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田舎社会に組しない、自然に囲まれた無駄を過ごすという贅沢「新しい田舎生活」という選択が始まるか?

田舎で育ち街へ出た人々の多くは故郷へ戻ろうと
しない・・・街で生まれ育った人々に、この意味というか
この現実が見えるのだろうか?

田舎暮らしの落とし穴が、実は、これだ!

年々、街から田舎へ老後の移住者が増えている
そして、これは、折角、終の棲家として夢を託した
人生の終焉を涙にぬらす人生の一大失敗が増えている
にも拘わらずひたすら隠されている現実なのだ


湘南の自宅から銀座への通勤生活をやめて、
もラーメン屋もない三重の山間部に移住して1年あまり。
そこは、都会の喧騒とは打って変わって、
マイナスイオンに満ちた深山の真っ只中。
シカやサル、タヌキなどの動物のほうが人間よりも
幅を利かせている。
四季を体験して、
1年間の田舎暮らしを通じて感じた「気づき」

都会の価値観が通じない田舎の暮らし

日本は「アナザー・プラネット」。
中東に約10年間暮らしたときに、現地の友人からよく言われた。
日本人と中東とは価値観も、生き方も生活の水準や様式も、
大きく異なる「惑星」だから、そんな視点で見なければいけない。

1年間の田舎暮らしを一言で表現するなら、
「田舎はアナザー・プラネット」。
それは都会での生き方や価値観が通用しない異世界だから。

会社を辞めて一転、田舎に飛び込んだ。
都会でのレールに乗った人生は、安心感もあったが、
上司や会社に人事権を握られ、
会社の一存で、働く場所が決まっていくのは、
なにか自分の人生を生きていないという感覚がつきまとった。

そんな生き方を続けて定年を迎え、
死期が迫った時、後悔しないだろうかと考え、
たどり着いたのが、体力のあるうちに
自分の人生であると言い切れるような生き方を
してみたいという結論だった。

専門知識を身につけて研究職に就こうか、
起業しようか、
それとも田舎に行って自分のやりたいことを
やり尽くそうかと思い描いた。
結局、50歳という年齢で、人から見れば、
随分と早くに社会を捨てて田舎に隠居する形になった。

会社や組織に属さず、
肩書を失った田舎生活は、
まさにアイデンティティー・クライシスである。

50歳といえば、
社会人としては一番脂の乗った時期で、
会社では部長などの役職として活躍する年代。
家族を持ち、会社に勤め、
休日や休暇をストレス解消のレジャーで過ごす。
そんな生活や人生の方程式が、
田舎生活をスタートさせたことで一気に崩れ去った。

精神面の安定をどう図るかも課題に

自らの頭で考えずに、
世の中の価値観に基づいて、
漫然と生きてきたのかを痛感させられた。

肩書も収入源も失った生活になった今、
心の拠り所をどう確保するのか。

田舎生活は、
会社から仕事や使命を与えられるわけでも、
都会のように世の中の価値観を判断材料にして、
自らの生活を描いていくことができない。

自分で人生をデザインしていかなければならない。

農林業の手伝いもある。
地元の高齢者から体力仕事をよく頼まれる。
野菜を育てたり、山野草を採取したり、
魚を釣ったり、そんな得意技を生かしながら、
ほとんどお金をかけずに食べ物を得ている。

インターネットが発達した現在、
世界は小さくなり、友人らとのコミュニケーションは、
都会にいようが田舎にいようが変わらない。

田舎暮らしへの転換は、
人生の舵を大胆に切ることも大切だが、
長年培ってきたものを活用したり、
さらに発展させたりする継続性も
重要な要素になるのではないだろうか。

生活は楽しく、ストレスはほとんどない。
が、田舎暮らしに、
都会暮らしのような華やかさを添える「何か」が必要だと思う。

田舎暮らしは「付き合いが大変」は本当か

田舎暮らしは、
人間関係や寄り合いへの出席など、
何かとわずらわしという印象がある。

自治会の規約には、
空き地に雑草を生やしてはいけないとあり、
定期的な雑草刈りも仕事の1つ。

集落自治会の会合が年に3回、
祭りや宗教的な行事が2回はある。
出席は義務である。
それらをわずらわしいと感じるか、
酒を飲みながら地元の人たちと歓談できる楽しい機会と
感じるか、人それぞれだろう。

田舎には、しがらみも多い。
多くの人たちが親戚同士だったり、
長年の狭い地域での生活で蓄積してしまった
諍いや利害対立から人間関係がこじれてしまい、
口もきかない状態が長年にわたって続いていたりする。

会社員時代にも、
田舎生活の大変さは、
田舎出身の同僚や先輩から嫌というほど、聞かされた。

田舎では、人間的なつながりで何事も成り立っている。
モノを買うにしても安いか、
高いかという判断よりも、
人間関係が重要な判断材料になったりする。

田舎生活では、
都会生活を捨てて田舎に隠遁したというのではなく、
広い土地がある田舎に
新天地を求めた開拓者精神を維持することも、
田舎暮らしを生き生きと送る秘訣になるのではないか。

