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マジョリティだった頃、見えなかった社会のアンバランス
私が障害を負うまで、日常の中で「特権」という言葉を意識したことは一度もありませんでした。私は健常者として、ごく自然に社会のマジョリティに属していました。それがどれほど恵まれた立場であったかを知るのは、皮肉にも障害を負った後のことでした。
マジョリティの安心感の裏にある無関心
健常者だった頃の私は、社会の不均衡や不便さに気づくことはありませんでした。それは、自分がマジョリティであるがゆえに、社会が自分にとって「当たり前に快適」になるよう設計されているからです。電車のホームの高さが段差なく揃っていること、手すりやスロープがなくても問題なく歩けること、エレベーターがなくても階段を使えること——これらすべてを当たり前だと思っていました。
けれども、その「当たり前」が一部の人にとっては高い壁になることに、私は気づけていませんでした。健常者として過ごしていた頃、障害者用トイレや点字ブロックを見ても、それが必要な人の存在を「知識」として理解していただけで、彼らがどれほどその設備に頼っているかまでは想像もしていませんでした。無知や無関心は、決して悪意から生まれるものではありません。ただ、マジョリティでいることが視野を狭め、他者の困難に気づきにくくさせているだけなのです。
中途障害者になって見えた真実
障害を負ったことで、私はその「当たり前」がどれほど限定的かを痛感しました。例えば、以前はエスカレーターも階段もスムーズに使えていた私にとって、移動手段は選び放題でした。けれども今は、エレベーターがなければその駅では降りられません。階段を上ることは不可能で、スロープがなければ移動自体が制限されます。
また、働く環境でも同じことが言えます。健常者だった頃は、どんな職場でも「自分次第で乗り越えられる」と思っていました。けれども障害者となった今、就労環境の選択肢は大きく限られます。職場の環境が整っていなければ、そもそも働くことすら叶いません。
社会の「基準」は、いつもマジョリティに合わせて設計されています。それに気づいたとき、私の心には大きな痛みと同時に、行動しなければならないという使命感が生まれました。
共感の先にある変化を求めて
私がこの話を書いている理由は、過去の自分と同じように、社会のバランスに気づけていない人たちに向けて伝えたいことがあるからです。
「当たり前」を疑うことの大切さ
エレベーターがなぜそこにあるのか、なぜ駅にはバリアフリーの設備があるのか、考えたことがありますか?それらがなくては困る人々の存在を思い出してみてください。
「特権」に気づき、行動する
健常者であることは、一種の「特権」です。その特権に気づいたら、それを他者を助けるために使うことができます。例えば、バリアフリーの活動に参加したり、声を上げて社会を変える一助になったりすることです。
少数派の声を聞く
自分とは違う立場の人の意見を聞くことは、想像以上に価値があります。彼らの声は、社会が抱える本当の課題を教えてくれるからです。
マジョリティも少数派も共に作る社会へ
私たちが目指すべきは、マジョリティと少数派が共に生きる社会です。互いの視点を尊重し、理解し合うことで、社会はより豊かになります。そのためには、まずは「気づくこと」が第一歩です。私が障害者としての経験を発信する理由も、読んでくださるあなたに気づきを届けたいからです。
もしこの記事を読んで共感していただけたら、ぜひこのメッセージを周りの人にもシェアしてください。社会のアンバランスに気づく人が増えることで、少しずつでも変化を起こすことができると信じています。応援していただける皆さんの力が、私たち一人ひとりの小さな声を、大きなうねりへと変えてくれます。
「誰もが住みやすい社会」を目指して、私たちの気づきと行動が未来を変える力になることを信じて。どうか一緒に歩んでいきましょう。