散文的「美しいもの」稿
前回のnoteは # note編集部お気に入りマガジン に選んで頂いたことから、幸運にも多くの方に拙稿を見て頂くことができました。
予想外の反響に「適当なこと書けないな~」と一層身が引き締まる思いです。まだまだ日頃考えていることの5/100くらいしか出ていないので、今後ともお付き合い頂ければ幸いです。
あとは何より、ほんとこんな数記事しか書いてないユーザーの記事を面白がって取り上げて下さったnote編集部さん、すごいっすね。友人の間で「どうやって見つけて決めたんだろうね」ってすごく盛り上がりました。
↑要約が上手すぎる↑
今回の投稿で書こうとしていることは、前回の記事の末尾に
次回の投稿では、ぼくが好きな工芸作品・製品について書こうと思います。工場と芸術が交わる話ですね...!!
と書いたように、お約束通りに、ぼくが好きな工芸作品・製品について紹介する自己満足的な内容になると思います。
そして書いていたら熱くなって相当長くなってしまいました...。
見出しだけ追っていけば紹介したものだけ見ることもできますので、それだけ楽しんで頂いても結構です。本当は倍以上紹介したいものがありましたが、それらはまたの機会に紹介したいと思います!
「美しいものを散りばめる」
一旦は「私の好きなもの」と書いてみて、一番初めに脳裏に浮かんだのは「そうだ 京都、行こう」でも有名な"My Favorite Things"でした。
改めて聞いてみると、まとまりがあるが上下に行ったり来たりするメロディーや、ジャズならではの「音を散りばめる感」のような印象があるような気がして、今回の題材に合ったりするかもなと思いました。素敵な曲です。
前回紹介させて頂いた『新しい視点から見たカント『判断力批判』』の末章
に、とてもよく要約されているので引用致します。
美しいものを前にして惹起される感情(心の状態)は伝達され、互いに分かち合うことができる。それは何も天才(芸術家)のみがなすことができる特権的な事柄ではない。なぜなら、判定能力は選択能力であり、その能力を駆使し美しいものを自らの周りに蒐集しちりばめることで、天才(芸術家)のみならず、趣味を持つ人間(洗練された人間)も互いに感情を分かち合うことはできるからである。(上掲.p167)
この「ちりばめる」というのも表現の妙だと思っていて、集めたけど、理路整然とはしていないんですよね。「なんかめっちゃ好きなのよ」くらいの感覚かもしれません。なぜなら、
この美しいものは対象と主観の間で起こるものだということです。「この花瓶は美しい」という命題は、論理的判断ではありません。「美しい」という賓辞は、花瓶に帰せられはしないのです。この命題は、与えられた対象に対する主観の経験なのです。(同pvii~viii)
とベーメが言っているのですが、要するに何かを見て「美しい」と思うのはその人の見て思った感情によるもので、論理的に「この花瓶=美しい」の「SVC」のCにあたる「美しい」は人それぞれに違うため、美しいでは説明になっていないということです。ただ、その「美しい」を「分かる~」と共感することで私たちは「互いに感情を分かち合うことはできる」のです。
だからこそ、このnoteではぼくの「好き/美しい」と思うものをを説明しすぎずに"集めてちりばめ"ようと思っています。
ものづくりは誰かの「好き」に繋がっている
弊社(母の経営する)鈑金工場では例えば「車の部品をつくるための機械の部品」をつくっていたりするのですが、人の目に触れるものでなくとも、その部品が無ければその車は人に届かないのです。言わば、「内臓の一部分の細胞」みたいなものですが、必要不可欠なのです。
しかし、実際のところはそこには美しさの追求よりも、求められる納期や水準に即したものが求められているのが現実であります。「変にこだわってないで早くモノ上げろ!」という世界です。
とは言え、恐らく職人さんは、しばらく経ったある日、町中を走る車を見て「あ、あれウチでやったやつだな」と思うかもしれません。平然と日々の仕事を当たり前にこなしただけに思っていたことが、誰かの当たり前の日常を形作っているのです。
