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自分の世界の見方

いつだったか覚えていないが、話し合いをしているとき誰かから「人間の世界に戻ってきて〜」とよく言われていた時期があった。
あなたはすぐに思考が遠くへ行ってしまっているから、人間の社会まで意識を引き戻して。という意味だったと思う。
当時は、思考が拡散していって議題のところから外れてしまっているからだと考えていたが、今ならそれだけではないと分かる。

普通の人間は、自分のような思考をしない。

ここで言う「普通」とは、一般的で大衆的でマジョリティ側の人、ということだ。
マジョリティ側にしかいたことがない人は分かりっこないと決めつけるのはよくないので喩えを出すと、「みんな同じ柄のシャツを着ているなかで自分だけ違うシャツを着ている」感じ。気にしないようにしようとしてもどうしても気になってしまう、え?示し合わせたの?と思ってしまう、自分は特別なんだ!と思えるか、ハブられてる?と思うかはひとそれぞれだが、だいたい後者の不安を持つのではないかと思う。

「自分のような思考」の例を挙げる。

  • たとえば、草木や石、文房具、車、スマホなどに命が宿っていると思うこと。具体的に言うと、自分はそれらに名付けをする。植木にも拾った石にも、スマホにも自転車にも名前が付いている。それを意思あるものとして扱う。話しかけたり撫でたりする。

  • たとえば、命が宿っているものの意思を尊重しすぎること。具体的に言うと、自分は自分のやりたいことより彼らを優先する。自己肯定感の低さも要因の一つだが、命あるもの(人間も無機物も有機物も含む)と共存したいからだ。誰からも否定されたくない。否定は排斥につながるから。

  • たとえば、些細な変化で充分楽しめること。具体的に言うと、自分は風がそよぐだけで軽く30分はその場に居れる。風の速度はどのくらいか、服を撫ぜる感触はどんなふうか、(風が)どこへ向かうのか、(風が)なにを見てきたのか、自分と同じようにこの風を楽しんでいる命あるものはなにがいるか、(命あるものは)この風をどう思っているのか、自分は風を受けてどんな気持ちになっているか、(風は)自分をすり抜けてどんな気持ちになっているのか、

  • に加えて、(台風かな)や(天気悪いのかな)(今日は風が強いな)(もう梅雨か)(砂埃が舞ってる)などの情報も考える。ほんの些細なことだけで、軽く30分は思考が続けられる。そしてそれが楽しい。

普通の人なら、括弧書きのことしか考えないらしい。それに気づいたとき、信じられない気持ちになった。自分が日頃からやっていることを誰もしていない事実がショックだった。

外からの刺激に極端に敏感だから、思考が人間社会以外へ飛んでいってしまうことが多い。思考が逸れるのに加えて、興味があっちこっちに飛びやすい。
それを「戻ってきて〜」と言われていたんだなと思った。

※気にしすぎ、はよく言われる単語だ。しかし、気にしているのではなく気になっているのであり、決して積極的に気にしているわけではない。

注釈

人間社会に戻ってくるためには、人間社会とつながっているしかない。誰かと会話をすることで思考は引き戻され、かろうじて人間社会に留まれる。こういうふうにひとりで文字を書いたり考えたりするのは必要な時間だけれども、このままだと自分は遠くへ行ったきり戻ってこれなくなるのだと思う。小説を読み終わった一時間はずっとその世界の名残りでなにも手につかないのと同じように。

だから、やっぱり、人間と会話するのは疲れるけれども、会話はしたほうがいいのだ。とびきりくだらないやつを。

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