生きるとはシンプルだった

田舎での生活は、
畑仕事や古民家のDIY的な改修、
薪ストーブや五右衛門風呂の薪の確保が中心のシンプルなもの。

菜園からの採りたて野菜は美味しいので、
料理の味付けも塩胡椒や醤油だけ。
それに自宅で飼育している烏骨鶏の卵。

朝食には納豆。
朝起きて畑仕事をして、
薪割りをして、
気づくと夕食の時間になっているというのもしばしば。

今は、自宅近くに畑を借りて、
サルやハクビシン、アナグマよけの
獣害防止の檻の設置作業を進めており、
これに多くの時間を取られている。

その前には、冬の寒さが厳しかったので、
断熱効果のアップを狙った自宅の改修や
薪ストーブの設置作業に追われていた。

早朝から体を動かし、
五右衛門風呂に入って夕食を済ませ、夜8時には床に入ることも。
自宅には新聞もテレビもないので、
インターネットを見ない限り、必要のない情報は入ってこない。

田舎生活での関心事は、農作業や屋外の作業に大切な
天気予報やシカの侵入やサルの襲撃など獣害の動向。
どんな野菜を植えつけなければならないかといった
農事暦にまつわるあれこれ。

食事も非常にシンプルになった。
時には、ラーメンなんかが食べたくなるので、
街に買い物に行ったついでに食べるぐらい。
それ以外に、
わざわざ食べるために街に降りるのは面倒なので、
外食をする機会は、ほとんどなくなった。

時間的なゆとりから来る金銭的なメリットも少なくない。
スーパーへの買い出しは、
人が少ない朝の開店と同時に行くことにしている。
この時間帯は、前日に売れ残った商品が
半額になっていることが多い。
食費も極端に低く抑えられている。

水道も井戸でポンプを回すごくわずかの
電気代だけで水道光熱費も安い。
暖房や風呂は薪なので、
コストと言えるものは自分の労働力だけ。
それも労働とはとらえておらず、
ストレス解消や体力づくりにスポーツジムに行くようなもの。

月の生活費は5万円以内に落ち着きそう

支出自体が少なく、
その機会も少ないので、
金銭問題を考えることも少なくなった。

月の生活費は5万円以内に落ち着きそうだ。
都会生活では、
仕事の悩みや人間関係、
金銭の問題に頭を悩ませたが、
田舎生活ではそうした問題はほとんどなくなった。

その代わり、植物や野菜の美しさや不思議を考えたり、
趣味と実益を兼ねた釣りを探求したりすることに
時間を使っている。

体を動かして食べて疲れ果てたら寝るというのが生活の基本。
人間、シンプルすぎても、なにか物足りなさを感じるのだろうか。

都会での生活を振り返ってみると、
多くの物事がシステム化されて金銭を介在し、
金で買えるものが多い反面、
それらに縛られてしまい、
かえって生活や人生が複雑化していたと感じる。
情報やモノに振り回されることも多かった。

田舎の人たちは、
天候や農業、野生動物など自然と向き合い、
本物の暮らしを営んでいる人が多い。

そこでの暮らしは、
人類の歴史の中で当たり前だった非常にシンプルな生き方だ。

実際の生活は、生々しいのだ!

これは、本当の話だろうか?
・・・と、ついつい疑ってしまう筆者は
田舎生活8年目

頭から否定することはできないけど
筆者の最初の地は半分田舎、半分都会という特殊な
田舎での出発だった
ビギナーにはもってこいだった

そこで見たものは~
・街で生まれ育った人々が田畑を始めた結果の
 入院通院生活
・移住者と地元民との底知れない不信感と
 救いようのない対抗意識

移住者が特に多い地域だったので
対抗意識が生まれるのだけど普通は地元民の中に
ポツンと移住者が飛び込む形
だから実に多くが数年後には追い出されるか
永遠の忍に包まれた奴隷生活というケースだ

世界中で田舎生活というのは
人治主義の縦社会
街に逃げる人々はこの社会から逃げている
これを知らない街の人々が自然の中での
シンプルな生活を求めてやってくるが・・・

そんな田舎生活に大きな転機が生まれている
それがインターネットというネット社会
世界中のどことでも好きにつながる時代
そして、そのネット上で仕事(収入を得る)も
できる社会が見え始めている

こうなれば自然という住環境のみを求める
田舎生活が成立するのだ

筆者は写真という仕事柄ネットがあれば
長距離移動を厭わなければ今でも田舎生活が
できるので一足先に田舎にいる

しかし、誰でもがネットを通じて田舎生活を
現実にできる世界が近づいている
それが筆者が唱える田舎社会に組しない
新しい田舎生活のネットワークづくりなのだ!




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