小説:上高地にポール・エルデシュが来たら その1
謝辞・参考文献
※本稿において、本来は英語等で話されていると思われる箇所も多いですが、すべて日本語で表記します。
※本稿には実在の人物に似た人々が登場しますが、すべてフィクションです。参考にさせていただいた偉大な先達とその業績に、心からの敬意と感謝を申し上げます。
※司馬遼太郎が歴史上の人物を登場させて歴史物語を描いたように、近現代の人物を登場させて、近現代の物語を描くことを意図しています。しかし、もし権利者の方におかれましてご不満・抗議等おありでしたら、すぐに対応いたします。お手数ですが、こちら→の「クリエイターへのお問い合わせ」よりご連絡をお願い申し上げます。
★参考文献
昭和42年の夏
昭和42年の7月、東京の目白には、まだ江戸の名残のような古い小さな家がたくさん並んでいる。高い建物がポツポツと建っているが、空は広く、朝焼けがよく見える。
朝焼けが、真新しい木造二階建ての家があたっている。大きくはないが、たたずまいが良い。玄関に大きなリュックを背負った18歳の女の子アズサが立っている。
「もういいよー。おかーさまー、遅れちゃうよー」
アズサの目の前、小上がりを上がったところに、黒い浴衣で黒ぶちメガネをかけたおとーさんが腕を組んで立っている。
「もうちょっとだから、せっかくかーさんが作ってるんだから」
アズサがふくれる。おとーさんはあきれたように言う。
「まったく、おまえ、上高地って、そんな遠くまで行くことないじゃないか。英語できるんだから、どこか大使館でも世話してやるのに」
アズサがふくれながら答える。
「やよ。おとう様に紹介なんかしてもらったら、あっちに気をつかって、こっちに気をつかって大変よ。あちら様も気をつかうわよ。それにさ、出来たばっかりの、あたしと同じ名前の最新特急に乗らなきゃ。あれ乗ろうと思って受験がんばったんだからー」
家の奥から小走りにおかーさんが出てくる。風呂敷で包んだお弁当箱をアズサに渡す。
「はい。気をつけてね」
アズサが風呂敷をひったくるように受け取り、駆け出す。
「いってきまーす」
おとーさんとおかーさんは玄関の外に出て見送る。おとーさんが大きな声を出す。
「週に一度は電話するんだぞー」
アズサ、駆けながら右手をあげて、3軒ほど先の角を曲がって見えなくなる。
「今年はみんなで軽井沢に行けないのかー。しかし、なんでカワイイ一人娘があんなオテンバに育っちゃったのかなぁ」
おかーさんが笑う。
「あら、いーじゃないですか。健康だし、勉強できるし、カワイイし、オッパイも大きいし、、、」
おとーさんも笑う。
「まーなー。かーさんのおかげでよい娘に育ったけど、もうちょっとおしとやかになー」
おかーさんが少しビックリ。
「あら。おとーさん、おしとやかな女キライじゃない?」
おとーさんが苦笑
「まーなー。でも、オテンバな嫁もらうと娘もオテンバになるんだなぁ」
おかーさんが笑っておとーさんの腕を組む。
新宿駅のホームの丸時計が7時54分を指している。
大きなリュックを背負って風呂敷を抱えたアズサが階段を駆け下りてきて、ホームに止まっている電車をしげしげとながめる。前年の冬に開通した特急あずさの赤と肌色の車体が誇らしげに停車している。2両分しげしげとながめていると、発車のベルが鳴ったので、あわててドアに飛び込む。
松本駅ホームの丸時計が12時03分を指している。特急あずさ号が止まってドアが開き、大きなリュックを背負ったアズサが降りてくる。ホームに降りたアズサはリュックを下ろして、駅の向こうの遠ーくに見える北アルプスの雄大な山々にしばし見とれる。
橙色の小さな松本鉄道上高地線の電車が新島々駅に到着する。ドアが開いて、アズサが大きなリュックを背負って降りてくる。
新島々駅の改札を出ると、バスターミナルがある。窓口を見ると、メガネをかけた太ったおじさんがいる。
「いまダムの道路工事してるんでしょ?上高地までどのくらいで行くかな?」
