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【短編小説】歌うたいの君へ

ボクの覗く世界一面には
幾何学模様が広がっている。
コバルトブルーにターコイズブルー、
その隙間を絶え間なく埋めるように
眩いシルバーが輝いていて
時折顔を出す群青色の深い青が
ボクの心を静かに癒してくれる。

一度角度を変えると
世界はがらりと様変わりして
もう二度と同じ景色を見せてはくれない。

直径1㎝にも満たない
小さな覗き穴の先に広がるその世界には
幼いボクの心を虜にするには十分な
眩すぎる世界が広がっていた。
ボクはそれを、
大好きなあの人にも見せたかった。


「あっ、これすき!いちばんきれいだ!
これみて!はやくはやく!」
キッチンで料理する母さんの足元に
ボクは慌てて駆け寄ろうとした。
(ゴテッ)
「ほらー、慌てて走るから!
痛くない?大丈夫?大丈夫ね?」
母さんは転んだボクの両腕を握って
ひょいっと起こしてくれた。

痛さではない悔しさのあったボクは
思わず涙目になりながら母さんに訴えた。
「うん、だいじょうぶ…
でも、まんげきょうのなかみくずれちゃった…」
「あら、綺麗なの見つけたから
お母さんに見せてくれようとしたんだね」
「うん…なんかね、
すっごいすっごいきらきらしてて
ぶわーってなってて、きれいだったの」
「そっかそっか、すごかったんだね。
お母さんもボクちゃんと見たかったなぁ」
「だってだって、おかあさんが
ちかくにいなかったからわるいんだよ…」

母さんは5歳の小さな手のひらを
温かい手のひらで優しく握りなおし
ボクの目を真っ直ぐ見つめてこう言った。
「いい?ボクちゃん。
ボクちゃんが綺麗だなと思う景色を見つけて
それを一緒に見て欲しい人ができたら
身体中を使ってそれを精一杯伝えるんだよ」
「からだじゅう?」
「うん。ボクちゃんが持ってるもの全部」
「ボクはなにをもってるの?」
母さんはボクの身体を優しくなでながら話した。
「かわいいお顔には目も耳も鼻も口もついてる。
お母さんの手を握ってる手もあるし
お母さんの所に走ってくる足だってあるでしょ?
ほら、こうやってぎゅーってしたら、
あったかさだって伝わるんだよ」

いつも手が温かくていい匂いがした
優しい母さんがボクは大好きだった。
しかし、体が弱くて病気がちだった母さんは
年々、病院にいる時間が長くなって
いつしか学校帰りには病室に行き
母さんの隣で宿題をするのがボクの習慣になった。
そして、ボクが小学6年生になるころに
母さんは静かにあの世へ行ってしまった。
ポツンとボクを残して、行ってしまった。


中学に上がってからのボクは
いつもなぜだかイライラしていて
人と話すのがとにかく億劫だった。
休み時間はずっとイヤホンで耳を塞いで
窓の外を眺めながら音楽を聞いていた。

一人で過ごすのは、案外楽だと知った。
目を閉じてイヤホンを耳に突っ込めば
誰も話しかけてくることはない。
顔を突き合わす相手もいないので
無理して口角を引き上げる必要がなく
表情筋はちっとも疲れない。
ボクしか聞いていない音なんだから
自分の好きな曲の一小節を
何百回も繰り返し聞いたって
誰にも文句は言われない。
帰り道の自転車は、
誰にペースを合わせるでもなく
ひたすら音楽のビートに合わせ漕ぎ続けた。

ボクの世界にはボクだけがいて
ボクが好きなリズムで生きていけばいい。
そうすれば、きっともう
傷付かずに生きていけると思っていた。


そのまま一人でひっそりと
中高生活を過ごしたボクは大学に上がると
駅前のコンビニでバイトを始めた。
講義の時間が許す限りシフトを入れて
深夜のシフトも進んで入るようにした。
過剰な愛想もコミュニケーションも必要ない
程よく不愛想で単調な接客こそ
ある種のお客様への誠意とされるこの仕事が
ボクの性には合っていて好きだった。

毎週金曜午後6時前、
決まってパック入りのリンゴジュースを
1つ買いにくる女性がいる。
その人は小さな背中に
大きなギターケースを背負っていて
目当てのものを買うと忙々とコンビニを出る。
そのままコンビニ斜め前の駅前広場へ行き
いつも一人で路上ライブをしているのだ。
誰も立ち止まらないその路上で
彼女は一人、大きな口を開け
顔を歪めてギターをかき鳴らし、
毎週金曜、歌っている。

彼女の歌声をそばで聞いたことは
まだ1度も無いのだが、
遠巻きから見るに彼女のギターの
あの丸みを帯びたボディのネックサイドは
恐らくギブソンのJ-45に間違いないだろう。

ギターを触ったことすらないボクが
そのギターの型を言い当てられるのは、
斉藤和義と同じ型だったからだ。
母さんがいつも料理を作りながら
楽しそうに口ずさんでいた
『歌うたいのバラッド』が
どうにもボクの耳に残っていて
中学以来、彼の曲を一人聴き漁り
楽器なんかにも妙に詳しくなっていた。

どうやら音楽界隈でギブソンのJ-45は
アコギの代名詞とも呼ばれるほど有名で
バンドのボーカルやロックテイストの強い
シンガーソングライターが数多く使用しているらしい。
一方で20代で使用する人は最近はもう少ないそう。