これからぼくが列挙するものたちも、その時代や場所を問わず、ものが世に生み出されるまでに関わった人間が数多く存在することでしょう。
また、「機械でつくったから簡単でしょう」と、機械でつくったものの価値を手作業よりも低く見做す方もいると思いますが、前提として私は「職人の技術」が無ければ「職人の美学」も生まれないと信じています。工場における職人の扱う機械は、料理人の扱うオーブンや鍋や包丁と同じく、使いこなすための知識と実践技術が必要なのです。
それじゃ、淡々と好きなもの散りばめていきますね。
ちなみに、今回は選ぶにあたって「工芸作品・製品」の定義はしないでおきます。何となくですが、手仕事だけではなく工場が関わっているだろうなと思うものを挙げます。建造物も含みます。
①クリストファー・ドレッサー:トーストラック(青海波)
1879-80年 ©郡山市立美術館蔵
クリストファー・ドレッサーは明治期の日本と交流を持ったイギリスのデザイナーです。詳細な説明は省略しますが、ドレッサーは元々は植物学を専攻していた人物で、自然モチーフへの深い造詣があります。「青海波」というのは日本の伝統文様で、機能と美しさを兼ね備えた造形が最高に好きです。これを見に郡山まで行きました。これを食卓に置いてしょっぱいバターのトーストを食べるのが夢です。
②銀座~有楽町のどこかのビル:ポスト
2016年に見かけて思わず撮ったもの。ただただ洒落ている。恐らく鍛金作家の一点物の作品と思われるが、蝶番などに"工場み"を感じる。まだあるのかな...
③PRISMACOLOR:Premier Turquoise Lead Holder
ドレッサーはカタカナ表記だったのにこれは英語で、表記揺れが起こっていますがお許し下さい。アメリカの美大留学時代に買った「シャープ鉛筆」です。プリズマカラーはプロ向けのブランドらしいですが、単に画材屋でいいなと思って買いました。実地調査の仕事をしているぼくにとってはシャーペンではなくこれが必需品です。たまに「こだわりを感じる」と褒められます。戦友と呼べるほど思い入れがあるので、どこかに落としたら本気で凹むと思います。
グリップ部分のステンレスのローレット加工に旋盤工場みを感じてしまいます。
尚、これはメイドインジャパン製品で、三菱uniにもほとんど同じ形の製品が売られているので、そういうことなんだと思います。日本のどこかの工場で毎日こいつの兄弟がたくさん生まれてるんですね。
④BRUSSELS BEER PROJECT:ビアグラス
ガラス製品の登場です。代々木(南新宿)にあるベルジャンビールのお店、BRUSSELS BEER PROJECTのビアグラスです。ワイングラスのように大きなボディによって、ベルジャンビールの持つ香りの広がりを楽しみながらグイっと飲むことができます。最高にいいお店です。
このグラスは私物なのですが、お店から盗んだわけではなく(笑)、大学生の頃、目白にある田中屋さんという酒屋さんにて、友達と「ビールパーティーしようぜ!」といくつか適当に選んで買ったグラスの中から選んだものです。
数年後にたまたま立ち寄った上記のお店で「えっ!同じグラス持ってる!!」となったのがこれです。思い出深いので割れたら泣く。
結構薄いものなのですが、数ものなので恐らく型押しでつくっていると思います。いつかガラス工場も見学したいなぁ...
⑤東急線と思しき車両:車両間ドア
中央をダイアゴナルに渡る部分がとてもクール。ガラス部分の強度もUP!!
欧米ではありそうだけど、日本では見ないような形だから新鮮に見えたのかもしれないです。
⑥Iron Cafe:オリジナル・カトラリー
現在は"meta mate"として場所と形態を変えて株式会社キャステムが運営している旧Iron Cafe。一度しか行けませんでしたが、一つ一つのカトラリーやテーブルやイス、全てにこだわりが感じられました。身の回りのものが全て金属で囲まれている感覚、味わったことありますか?