太ったおじさんは少しぼんやりと答える。
「うーん、2時間半はかかっかなー。沢渡で休憩するし」
アズサが窓口の上にかかっている時刻表と自分の腕時計を見比べる。
「じゃ、13時40分に乗って、16時過ぎに到着?」
太ったおじさんも自分の腕時計と時刻表を確認する。
「ま、そんなもんかな。時刻表の予定だと15時54分到着」
アズサがお金を渡す。
「ずいぶんかかるのねー。座れるかな?」
太ったおじさんが半券を渡しながら答える。
「座れるよ。定員制だから。あれ?」
「え?」
「おじょうちゃんは、ずーいぶん、かわい子ちゃんなんだなぁ」
アズサ、満面の笑み。
「やだなー、おじさんだって、大きな電鉄会社の部長さんに見えますよ」
二人で大きな声で笑い合う。
「よし。じゃ、ちょっといい席にしてあげる」
太ったおじさんがアズサに渡した乗車券を引き取って、別の乗車券を渡す。
「はい。良い席にしといたから」
アズサ、満面の笑みで答える。
上高地への道
当時の上高地への道は、今とは比べ物にならないスゴイ道でね、まずバスがさ、ボンネットバスなの。見たことある?日本では昭和59年頃に運行されなくなったんだけど、非力で、乗り心地の悪い、むかーしのバスね。
バスにはバスガイドが乗ってる。一番前に立って、マイクで車内に向けて話してる。当時バスガイドは、新しい仕事で人気が高かった。特に、当時女性にはあまりちゃんとした仕事がなかったんだ。男尊女卑が色濃く残る世界だったから。だから、特に新しい仕事のバスガイドは人気が高くて、どこでも応募が多かった。
そして松本市の妙齢の女性たちから選抜されたんだろうね、このバスに乗ってるバスガイドも背の高いスラッとしていて格好がいい。
バスガイドが話終わり、バスの一番前の良い席に座って拍手を送っているアズサの横に座る。
「お嬢さんは、どちらから?」
「東京の目白です」
バスガイドが少し微笑みながらアズサを見据える。
「そう。都会の人なのね。上高地は初めて?」
見据えられるので、アズサは作り笑いを浮かべる。
「えぇ」
バスガイドが微笑んだまま、少し低い声になる。
「この先、東京では味わえない大変な道になるけど、気をしっかり持ってね」
「きっ、気を!?」
アズサは言った途端、バスがボコボコ、たいそう揺れ始めた。バスガイドは、微笑みを崩さない。
「いま、丸太を敷いた上を走ってるの」
マイコは「うげ」という顔になる。
「ま、まるた!?」
そう。丸太。当時は観光地でも道が舗装されてないのが普通だったから。
舗装されてない道ってのは、大雨や雪解けの時、土が流されちゃってすごいデコボコになるんだ。だから、上高地に向かう最寄り駅「新島々」から、所々丸太が敷いてあった。
ボンネットバスは、深いV字峡の崖の途中に引っかかったように作られている道を進んでいく。
バスの中で、アズサが窓枠につかまって、おびえたように、前方から見える、はるか下に見える梓川を見ているので、バスガイドが笑う。
「だいじょーぶよ。そんなになんなくても。これでも国のダム工事のおかげで2車線になったよの。それに、わが松電バスの上高地線は死亡事故起こしたことないから」
アズサがおびえたように尋ねる。
「あ、あの川に落ちたことないの?」
バスガイドが笑いながら言う。
「ないわよー。お客さん乗せないで落ちたことはあるらしいけど」
アズサが一層強く窓枠にしがみつく。バスガイドがケラケラ笑う。
新島々駅から1時間ほど走ると「奈川渡」っていう分岐路に出るんだけど、ここから上高地に向かう道が、一段とスゴイ道だった。そもそも観光用の道路じゃなくて、水力発電の資材を運ぶための道だから、質実剛健なわけよ。ガツガツ、タックルしてくるラグビー部みたいな道。
今はもう奈川渡一帯はダムになっちゃったから、何もかも立派になったんだけど、当時は、川のほとりにバスが一台やっと通れるようなハイキングコースみたいなのがあって、しかも両側に崖が切り立ってた。聞いただけで、なかなかスリル満点の道でしょ?
