【音楽×珈琲 鑑賞録】2月25日~クロード・ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲 × KOICHIRO COFFEE あさくまブレンド
音楽観を鍛える鑑賞録。
珈琲録をそえて。
2月25日のテーマは【謎】
とりあげる作品は、
クロード・ドビュッシー /
牧神の午後への前奏曲
×
あわせる珈琲は、
KOICHIRO COFFEE /
あさくまブレンド
です。
クロード・ドビュッシーの名言
"Works of art make rules; rules do not make works of art."
「アートはルールを作りますが、ルールはアートを作りません。」
クロード・アシル・ドビュッシー
Claude Achille Debussy
1862年8月22日 - 1918年3月25日
フランスの作曲家。
アートか工業かを分けるもの
1月22日、2月3日以来3作目のドビュッシー鑑賞録です。
「象徴主義」の代表曲とありますが、そもそも象徴主義ってなんですか?
ってことで、ぐっと要約してみる。
キーワードは観念的、象徴的、総合的、主観的、装飾的。
主体的な理想全体が美しく飾られた形であるとしましょう。
そしてドビュッシーが音楽の着想をえた、マラルメの詩『牧神の午後』という作品は、
"午睡から目覚めた半獣神が、二匹のニンフたちとの官能的な体験について、おぼろげに自問自答する様子を牧歌的に描いている"もの。
この詩を経てドビュッシーは、まどろみのような旋律、たゆたうような独特の世界観を描きます。
そして、間奏曲、終曲と考えたものの続きが描けず、「前奏曲、これが完成作品だ!」と結論づけたといいます。
これがアートなのか、と感じ入る。
ドビュッシーは、理想を描き、主体的に美しいと決め、完成させた。
まさしく象徴主義が定義する型。
ただ、これは誰にも真似できない。
象徴主義のルールに則って作品をつくれば、それはアートではなく、工業品になってしまう。
なぜなら、ドビュッシーは続きはあると思いながらも、世界を完結させた。
まだキャンバスに余白がありながら、描けることは可能でも止める覚悟をした。
完全に主体的(独善的)に、MECE(漏れなく・ダブりなく)を果たしたのです。
なによりすごいのは、それに説得力があったこと。
主体的にアートだと世界に投げかけても、徒手空拳になっては作品になりえません。
この「牧神の午後への前奏曲」は「象徴主義の代表曲」と言わしめたのですからね。
客観的にも完成していると思わせる力があってアートは成立する。
こんな経緯を知ると、上記の名言も味わい深いものがあります。
アートであるか工業であるか。
それを分かつものがなにかは定かではありません。
しかしながらそのヒントはありました。
音楽にあう珈琲を考えてみる
このドビュッシーの音楽を受けて、淹れる珈琲も思考してみましょう。
ドビュッシーの音楽性、象徴主義は自然主義の反動であったそうです。
事物を忠実には描かず、理想世界を喚起し、魂の状態の表現を特別扱いする印象や感覚を探求する思想です。
コーヒーも眠気覚ましや休憩の意味で利用するのもよいですが、
ときにはそんなアート的に鑑賞するところへひっぱりこんでみましょう。
今回淹れたコーヒーは、KOICHIRO COFFEEのあさくまブレンド。
長野県の軽井沢の隣町、御代田町で家庭的にコーヒー豆販売をしているお店です。
ほんとにこんなところで売ってるの?
というくらいふつうの一軒家で営み、
かわいらしいアートがあるアトリエが併設されていました。
こちらで販売されていた「あさくまブレンド」は、
浅間山をモチーフに、クマを擬態させたデザインが施されています。
アミニズムにも通ずる、象徴的な転化です。
かわいらしくも、おこらせたら怖い。そんなイメージを彷彿しました。
ブレンドされたコーヒー豆は、インドネシアとエチオピア。手回し焙煎で中深煎り。アーシーさを土台に、爽やかに咲く高原花を連想させてくれる。
ドビュッシーの音楽美学は、
目鼻立ちがくっきりしたヴィヴィットな花を間近に置いて美しいというより、
全体像がカラフルで輪郭があいまいな、遠くに咲く花々を見て愛でるようなもの。
その音楽とあさくまブレンドを合わせて愉しむ。
流れる時間がより豊かでふんわりしたものになった気がします。
うかがったコーヒー豆販売店の情報です。
KOICHIRO COFFEE
長野県北佐久郡御代田町塩野1608-6
aterier&gallery宙の陽