二十歳前後の小柄で大人しそうな
あの女の子が使っているのが
なんだか少し珍しい感じがして
ボクはほんの少しだけ、
彼女に対しての好奇心を持っていた。


「お会計140円になります」
「150円でお願いします」
「10円のお返しです。
”いつも”ありがとうございます」
その『いつも』のたった一言しか
彼女への関心を表現する手段を
ボクは持ち合わせていない。
そんなボクに彼女は、
小さく微笑み会釈し店を出る

「いらっしゃいませ」
入店を知らせる電子音と共に
今日も彼女は現れた。
いつものジュースを手に取る前、
コピー機の前に立ち止まり、
何かを印刷しているのが見えた。
「140円、ちょうどお預かりします」
「どうも」
「いつも、ありがとうございます」
毎週ほんの十数秒のボクの楽しみは
今日もあっけなく終わった。

時計をぼんやりと眺めていると
あと10分もすれば21時になり
シフト時間が終了することに気付く。
「あの、すいません」
男性のお客さんが何やら白い紙を手に持ち
レジの方に近付いてきて、ハッとする。
「この紙、コピー機に残ってたんですけど」
「あ、ありがとうございます。
こちらでお預かりします」

忘れ物が楽譜であると気付いたボクは
その題名を見るや否や
どこか希望に似た興奮を覚えた。
斉藤和義『歌うたいのバラッド』。
ギターの彼女の忘れ物に違いない。
彼女も自分と同じような音楽と親しみながら
日々を過ごしているんだという興奮を抑えつつ、
彼女に話しかける口実を得た僕は
時計の秒針をそわそわと見つめながら
それがあと9周回るのを待ちわびた。

シフトの時間が終了してすぐ
バックヤードで慌ててパーカーに着替えたものだから
前髪がぺちゃんっとおでこに張り付いており
柄にもなく鏡の前で足を止めて
少し前髪をまとめて脇に寄せてみた。
鏡に映る自分の口角が
心なしか吊り上がっているのに気が付いて
なんだか気色が悪くなり、
整えた前髪を右手でガシガシとこすり
わざと無造作な感じで決まりにした。


楽譜を片手に小走りで駅前広場に行くと
彼女はちょうど、曲の合間で
例のリンゴジュースを一口含んだところだった。
ごくりと喉を潤わすと口を開いた。

「それでは最後の曲になります」
彼女はギターをそっと大事そうに
抱きしめるように優しく撫でて続けた。
「聴いてください、歌うたいのバラッド」

彼女の細い親指が小さなピックを挟み
6本の弦の上を歩きだすと
力強いアコースティックギターの音色が
公園の空気をさらい、夜空へ響き渡った。
彼女は前のめりになって静かに息を吐き
半径1メートルにある空気を思いっきり吸い込むと
唇から音楽を垂れ流し始めた。

少しハスキーで特徴的なその歌声は
ボクの心臓へそのまま届いて鷲づかみ、
今まであえて使うことを避けてきた
体内にその実態を持たない
「感情」という名の内臓をひどく揺さぶってきた。

次々と耳に入ってくるこの音は
何のコードなのかは分からないが
心地よい音符を一音も聴き逃したくなかった。
目の前にいる歌姫がどれほど美しいのか、
その視覚情報を1秒たりとも見逃したくなくて
瞬きすることさえも惜しまれた。
彼女の歌声をのせてボクの鼻に届く
この秋空の香りは金木犀だと気が付き、
無意識にさすった左腕は楽譜を握りしめながら
鳥肌で埋め尽くされていた。

感情と五感のすべてを揺さぶる
運命の歌声に出会ったボクは
1つの本能的な使命感に駆られた。
伝えたい。この感情を感じたままに
彼女自身に伝えたい。

そう感じた次の瞬間にはもう
ボクの唇は何らかの音を発そうと
既に開いていたのだが、
肝心のその言葉が何も出てこない。
この感情に相応しい言葉が何なのか
まったく見当もつかないのだ。
そんなことを考えていると、
長い間使ってこなかった表情筋は
こんな時に全く機能してくれない。

最後の曲を歌い終えた彼女へ
ボクは微笑みかけることも
称賛の声を届けることもできなくて、
強張った表情で彼女の前に立ち尽くしていた。
五体満足の身体に備わっている
五感で感じたその感動を
満足に表現する術を知らないボクは
ただただ、涙をぼろぼろと流していた。

『ボクちゃんが綺麗だなと思う景色を見つけて
それを一緒に見て欲しい人ができたら
身体中を使ってそれを精一杯伝えるんだよ』
『からだじゅう?』
『うん。ボクちゃんが持ってるもの全部』

ボクはやっと母さんの願いに気が付いた。
誰かを愛するためには
ボクが持っているもの全部を使った
愛情表現が必要で、
今までその表現を怠ってきたボクは
愛を受け取ることはできても
愛を与えることができない人間だったのだ。

ボクの目の前に広がる世界の美しさなんて
自分だけが分かっていればそれで良かった。
だけど今、ボクの見る世界の美しさを
歌うたいの彼女に伝えたい。
母さん、今からでもまだ間に合うかな。
母さんがくれたこの身体を精一杯使って
彼女への愛と称賛を表現したい。

長い間使ってこなかった「身体」に力を入れて
ボクは精一杯の拍手を送ってみた。
怖い顔して泣きながら拍手する奇妙な男を見て
彼女は少し照れたように笑って、
ボクの方へ身体を向け、お辞儀してくれた。

母さんの優しい歌声が思い出された。
『唄うことは難しいことじゃない。
その胸の目隠しを、そっと外せばいい』



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