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人を好きになることと、「恋人」や「友達」をやることの遠さ

小学校の頃好きだった子のことをマンガに描こうと思っている。

ここでの好きは性愛ではない。彼女は親友だった。友情と恋愛の違いがわたしにはよくわからない。「恋愛関係にある恋人」には性的接触の許諾をあたえる(「友達」にはあたえない)こと以外、友情と恋愛の差はなく、好きという感情の面での違いはないような気がする。性欲が入ってくると違うのかなと思うけど、でも性欲と好きはべつのファクターだから。

このとき私たちは少女だったが、女性ではない。少女らしさには率直なこと、よく走ること、聡明であること、生き生きとしていることが含まれていた。以前インタビューで読んだ未性の状態に近いかもしれない。環境に名指されるアイデンティティの希薄さ。

幼いころ環境はすべてがあやしかった。テレビの中の人はずっとテレビに入っててもいい人が選ばれているんだと思ったし、道をゆく黒猫は突然「セーラームーンになってよ!」と言ってくるかもしれなかった。神さまは空の上の雲を固めたところにいつも立ってるんだろうし、読めない標識の向こうにある道は異世界につながっているのかもしれないと思った。ぼんやりと、しかし本気で。

年齢がすすむにつれ、環境は薄い膜がかかったようになった。薄い膜の向こう側とこちら側では、起こっていることが違うようだった。小学校に上がり、向こうでは「おおきなこえであいさつするのはいいことです」とか「りかちゃんとなかよくしないほうがいいよ」とかいう話をしている。こちらでは頭の中に言葉がうかんでいて、それはみんなには聞こえない。自分が持つ実感と環境は別ものであること。しとしと降る雨の中を歩いていって明るすぎる教室に入るときや、クラスのみんなから離れて校庭の隅で枯れた山茶花をむしっているとき、つよくそのことを感じた。

さて、どうやって彼女が向こう側から現れたんだっけ?

彼女と親しくなったきっかけは思い出せない。絵がすきだったわたしたちは何冊もの交換日記をし、見開きで交互にマンガの連載をし、オリジナルキャラクターを100個つくった。だんだん笑い声が大きくなりクラスの前で先生に初めての注意をされ、「コジマさんってまじめだとおもってたけどめっちゃおもろい」と他の子に言われた。二人だけの帰り道には、わたしはお母さんに怒られたことを話し、彼女はお姉ちゃんとケンカしたことを話した。彼女にだけ、将来の夢も話した。マンガ家になりたいと言った。彼女は画家になると言っていた。

たった二人だけで親密な話をする時、そこには二人にしか通じない言葉が流れている。環境に自分が疎外されているような感覚はなくなり、二人が発する言葉も、それがどちらが言い出したかわからないようになってくる。わたしが彼女に感化されていたのか、彼女がわたしに感化されていたのか。人を集団対個人で捉える時、個人には集団から与えられた肩書きが必要だけど、一人対一人であるときにわざわざ肩書きはいらない。二人で作った言葉があるだけだ。

私は今まで一度だけ「恋人」という関係を持ったことがあるのだが(上記の彼女ではなく、今の夫。)、最初は「さぁ恋人になりましょう」ということで始まったけれども、だんだん「恋人」とか「男」とか「女」とか、社会の視点を前提した役割を持ち出す必要がなくなってしまった。育ちの違う一人と一人の人間が信頼関係を作りましょうというときに、第三者視点を参照することにあんまり意味がないのだ。

ポジショントーク、親友とは、恋人とは、男とは女とは…というテキストが人気があるのはわかるけど、それだけでは書ききれない、人と人との関係性の達成みたいなものがあることを、ほんとは多くの人が経験的に知っていると思う。友情でも恋愛でもない女でもない、二人のあやしいところを、作品ではちょっとでも描けたらいいなと思う。


追記)ここで考えていた構想が、『毎日ちゃんとの毎日』という作品になりました。よろしかったら覗いていって下さい。

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