バスがその分岐路で止まっている。アズサがしげしげと回りを見渡している。
「こ、これは、鎌倉で見た「切り通し」そのまま。鎌倉時代に作られたという」
バスガイドが笑う。
「ははは。それ知らないけど、鎌倉時代に作られた感じではあるわね」
アズサが真顔で尋ねる。
「こ、ここを通って行くのですか?」
バスガイドが微笑む。
「そうです。行くのです。気をしっかり持つのです」
ボンネットバスがゆっくり走り始める。揺れる。ものすごく揺れる。バスが落とす石が、すぐ横に流れている梓川に落ちる。
アズサが窓枠につかまりながら川を凝視している。
「これは、道を走ってるというより、川を走ってるような。。。」
そんな道を、慎重に慎重に進んでいく。
ボンネットバスが川のほとりに止まっている。向こう側に、もう一台ボンネットバスが正対して止まっている。道幅は、バス1台ちょっと分。バス車内で心配そうな顔のアズサ。
「行き違えるの?」
バスガイドが軽く答える。
「違えないよ」
アズサ、ビックリして息をのむ。バスガイドが悪そうに微笑む。
「ま、見てなよ。東京の人にはスリル満点だから」
向こう側のボンネットバスがバックを始めて、ちょっとした凹みのようなところに入る。アズサがビックリする。
「え?あれで待避したってこと?」
バスガイドが悪そうに微笑む。
「そだよ。お楽しみはこれからよ」
アズサの乗っているボンネットバスが少しずつ少しずつ進んで、すれ違いを始める。あちらのバスとこちらのバスの間がものすごく近く、あちらのバスに乗っている乗客の恐怖の表情がありありと見える。
窓枠に力強くつかまっているアズサが一段と恐怖の表情になる。「コトコトコト」という音がして、そのうち「カラカラカラ」という音がしてきた。
「おねーさん、おねーさん、なに?あの音?なに?」
バスガイドも少し恐怖を覚えているのか、前方を凝視しながら流し目でアズサを見る。
「うしろの車輪が宙に浮いてるの」
アズサは目を寄せて小さく叫ぶ。
「でぇー」
「カラカラカラ」という音が続いている。
先述したけど、当時、新島々から上高地まで2時間半以上もかかった。そんな長い道中だったから、途中の沢登で一回休憩があった。
沢渡の休憩所に、上を向いてアズサが座っている。グロッキーの様子。バスガイドが瓶のコーラを持ってやってくる。
「(笑)だいぶこたえた?」
アズサが黙ってうなづいてコーラを引ったくり、グビグビ飲む。バスガイドが笑う。
「でも、エライよー。こんな山奥まで。女一人旅で」
アズサがコーラをグビグビ飲んで、「ふぅー」という顔をする。
「うぅん、旅じゃないの。アルバイトに来たの。げふ」
バスガイド、アズサを指さす。
「あぁー、あなたが村営ホテルの新しいアルバイトの子。このまえタカシくんが言ってたわ。日本で一番頭のいい女子大の英語の出来る才媛がくるんだって」
アズサ、照れる。
「才媛だなんて」
バスガイドがしげしげとアズサを見ている。
「でも、みんなで想像してた人物像とずいぶん違うわー」
アズサ、照れる。
「どんな人物像?」
バスガイド、やっぱりしげしげとアズサを見ている。
「メガネかけててね、化粧っ気なくて、髪が長くて後ろで束ねてるの。ひとっつも当たってないね。ははは」
アズサ、愛想笑い。バスガイド、まだしげしげと眺めている。
「あたしマイコ。よろしくね。あなたアズサさんでしょ?」
そこに、バスの運転手のジローが通りがかる。マイコが声をかける。
「あ、ジローさん、この人、この人よ、ほら、このまえ話してた村営ホテルにアルバイトに来る才媛」
ジロー、ビックリしながらしげしげとアズサを見る。
「あぁー、タカシ君が言ってた人?なんだ、ずいぶん美人なんだな」
アズサ、満面の笑み。
「そんなー、おじさまこそ『男と女』のジャン・ルイ・トラティニャンみたいでしたよ」
ジローがキョトンとしてマイコを見る。
「誰だ?それ?」
マイコが笑う。
「ステキなドライバーってことよ」
アズサが満面の笑みで尋ねる。
「おじさま、お疲れでしょ?運転大変だったから。コーラお飲みになる?」
ジローの運転するボンネットバスが、釜トンネルの手前で止まっている。運転席でジローが瓶のコーラを飲んでいる。
