の中に抱えていた疑問が明確になったり、彼らの葛藤や試行錯誤、行動が、ある種自分の実生活におけるヒントにつながったりします。
例えば、僕の好きな小説にサリンジャーの「フラニーとゾーイー」という作品があります。サリンジャーの作風のひとつとして、欺瞞に満ちた世の中が許せなくて、うまく溶け込めない主人公の若者というテーマがあります。「フラニーとゾーイー」は妹フラニーと兄ゾーイーの兄妹なのですが、大学生の妹フラニーが、周りの人が嫌すぎて閉じこもってしまいます。フラニーとゾーイーにはもっと上にシーモアという兄がいて、フラニーとゾーイーは上の兄シーモアの清く正しすぎる教育を受け続けました。しかしシーモアは、「バナナフィッシュにうってつけの日」という別の物語で自殺しています。
フラニーは閉じこもった際に、この清濁ある現実社会にうまく溶け込めなくなったのは、兄シーモアの潔癖すぎる教育のせいだと言います。
「フラニーとゾーイー」という物語は、下の兄ゾーイーが、妹フラニーに対してどうやって世の中と向き合っていけばいいか、説くところで終わります。そこが僕は好きで、これは自分に必要な何かなんじゃないかと思って、意味を考えながら何度も読み返しました。
こういう感じで、僕が文学を好んで読んでいるのは、なんとなく高尚に見えるからとか、かっこいいからといった理由ではなく、世の中を知ることであったり生きるヒントであったり、それなりの面白さを見出しているからでした。ただ用意された答えを飲み込むのではなく、読んだそこに何かがあると自ら見出し、そこから考えるという過程が、文学を読むうえでは重要なのだと思います。知識や情報ではなく、体験としての読書を、読んでいる間だけでなく読んだ後からも「あれは何だったんだろう?」と楽しめるのが文学の魅力です。
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