⑦ルネ・ラリック:東京都庭園美術館-旧朝香宮邸正面玄関ガラスレリーフ扉-
1933年 ©東京都庭園美術館
ドレッサーと同じ、アール・ヌーヴォーという美術様式の旗手として挙げられるルネ・ラリック。ガラスの質感がマットで、触って見たらザラッてするのかなとか、ラップやビニールにグーッと押し付けられた時みたいな出方だなと思ったり。ラリックの手掛けたブローチとかも良いんです。箱根のラリック美術館行きたいな~。
⑧FriendsNYC:栓抜き
留学中にブルックリンの雑貨屋FriendsNYCで買った栓抜き。真鍮製でかわいい顔して結構重い。でも持ちやすい。事務所に来客が来た時に瓶ビールで一杯やろうと思い、事務所に置いているものの残念ながらまだその機会が無い。
ネオンも良かった。Morgan Avenueは"the Brooklyn"といった感じで元倉庫を活用した良い店がたくさんあります。
⑨ヴィクトール・オルタ:Maison du Peuple(民衆の家)
©reddit Built 1899 - Demolished 1965
既に現存しない建築物である「民衆の家」。ベルギーにおける社会民主主義活動の象徴的な建物だったそうです。建物自体が曲線を描いていて、それでもシュッとしている感じがバランス良く綺麗で好きです。
要所要所で凝ったデザインが入っていながら調和している感じも、ドレッサーのようにアール・ヌーヴォーの概念を一つ超えている感じがして好きです。
⑩エクトル・ギマール:パリ・メトロ出入口
ロココ様式という宮廷装飾のルーツを踏まえ、ブルジョワという日本で言う「成金」のような者たちに好まれたアール・ヌーヴォーですが、機械制工場と密接に関係している意味で、一般市民の生活を感じます。先述の民衆の家も同じく、人々に求められているものにこそ美しさを提示するチャレンジがあるといいなと思います。
ギマールの建築は鋳鉄とガラスを上手く扱っていて、この地下鉄はどんな未来に連れて行ってくれるのかなと当時の新時代感をイメージしてしまいます。
⑪Claes Oldenburg:Profile Airflow
1969 ©Portland Art Museum
大好きな町、アメリカオレゴン州ポートランドの美術館で。
1935年のクライスラーを60年代の現代美術として型押しのプラスチックで表現したその時代感覚が、そのままパッキングされて今に伝わっているようで面白いなと。
⑫アントニー・ゴームリー:領域ⅩⅢ
2000年 ©郡山市立美術館
先述のドレッサーの作品を見に行った郡山市立美術館にて鑑賞した作品。調べて見ると、ゴームリーはイギリスの作家で、OBE(大英帝国勲章)を受賞する程の有名彫刻家でした。(wiki) ぼくが赴いたリヴァプールにも大作があり、直接見てたらなぁと少し後悔しています。
郡山市立美術館はイギリスにまつわるコレクションがあるのですが、ぼくは大のイギリスかぶれで、日本と同じく工業国的側面にもシンパシーを感じます。
悠然と立つこの像が、大田区にあったらまたそこでしか生まれない感情が湧きおこるのでしょうか。
⑬三角屋根:金属製ストロー
葉山の美術館に赴いた際、近郊の素敵なカフェでアイスラテを飲んだ時に出て来た金属製のストロー。曲がるのだけど、隙間は空かない。口をつけると、ストローまで冷たい!