「いやー、不思議な味だなぁ。若いもんはよく飲んでるけど、これ美味いの?アズサちゃん?」
一番前の席にマイコと並んで座っているアズサが答える。
「うーん、美味しいっていうか、なんだろうな、また欲しくなるっていか」
前方を注視していたマイコが声をあげる。
「あ、ジローさん、行けるって」
ジローが前を見てボンネットバスを発進し、釜トンネルに入っていく。マイコが立ち上がってマイクで話し始める。
「ただいま、前進してよいとの合図がありましたので、釜トンネルを通り抜けます。このトンネルは、上高地への最後の関門であります。このすぐ先に思いのほか急峻な坂が待っており、8月のハイシーズンになりますと、力の無い乗用車が坂を登れなくなって渋滞を引き起こすこともシバシバです」
そう。今は自家用車は進入禁止だけど、当時は上高地バスセンターの横の駐車場まで入っていけた。
アズサが外を見ると「勾配15%」と記した看板が見える。ボンネットバスがすごい音を立てて進んでいる。
数分して釜トンネルの出口が見える。光が湧き出るようにボンネットバスを包むと、全面の展望が上高地に変わる。アズサが感嘆する。
「うわー、別世界だぁ。キレイだなぁ」
マイコが同意する。
「ほんとねー。あたしなんか毎日来てるのに、毎日キレイだと思うもんねー」
上司タカシ
ボンネットバスが上高地バスセンターに止まる。ドアが開いて、アズサとマイコが降りてくる。どんどんお客さんが降りてきて、マイコがお見送りをしている。みんな降りたところで、アズサがマイコに声をかける。
「マイコさん、ジローさん、いろいろありがとうございました。助かりました」
ジローが運転席から声をあげる。
「なんか困ったことあったら言いなよー。俺たち上高地専門で、毎日往復してるから」
アズサが黙礼する。マイコが指さす。
「あ、いたいた。あれがタカシくん」
マイコがタカシに手を振る。タカシがボンヤリと近づいてくる。「安曇村村営ホテル」と記されたノボリを持っている。マイコがアズサの手を引いてタカシに近づく。
「はい。タカシくん。この娘がお待ちかねのアズサちゃんよ。やさしくしてあげてね」
マイコが好意に満ちた笑顔を向けると、タカシはボンヤリと目だけを向ける。アズサは、18歳とは思えない堂に入った愛想笑いを浮かべながら、一礼する。
「はじめまして。アズサです。よろしくお引き回しください」
タカシが目をパチクリさせる。
「お、お、お引き回し??」
晴れた日の、上高地バスセンターから河童橋に向かう時に見える穂高岳は、今も昔もうつくしい。雄大で清澄な穂高岳が迫ってくる。アズサは、思い描いた穂高岳を眼前にして、感嘆のあまり思ったことを口に出した。
「いやぁー、美しいねー」
タカシは、ボンヤリと歩きながら、興味なさそうに「うん」とだけ、うなづいた。アズサの鼻の下が少し伸びた。ひとっつも話は盛り上がらない。
いるよね。こーゆー男。なんだろうね?
ま、タカシの場合は、話したくないわけじゃなくて、アズサに圧倒されてるんだ。
日本で一番頭の良い女子大出た、英語のできる才媛が来るっていうから、みんなで想像したところ、あんまりしっとりしてない、「ぎひひひ」って笑うような女の子だろうと思ってたら、アズサみないたソツのないいい女があらわれて、しかもアズサは、当時の日本人女性としては珍しくオッパイも大きいし、そんな娘を前にすると、当時の男性は固まっちゃう人が多かったんだわ。
『男はつらいよ』って映画あるでしょ?昭和の国民的映画シリーズ。主人公の車寅次郎が、美しいマドンナに惚れては、カッコつけたり、ドジったりして、失恋するってのがおなじみの流れなんだけど、あの車寅次郎って、当時の男性のデフォルメなんだよ。いや、ほんとに。
たぶん、教育がね、イビツだったからじゃないかな。だって戦前は、「男女七歳にして席を同じゅうせず」とか言って、小学校の2年以降は男女でクラスわけてたくらいで、学生時代であっても、男と女は気軽に話すなんてことはなかったから、昭和42年になっても、その名残があったわけさ。
いまいち信じられない?
