この場所に居るための許可
前提のある質問が苦手だ。
前提のある質問とは、たとえば「好きな人は誰?」「子どもはまだなの?」「いつまでもそんなことしてないで、就職しないの?」などである。発話されていないが、その前提として「恋愛・子ども・就職はあたりまえの幸せだよ」が隠れている。
わたしは前提を共有していないので、ぽかんとして(え、ああ、そういうのが幸せな村の人なのね)と思うのだけど、ぽかんとしている間にお相手の説教が始まっていたりして、何かを言うタイミングを逃してしまう。つくづく、善意に基づく説教はすごく人気のある娯楽だな、などと思いながら、薄ぼんやりと時間を過ごす。
お説教の嵐の中にいたとき
いま、「恋愛」や「就職」「夢」が上手く行っていない主人公の物語に取り組んでいて、わたしが20代のころ、今よりもっと「善意お説教」が強烈だったころは一体どういう風に過ごしていたかな、と思い出している。そのお説教嵐の中で、自分のやりたいように過ごすには、いちいち前提に反論しなければならなかったことを思い出す。
恋愛に興味はありません、就職しないのは必ずしも自己責任ではありません。しかし善意で言っている人たちは前提を疑ったこともないので、大抵は徒労に終わるし、徒労になるだろうと踏んだら意見を口にしないことも多かった。そのようにして人間関係を減らすこともあった。
でも、疲れている時は、「そう聞かれるからには、きちんと反論しなければいけないのではないか」と思うこともあった。そもそもやるつもりのないことを「なぜ○○しないのか」と言われ続けていると、それがとても重要な、それをしないほうが社会的に欠落しているような性質のものに思えてくるのだった。わたしの10代や20代のころの挫折感はほとんどこの感覚に根ざしているかもしれない。
人には、ありのままの自分にしっくりくる言葉を話して、それを言葉のまま受け取ってくれる環境が必要で、その環境の無い時期、決まって「私の生存は不適切なのではないか?」という非論理的な疑問が体の中から沸き起こってきた。そしてほんとうに体調の悪いとき、自分を自分の責任でこの世から退場させなければいけない、という非論理性の極みのような欲動が、同じ場所から手を伸ばしてくるのだった。
プレゼンテーションと許可
しかしなぜこんなにもプレゼンテーションをしなければならないのだろう。子供の頃の家庭の話について上司に公衆の面前で聞かれた時は辟易した。無遠慮な質問に自分の言いたくないことを話すのはストレスなのである(その時は言いませんでした)。嘘でやり過ごす人もあるだろうが、わたしは信念上の理由で嘘をつけないので、憎たらしい人のために不妄語戒をおかすのもいやなのだ。
人の多様性について語ろうという動きが広まっている。しかしその一方で、「それはきちんと考慮する必要のある多様性なのか?」と聞かれる場面も同時に増えている気がする。「前提として私は少数派であり、このような事情がありますのでわたしのありのままを認めてください」というような。
行政の手続きに限らず、一般の、SNSにいる人たちもそういう「しょうがないなら、説得してくれれば許可する」という目線を持っている人が多いと感じる。
とても窮屈だな、と思う。数年前に「ありのまま」が流行ったけれど、(余談ですが私は映画のアナと雪の女王が本当に大好き!)それはただありのままでいられる余地が社会のほとんどどこにもないからだろう。
曖昧なものや言葉になっていないものは無いことにされ、良くも悪くもないけどちょっと怪しいなあというものは簡単に「悪い」の方に振り分けられる。見逃される余地がない。そういう流れに脅威を覚える。
曖昧な、良くも悪くもないものの場所はないといけないし、そういうところだけから生まれる新しいものがある。そしてわたしはそれを守る作品を描いた方がいいのだ。
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先日、証言・行政・当事者性という記事を読んでいた。水俣をめぐる差別と支援・当事者性についての記事だ。その中にとてもいい指摘があり、今日の話と通じることかも…と思うので、最後に紹介する。(わたしの雑記noteで紹介するのも気がひけるほどの良い記事です。ぜひ)
「過去にこれがあった」という他人の話を、私たちは日常生活において、90%くらい「だよね」と疑わないで流している。残りの10%が例外なんです。だから、証拠を求めるというのは「お前の証言を信じない」というメッセージなんです。証言はふつう証拠として聞く。
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「信じられない!」と言われるものを弁解し続けるのは大変だ。その人がその人らしく生きることはただの生存で、生存に許可はいらない。