驚きととともに写真をパシャリ。繰り返し使えてエコですね。
⑭ラーメンクワトロ:テーブルセット
ラーメンクワトロは大森から大井町寄りに行った南大井の洒落てて美味しいラーメン屋さん。創作フレンチのような美しいラーメンは勿論、器から何から何までこだわり抜いたアイテムを揃えた素敵なお店です。
本当は色々写真を挙げて褒めたいところですが、本題から逸れてしまうのでカウンター上の金属製品のみ上げます。"HOT DRINKING"と書かれてはいますが、お冷差しを置く台でした(笑)
こういうのを作るのが町工場の夢でしょうが、ぼくとしては塩胡椒の容器にもっと模様を入れたいかな。ただ、ラーメンが映えるように無機質なもので周りを固めるその金属製品の使い方になるほどと思いました。
⑮YAMANEKO MILL:壁面のタイル
尾道のカフェの壁のタイルが、釉薬のおかげかなんとも言えない素晴らしい光沢を放っていて、またその前にある観葉植物との調和が最高に美しいなと思いました。
尾道は素敵なカフェやお店がたくさんあって、飲み物など商品だけでなく、空間や雰囲気もこだわりがあって、その素敵さに共感させられることもしばしばでした。
タイル工房にも行ってみたいなぁ...
⑯カイ・フランク:KF 508
©Bukowskis 150 vuotta(Pinterestから辿るとここでした) 1963
画像ちっさ!って感じなのですが、カイ・フランクという「フィンランドデザインの良心」と言われたデザイナーのガラスデカンタです。コルク栓の上にいる鳥さんもガラスでできています。シンプルな中でのこの遊び心、鳥を安定して表現するために当時どれほどの苦労があったことか。
カイ・フランクは葉山の神奈川県立近代美術館での展覧会でギャラリートークも聞きながら鑑賞してからというものの、虜になってしまいました。彼のデザインは今も「イッタラ」というブランドとして在り、自分の手にすることができます。
「貧しい国の事情に合わせた食器のデザインをしたい」という哲学の元、シンプルで汎用性の高い器をつくっていたといいます。現に今もフィンランドの各家庭には必ずカイ・フランクのてがけたプロダクトがあるとか。(まぁ日本で買うとやっぱりそこそこ値が張りますが)
TEEMAというミルク入れのエピソードも好きで、冷蔵庫の普及する前には冷蔵庫代わりの二重窓の間に入るような大きさにデザインされたという、なんと民思いのデザイナーなんだろうと胸を打たれました。
その他にも、ガラス工房の職人のために訪れる時はケースでビールを持って行き、「小銭を持って行っていいよ」と壁にかけたジャケットのポケットにはジャラジャラとたくさん小銭を入れて訪れたのだとか。
そんなエピソードを含めてカイ・フランクのプロダクトが好きです。いつか家の食器はイッタラで揃えたい。
美しいもののcollective
挙げれば枚挙に暇がないので、とりあえず16(中途半端な数なのは、マストで入れなければと思っていたカイ・フランクを足したため)の好きなものを載せてみました。お気付きになられた方も多いと思いますが、アール・ヌーヴォーという芸術様式に関わるものが多いのは、ぼくが美術に興味を持った入口がアール・ヌーヴォーであったためです。自然のモチーフと当時新素材と言われた鋳鉄とガラス、一見相反するようなものが美しくまとまっているのがとても好きなのです。
また、一つ一つにちょっと説明を加えた際、「好き」を語るのにぼくはそのものを選んだ背景や文脈を重んじているのだなと思いました。「その時・その場で感じたこと」というのが如何に自分の美学に影響するのかを自覚した気がします。
ここで"Collective"という言葉を使いましたが、意味としては:「形:集合的な、集団的な、共同の」 という意味があります。Collectionと名詞で言えば勿論「収集物、集めること」などといった普段聞く意味となりますが、あえて「ぼくが選んだ美しいものたちがなんとなく集められた感」という意図でそう言ってみました。
共通点を見出そうとすれば、テーマとして掲げた「手作業だけでなく工場がかかわった」っぽいものであったり、アール・ヌーヴォーであったり、様々見えてくるとは思いますが、要するに、これらは「ぼくが美しい/好きだと思うものたち」なのです。