じゃ、もう一つ。『明日があるさ』っていう曲があるでしょ?昭和38年に発売された、坂本九が歌った名曲。作詞は青島幸男、作曲・編曲は中村八大。
あれさ、「高度成長期の明るさで、今の暗い日本を照らそう」みたいな文脈で2000年頃にリバイバルブームが起こったから忘れられがちだけど、ほんとはシャイな若者の恋愛の歌なのね。
好きな女の子になかなか声をかけられず、なかなか電話もかけられず、当時は家の電話ね、そしてやっとデートしてもなかなか「好きです」と言えない若者が、「明日があるさ」ってエクスキューズしてる歌なわけ。
つまり、当時の男性っては、みんなそんな感じで、女性と気軽に話せないのがスタンダードだったんだ。
そんなわけで、アズサとタカシは、会話も盛り上がらずに歩いて、河童橋を渡って梓川の対岸に行き、川沿いに並んでいる数件の宿の一件「安曇野村村営ホテル(以下、村営ホテル)」に入った。
村営ホテル支配人
午後の4時半。黒縁メガネをかけた村営ホテルの支配人が、従業員食堂に急いでいる。
「今日は休憩遅くなっちゃったな。大好きな羊羹を食べて、熱いお茶を飲んで、ちょっとゆっくりしてから、早く仕事に戻らなくちゃ」
なんて考えて歩いてたら、従業員用食堂の廊下の窓から、中に人がいるのが見える。
「あれ?」
支配人は混乱した。村営ホテルは山の中にあるので、宿泊客以外の人はめったに訪れない。つまり、見知らぬ人がホテルの中にいるということは、ほとんどない。
「キミ、キミ、キミは誰?」
中では、アズサがきょとんと座っている。
「え?アズサです。東京からアルバイトに来た、、、」
支配人がアズサを凝視して黒縁メガネを触りながら食堂に入ってくる。
「アレ?アレ?アズサくんのことはタカシくんに頼んだんだけど、、、」
アズサが苦笑した。
「えぇ。ここに連れてきてくれただけど、「ここでちょっと待ってて」と言い残して出ていってから、はや一時間、、、」
主任がブツブツ言いながらアズサの向かいに座る。
「ボク、主任。よろしくね。あのね、着いて早々なんだけどね、タカシ君には気をつけてね。あの人、できないから。いや、できるんだけど、なんてゆーかな、ヌけてるから」
アズサが、よくわからない顔でうなづく。主任が黒メガネに手をかける。
「英語はできるんだけどね、フランス語も出来るけど、、、」
アズサがビックリする。
「えぇっ!さっき日本語もできたから、三カ国語も!?」
当時、二カ国語話せる人も少なかったけど、三カ国語話せる人はもっと少なかった。英国で生活していたアズサでさえ会ったことないくらい少なかった。主任が苦笑する。
「うん、そうなんだけど、なんかなー。彼がキミの上司ってことになるんだけど、色々気をつけてね。ホテルのためにも。最初からへんなお願いして悪いけど」
同じ頃、タカシは洗濯室に突っ立って、ボンヤリ外を見ていた。
上高地にすっかり夜が来た。
村営ホテルに、ポツポツ灯りがともっている。
村営ホテルのフロント前の小さな電話室で、アズサが電話をしている。当時、携帯電話なんてものはないから、固定電話ね。
「無事です、無事です、すごい道のりだったけど、上高地は美しいよぉ。お父さまもお母さまもこの夏一度来ればいいのに。
じゃ、あんまり電話してると高くなるから、うん、うん、いや、そうだけど、払うのはお父さまだけど、ま、ま、また来週ね。はい、はい、はーい」
アズサが電話室を出て、フロントに立っている主任のところに行く。
「670円でした」
主任が紙に値段を書き入れて、アズサに見せる。アズサがその紙にサインをする。主任が気の毒そうな顔。
「大変だねぇ。毎日電話するの?」
アズサ、作り笑顔。
「いえ、週一回。これがバイトする条件なんで」
「そーかー。そーだよねー。心配だよねぇ。可愛い一人娘がこんな山の中にねー」
アズサが愛想笑いで答える。
掃除婦ナオミ
アズサが従業員食堂に入っていくと、小太りな娘がマンジュウを並べて食べている。アズサに好意に満ちた笑顔を向ける。
「あ、あなたアズサさんでしょ?あたしナオミ。お掃除担当しているの」
同世代の二人は、たちまち意気投合して、二人でマンジュウを食べ始める。アズサがマンジュウを食べながら食堂を見回す。
「なんか人少ないね。アルバイトって、あたし達だけ?」
「うん。今はね。まだシーズン始まってないから。これからドンドン増えてくるらしいけど。ねー、タカシさん?」
ナオミが3つほど向こうの机に座っているタカシに声をかけた。タカシは色んなものをボロボロと落としながら、マンジュウを食べることに苦闘しており、ナオミに声をかけられてビックリしている。
「えっ!なに!?」
「アルバイトもお客さんも、これから増えるんでしょ?」
よく見ると、タカシの口の回りが白い。
「うん。来週あたりから8月末まで、すごーく増えるよ」
タカシが口の回りを白くしながら微笑して、マンジュウとの格闘を再開する。ナオミが小声でアズサに話しかける。
「あの人、タカシさん、去年の夏から冬通しているの。冬は上高地閉じちゃうからさ、冬通してアルバイトしてくれる人ってなかなかいないの。だからあの人がアルバイトの一番上なんだけど、なんか、いつもボーッとしてるのよねー」
アズサがうなづく。
「主任にも言われた。気をつけてねって」
タカシはマンジュウを食べるために苦闘している。
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