孤軍奮闘というよりは孤立無援
こぐん‐ふんとう【孤軍奮闘】
[名](スル)援軍もなく孤立した中でよく戦うこと。また、だれの援助も受けずに一人で努力すること。(デジタル大辞泉)
こりつむえん【孤立無援】
仲間もなく、助けてくれる者がいないこと。 「 -で戦う」(大辞林 第三版)
どうも、こんにちは。つまづき系クリスチャンです。
どうしてこんなタイトルにしたのかというと、これが自分自身の信仰生活の現況だからでして、いざ説明しようとするとけっこう長くなるのですが、ご一読いただけると幸いです。
前回の記事で、信仰生活20年目などと書きましたが、様々な事情があって、逃げ込むように今の教会に来たのが4年ほど前になります。
なぜ逃げてきたのかというと、当時いた、割と大規模な教会(以下チャーチ)がカルト化してしまったからです。
このままチャーチに居続けると、あまりに薄っぺらいメッセージと、牧師様を頂点とし、まるで太鼓持ちのようなリーダーどもがえばりまくる環境で、どんどん信仰が失われていく、と判断したのですが、正直、なぜにもっと早くそう判断できなかったのかと後悔することしきりです。これはひとえに自分の霊性のなさが原因であるのですが。
さて、今の教会に移ったことで、今までになく充実した学びと祈りという、これまでの信仰生活の中で不足していたものを得ることができました。特に学びがしっかりしているのはバプテストならではと言えるものです。
そして、教会の皆様方は温かい方ばかりで、まさしく神にあっての家族というべきものであり、ある意味利害関係のみで結びついていたようなチャーチとはずいぶん異なるものでした。
この2点が、信仰の回復において大きな意味を持つものであることは言うまでもありません。
けれども、ここからが本題なのです。
今の教会は、礼拝出席人数が30人ほどと、決して大きな教会ではありません。そして、伝統的なスタイルの教会としては年齢構成が若めとはいえ、ボリュームゾーンが40代以降の既婚者主体で、また自分より下になると20代半ばにまで下がってきます。
つまり、30代半ばで独身というのは、非常に中途半端なお年頃ということになってしまうのです。
もちろん、教会の皆様が冷たいなんて思ったことは一度もありませんし、いつもさまざまな形で支えて頂いていることに対する感謝の思いが揺らいだこともありません。
とはいうものの、年代の近い仲間がいないという現実が、ここにきてジワジワときているのもまた事実です。
この事については、牧師先生を含め何人かの方に相談したこともあります。そうなると、口を揃えて「いればいいものでもない、質が大事」と言うのです。
これは実際そうで、友達を失うということへの恐れから、以前いたチャーチを出る決断がなかなかできなかったのですが、それでも決断したのは、質的な意味でバッサリ切り捨てるのも止む無しと思ったからです。この事自体は、今も後悔していません。
とはいえ、これは結果として「孤独な信仰生活」を強いられるということにも思えてしまうのです。
やはり、自分よりも目上の方や、10歳以上年下の人に対して、それこそ友達として気軽にちょっとした悩みであったり、あるいはそこまで深刻なことでなくとも、ちょっとした事を聞いてほしいなんてことはまず言えないのですから。
それゆえ、孤立無援なのではないか、と思ってしまうことすら多々あるのです。実際にはそうではないことなどわかりきっているのにも関わらず。。。
それでも、こればっかりは神様に祈って答えを求めるぐらいしか手がないようです。このような聖書箇所もあることですし。
御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。
詩編 25:16 新共同訳
これをお読みになった方で、もし何か良い知恵をお持ちの方がいらしたら、どうか教えていただけると幸いですm(_ _)m