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音楽の感想を言語化するという行為に対する、ある種の恐怖【副題:言語の限界と言語化のリスク】

音楽を聴いたとき、その感想を言葉にして表現したくなる時ってありますよね。私もかつてはTwitterやnoteで好きな音楽について熱く語っていました。

でも最近よく思うんです。
「感想を言語化することで、何か大切なものを失う事もあるんじゃないか」と。
「もしかしたら、かなりもったいない事を私はしていたのではないか」というある種の恐怖に近い感覚を覚える事が増えてきました。

以下にその理由を書いていきます。

言語の限界とその影響

言語は、私たちのふわふわとした抽象的な感覚を、言語という枠を用いて形にする道具です。
しかし、この過程には限界があります。
言語化する際に、感覚の一部が「言語の枠」からこぼれ落ちてしまうのです。

言語という道具は、複雑で豊かな感情を整理し、点と点を結びながら形を作るものです。
しかし、その際に感情が単純化され、言葉の枠に押し込められることで、元の感覚とは異なる形に変わってしまう恐れがあります。
結果として、言語化された感想は、元の感情から少しずつズレてしまうのです。

音楽を聴いたときの「なんとも言えない感覚」。その感覚をそのまま言葉にするのは非常に難しいです。

あなたにも経験がないでしょうか?
音楽を聴きながらメモ帳とにらめっこして、感じたものをそのまま書いていく。
書き終わった後に読み返してみると、なんか釈然としない。
なんとか言葉を探って試行錯誤し、一番しっくりくる表現を見つけた時には、自分の感じていた感覚そのものも、変わっている気がする。
でも、何がどう変わったのか、上手く思い出せない…。

この「上手く思い出せない」部分が、言語化により失ってしまった部分なのではないか、と思えて仕方がないのです。

この違和感や変わってしまった感覚を取り戻すことは、決して簡単ではありません。

言語化がバイアスになるリスク

さらに怖いのは、一度言語化してしまった感想が、その後の体験にも影響してしまうことです。
たとえば、「この曲は悲しい」と一度言葉で表現してしまうと、次に聴くときもその「悲しい」という印象に引っ張られてしまい、本当はもっと別の感情も含まれているのに、それに気づけなくなってしまうかもしれません。

(この例では話をわかりやすくするために極端に簡素な「悲しい」という単語のみの感想を引き合いに出してますが、私が問題視しているのはもうちょっと長めのしっかりとした感想についてです。誤解を生まないよう注記しておきます)

音楽というものはその時の自分の感情や環境によって鏡のように魅力を変えるものです。
一つの曲に対しての自分の感想というのは、刻一刻と変わっていきます。
それが音楽の豊かで素晴らしい部分の一つだと私は感じています。

しかし、それが「言語化」という行為により、感じ方にバイアスがかかってしまい、その豊かさが制限されてしまうのでは?と思っています。

また、これが、TwitterなどのSNSで感想を発信するときには、さらに問題が大きくなると感じています。
文字数が限られているので、感想がさらに単純化されてしまいがちです。
そして、「うまいこと言ってやろう」とか「目立ちたい」「豊かな感受性を誇示しよう」などの意識が働くと、言語化による単純化や歪みをさらに助長するのではないか、と思っています。

言語化しないという選択

もちろん、言語化には有益な側面もあると思います。
これまで話は、そのまま「言語化による新しい魅力の発見」と言い換える事もできると思います。
また、他者と感想を共有し、対話することで、音楽体験そのものがさらに深まることもあるでしょう。
そして、商業的な場や応援を目的とした場面では、エキセントリックな表現や褒め言葉が効果的な場合もあるかと思います。

ただ、私は音楽体験においては、必ずしも言語化が必要だとは思わないのです。

音楽は、言葉にしなくてもその瞬間の感覚を楽しむことができるものです。

ただそのまま自分の中で感じて、言葉にしないまま残しておく。そうすることで、豊かな音楽体験を保てるという事もあるのではないかと思うのです。

終わりに

感想を言語化すること自体には価値がありますし、誰かとその感動を共有することも素晴らしいことです。

でも、無理に言語化しなくてもいい。
音楽を聴いたときに感じた「言葉にならない何か」を、そのまま大事にするという選択肢もあるのではないでしょうか。

言葉にしきれない感動をそのまま楽しむというのも、音楽体験の一つの形だと思うのです。
そして、それを静かに自分の中で育てていくのも、豊かな体験なのではないかと、私は思います。

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