ものにあふれた時代で
意図的に「手作業だけでなく工場がかかわった」ものを挙げていきましたが、これは「機械でつくられたものにも美しさがある」ということを繰り返して伝えたかったためです。
上の言葉は人によっては至極当然に思えるかもしれませんが、世の中はまだまだ"手仕事 > 機械仕事"の見方が根強くあります。確かに、伝統工芸師の手仕事とロボットによる自動でつくったものとでは、前者の方が趣きを感じるかもしれません。ぼくも流石にそうです。しかし、伝統工芸師と工場の職人とではどうでしょうか?工場の職人だって修練を重ねることにより、切削機械をいわば"彫刻刀のように"自在に使えたり、"焼き窯の火入れの温度を見る"ように、鍛造の熱入れ担当の職人は炉を見る必要があります。
機械も人間の道具の一つとするのならば、機械によってつくられたその手段だけで美しくないものと見るのではなく、出来上がった"もの(製品)"を美しいと思うか/思わないかで判断しなければならないのではないか。
これがぼくの主張です。
"手仕事 > 機械仕事"の問題は歴史的に見ても根深く、アール・ヌーヴォーの隆盛があった時代(ベル・エポック)は、全世界的に第二次産業革命の時期でもありました。「機械による大量生産が生んだ劣悪品が蔓延る世の中」に対するカウンターとしての芸術運動がフランス・ベルギーのアール・ヌーヴォーであり、イギリスの「アーツ・アンド・クラフツ運動」であり、ドイツの「ユーゲント・シュティル」でありました。
(ぼくも前に古本屋で買ったけど安い...)
最早、古典的名著の『アール・ヌーヴォー』でも、「手工芸対機械」という見出しで、機械産業そのものに対し嫌悪する美術批評家たちとは一線を画した存在として、ウィリアム・モリスやヴァン・ド・ヴェルドの名が挙げられています。(上掲.p53~)二人とは違う人の言葉ですが、一つ引用します。
早くも一八九〇年代から、この問題(機械と応用芸術)と取り組んだチャールズ・ロバート・アシュビーは、声を大にして次のような第一原理をかかげた。
”現代文明は機械に多くを負っている。芸術を育て、奨励し、教えるにしても、この点を理解しない限り、それは決して健全なものとはいえないのである。”
(同.p54~55)
この歴史的な話についてはまた次回以降の話題としたいと思います。
ちなみに、日本も例外ではありません。19世紀末から「ジャポニスム」などとその文化的価値を欧州から認められた後、少し遅れて日本にも第二次産業革命の波はやってきます。そこで「民藝」というものの存在と価値が柳宗悦などによって提唱されるのですが、日本でも概ね機械工芸というのは"趣きの無い粗悪なもの"とされていました。
民藝そのものの再定義を行った点と、民藝の外に置かれたものとして機械工芸への言及がある点で、上記の本についてもまた別の投稿で触れたいと思います。
少なくとも100年以上は行われてきた電気によって動く機械でのものづくりは、現在また「メーカーズムーブメント」により転換の時を迎えていると思います。それと同時に、私たち消費者の間でも「ボタンを押せば欲しいものが手に入る」だとか「ものを所有することより体験に価値を見出す」とか、環境やマインドに目まぐるしい変化が起きています。もしかすると、今は「ものがあふれる時代」から「ものを減らしていく時代」かもしれません。
それでも変わらないのは、「何が美しいか」は自分自身で感じて決めなくてはいけないということです。これはものをつくりだす人間にも、そうでない人間にも言えることなのです。
「美しいものを散りばめる」のと「ものがあふれている」の違いは明らかで、自分自身の意思が介在していないと、「あふれるもの」の中からは「美しいものを選んで散りばめる」ことはできないのです。
ぼくが工場見学をする理由も、皆はよく知らないかもしれないけれど、あそこは「美しい」ものの生まれる場所だからです。
追記:
今後、予定している工場見学もありますので、そちらも楽しみに待って頂ければ幸いです。
あと、気が付いたらアウラを提唱した人にめちゃくちゃ影響を受けた奴みたいなタイトルと内容になってしまったのですが、最近意識せざるを得ない状況だったからかもしれません...